背後に立つものは、
佐々井 サイジ
第1話
パソコンのキーボードを打つ指が止まった。画面を見たら日本語の文章を打ったはずなのに、全てアルファベットが羅列していた。変換し忘れていたことに気づいた。
「ああ、やる気なくなった」
壁時計を見れば午後十時十二分となっている。電車は五分前にすでに行ってしまった。今日は保護者懇談が始業時から立て続けにあり、パソコン事務ができなかった。いや、隙間時間でやろうと思えばできるのだが、神経を使う保護者ばかりだったので、スマートフォンでSNSを見ながら休憩を優先した。
「懇談続いたらパソコンできねえんだから残業代くらい出せよな」
島本の愚痴は二部屋分の教室にむなしく響いた。立ち上がって教室を眺めると、消しカスが乗ったままの机が乱れていた。日頃、アルバイト講師には退勤時に自分の使用した席は掃除して整えておくように言っているが、所詮はいい加減な大学生だ。島本は舌打ちして元の席に座った。
個別指導塾を運営する会社に就職して七年目、教室長になって五年目。子どもの成績があがると嬉しいことは変わりないが、指導したことを改める気のない大学生講師や意味不明な理由でクレームを入れてくる保護者、何度も原因・改善策を再提出させてくる上司のブロック長と日々接しているうちに、すっかり仕事への情熱は冷めてしまった。現在は、最低限、怒られない程度の業務をこなしている。会社から降りてくる業績目標はここ三年達成していない。
トイレに行こうと教室を出ると、真っ暗だった。このビルの他のテナントは夕方に終業を迎える。
「午後十時半になると、入口のシャッターが自動で降りるようになってますんで、それまでには生徒を帰らせてくださいね。出られなくなりますから」
気が弱そうな初老の男がオーナーだった。あの時は適当に返事をしていたが、腕時計を見るともう十時半を過ぎていた。教室で呆けている時間が予想以上に長かったようである。
「本当に開かねえのかな」
島本は二階から一階につながる、ゆったりと曲がった螺旋階段を降りた。このビルは基本的に簡素なデザインにもかかわらず、この階段だけが趣向を凝らしていて浮いている。
一階の出入口となっている自動ドアの前に立つがやはり開く傾向はない。そもそも自動ドアのすぐ奥には分厚そうなシャッターが下りていて、外の光が一切入らず、手で何かに触れていないと自分がどこにいるかわからなくなるほどだった。
「裏口はどうだろう」
ビルは自動ドアとは正反対の方向に進むと裏の駐車場に出られる扉がある。島本はその扉のノブを掴んで力を入れてみた。しかし開くことはなかった。そのとき、高い電子音が鳴り始めた。島本は早歩きで戻って階段を上り、トイレに入った。トイレはセンサー式の照明なので、自動的に明かりがついた。もしかしたらドアを無理やり開けようとしたらセンサーが反応し、自動的に警備会社に届く仕掛けになっていたのかもしれない。
島本はトイレの個室に閉じこもりながら大きくなった鼓動が落ち着くように手を当てた。自然と口の端が持ち上がった。大人になってくだらないいたずらをするとは思っていなかった。電子音はしばらくなり続けたあと、突如として停止した。警備会社の人間が来る気配もない。来たとしても正直に話せばよいだけである。
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