悪郎の幸福論

ま行

第1話 プロローグ

 魔界、それは悪魔たちが棲まう世界。そこにいる無数の悪魔の内の一人、名も無い一般悪魔は上司から呼び出されていた。


「君ねえ、何度言ったら分かるのかな?」

「はあ」


 一般悪魔は気の入っていない返事をした。それを聞いて上司悪魔は頭を抱える。この一般悪魔を呼び出して注意するのはもう何度か繰り返していることだった。その都度生返事をされていて、上司はいい加減すっかり頭にきていた。


「またそんなやる気のない返事をして!君ねえ、そんなんじゃいつまで経ってもノルマ達成率も低いままだよ!?」

「はあ、すみません」

「はあ、すみません。じゃあないよ!私だってこんなに何度も呼びつけて叱りつけるほど暇じゃあないんだよ?これで何度目だい!?まったく!」

「覚えてないっすね」

「それは私もだよ!覚えてられないほど叱られているって自覚はあるのかい!?」


 上司は深い溜め息をついて落胆の表情を浮かべた。そこまであからさまな態度を示されても、一般悪魔はいまいちピンとこないままに頭をぽりぽりと掻くばかりだった。


「…この質問も何度したか分からないけど、何か悩みがあるのかい?」

「いや特にないっす」

「それも何度も聞いたなあ…、なら何故そんなにやる気が出ないんだい?」

「うーん、どうしてかなあ?自分でもよく分からないんですよね」


 返答を聞いて上司は眼鏡を取ると眉間をつまんだ、もはやため息もなくただただ落胆の意を表している。


「もういいよ。あっ、いやよくはないけど、今の所はいい。君にも分からないことを問いただしても時間の無駄だからね」

「それはそっすね」

「…しかしどうしてこうも業績が悪いのかねえ。君、一応名門大学を首席で卒業したんでしょ?」

「学校の成績は常にトップでした」

「そう聞いているよ。だから悪魔の花形である部署の総合堕落課に配属されている訳だしね。実績も積んでいない内から中級悪魔に認定されたのは君が初めてなんだよ?」

「でもですね、こういうのは悪いと思いますが、俺はそうなりたくてなった訳じゃあないんです。言われた通りにやっていたらいつの間にかそうなっていただけで」


 一般悪魔の発言に、上司は慌てた様子で黙れと口元に指を当てた。周りをキョロキョロと見回して発言内容を聞かれていないかと確認する。


「そういう不用意な発言は控えなさい、君はただでさえ妬まれてるんだから」

「はあ、どうしてですか?」

「成績優秀者だからって優遇されているからだよ!普通は他の課でコツコツ下積みを重ねてからこの課に配属されるんだよ。君が収まった枠は常に取り合いの激戦区なんだよ?」

「へえ、言われるがままにしていたから知らなかったな」


 上司の言う通り、一般悪魔は魔界でトップの大学を卒業し、すべてにおいて最高成績を修めた誰も文句のつけようもない精鋭中の精鋭であった。


 他の悪魔にとっては高く険しいハードルを難なく飛び越えて、エリート街道を突き進む存在。僻みや妬みの対象になるのは必然であった。


 しかしそれ以上にこの一般悪魔は周りの和を乱してしまう、その理由はエリートであるにも関わらず最悪の数字を叩き出した堕落業績の悪さだった。人間を堕落させその魂を魔界へと引きずり落とす。それが悪魔の役割であり、目標であった。


 魔界には煌々と燃え上がる魔界の業火がある。そこに堕落させた人間の魂を燃料として焚べると、業火は更に火力を増し燃え上がり、それが悪魔たちの力となった。焚べられる魂は人間のもつあらゆる負の感情がたっぷりと蓄えられた贅肉だらけの堕落した魂がより好ましい。


 人間を堕落させ穢れた魂を回収しそれを業火の中に焚べる。これを繰り返すことで強い力を得て強大な悪魔となり、いつの日か名を持つことを許される大悪魔となることが、すべての悪魔たちにとっての本懐であった。


 そのために名のない悪魔たちは日々努力をし、あらゆる手段でもって人を堕落させる、そして悪魔の誘惑に負けた人間の穢れた魂を魔界に持ち帰り業火に焚べる。それが堕落業績の内容だった。


 一般悪魔もそのことを理解していない訳ではなかった。しかしどう頑張っても自分のやっていることが一向に腑に落ちず、悪魔の行動に意味を見出すことができなかった。


 名のある大悪魔になりたいという願望もなければ、魔界と同胞に貢献したいという欲求もない。本当にただ言われるがままのことをこなしている内に、一般悪魔は大学を首席で卒業して、流れ作業のように総合堕落課に配属された。


 やる気とやりがいを見いだせない一般悪魔にとって、上司からの叱責の内容はどうしても実感がわかないものだった。上司も一般悪魔の馬耳東風ぶりを見て、もう一度深くため息をついた。


「あまりくどくど説教しても仕方がないからこれくらいにするけれどね、淫魔課なんかすごいよ?積極的に売り込みに行くし文字通り精力的だよ?」

「へえ」

「でもねえ、最近どうしてか日本で活動する淫魔課の悪魔が何人か帰ってこなかったりするんだよねえ。何があったんだろう」

「それって問題にならないんですか?」

「大問題だよ。まあ淫魔課は活動内容的に人に入れ込みやすいからそれが原因かもね。君は問題はないだろうけど」


 そもそもあまり堕落させてこないし、そうぼそりと小声で上司は言った。一般悪魔にその小言は届いていたが、聞こえていないフリをした。


「いいかい、こうした問題行動を繰り返すと突然最下級悪魔まで降格させられることもあるんだからね?これは業績の悪さも同じだよ。君もこの調子だと下級悪魔に降格させられるよ、私だって庇いきれないからね」

「分かりました。気をもませてしまい申し訳ありません」

「君は好成績を修めてきてはいるんだから、コツさえ掴めば魂の堕落もそう難しくない筈だよ。期待しているから頑張ってくれたまえよ」


 上司が発した期待という言葉は建前で、実際の所一般悪魔はほぼ見限られていた。期待はされておらず、そのうち降格して姿を見ることもなくなるだろうと思われていた。


 鈍くはない一般悪魔はそれを分かっていた。自分が期待外れという評価を下されていることも、疎まれていることも分かっていた。しかしそれでも態度を改める気にはなれなかった。


 燃え上がる魔界の業火が遠くに見えた。一般悪魔は淀みきった空を見上げると、ため息をついて自分のデスクへと戻った。




 悪魔の本懐、魔界に棲まうものとしての義務、それは目標であり生きる目的でもある。周りの悪魔たちもギラギラした目で堕落に励む姿が見られた。一般悪魔はそんな姿を横目に、やはりあのようにはなれないと思っていた。


 自分は悪魔としてどこか欠陥でもあるのだろうか、そんなことを一人思案した。相談できる場所はあるのか、自分に問題があるのなら治療しようという意志もあった。


 しかしもし治療を受けたとしても自分がやる気になるのかと自問すると、そうはならないのではないかと不安だった。この問題はもっと根が深いという根拠のない確信が一般悪魔の中にはあった。


「どうしたもんかねえ…」


 独り言が自然と口をついて出た。危機感がないなと思いつつも、どうしようもないという諦念も感じた。自分は悪魔として大成できないだろう、先のことは誰にも分からないがそれでも仕方がないと一般悪魔は思った。


 そんな時、一般悪魔の目の前に突如魔法陣が現れた。悪魔召喚の儀式を何者かが行っている、自分が呼び出されるのは久しぶりだと行き先を確認する。


「おっ、噂をすればってやつだな」


 場所は日本で、呼び出した者の名は「佐久間 さくま しん」齢14歳の男性だった。子どもが悪魔を呼び出して何をしようというのか、悪魔に魂を売るという行為の真意を知らないであろうことを思うと、顕現するのに躊躇した。


 それでも一般悪魔は呼び出しに応じることを決めた。尻に火がついているという事情もあったが、この男が代償を支払ってまで悪魔に何を望むのかに興味がわいたからだった。




 この出会いが悪魔の運命を大きく変えることになることを、この時はまだ知る由もない。ただ一つだけはっきりとしていることがあった。これは悪魔が本当の幸せを見つける物語である。

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