海月は虚を舞う

若草八雲

再会

“15時過ぎまでならいるよ”

 突然送られてきたメッセージに、僕は呼吸を忘れて画面をみた。

 連絡を取らなくなって随分と経つ。積極的に連絡をとらなかったのは僕だが、まさか彼女の方から連絡が来るなんて思ってもみなかった。

 続けて届いた写真は、見覚えのある景色だった。あの日からずっと覚えている。30分程度で着けるだろう。けれども、真面目に授業をきいていたら15時になんて間に合わない。

「体調が悪いので保健室いきます」

 講義を遮って宣言する。わき腹を押さえて前かがみになりながら立ち上がり、スクールバッグを足に引っ掛けると逃げるように教室をでた。教室のドアを閉めると同時にバッグを蹴り上げて手でつかむ。

 追いかけてくる誰かのことは考えず、無心で玄関まで歩いた。

 真面目な生徒のふりをしても得られるものはほとんどない。携帯の画面に映るメッセージを取りこぼしたら後悔する。その確信だけが僕の背中を押した。


 僕らが通う学校の校舎と正面に広がる海を上から覗きこむように撮影した写真。それが撮影できるのは、校舎の真裏にある崖の上だけだ。そして、その場所には彼女がかつて暮らしていた家がある。彼女の家の庭先、崖の少し手前に立ってカメラを向ければ同じ風景が撮影できる。

 君はあの日のことを覚えているか? 写真の主は僕に尋ねている。もちろん、覚えている。すぐにでも返信したいのに画面を滑る指は送信ボタンを器用に避ける。

 結局、僕はメッセージを信用できていない。だから、“待ってくれ”とも“これから行く”とも送れずに、無言で歩くことしかできなかった。我ながら愚かだと思う。

 彼女の家は学校の敷地の目と鼻の先だ。けれども、二か所を隔てる崖は高く、まっすぐ崖をのぼる道はない。彼女の家へ向かうには、海岸に面する正門を出て、海沿いの道を大回りし、崖の上へと続く坂道を歩くしかない。

 記録的な高温の予報が出ているためか、人間も車も通らない。遠くに聞こえる波の音以外、何一つとして音のない道を、照り返す白い光を背に受けて必死に歩く。校舎を出る時に通学用の自転車を使うか迷ったけれど、急こう配の坂道を自転車で登れるほどの体力は僕にはない。

 それにしても、予想以上に外は暑い。坂の中腹にたどり着くころには、季節外れの夏服が汗で貼りついて気持ちが悪い。口から漏れる呼吸が顔にかかるだけで暑くて意識が遠のきそうなくらいだ。せめて校内の自販機で何か飲み物を買ってからでればよかっただろうか。僕はメッセージ一つに何を動転していたのだろう。

 不意に頭の奥が冷えていくような感覚に襲われる。

 だってそうだろう?

 彼女と連絡が取れなくなったのは随分と前で、原因はたぶん僕にある。それが彼女から自宅の写真と一緒に連絡が来るなんて都合の良いにもほどがある。

 でも、手元の画面には教室でみた写真とメッセージが確かにある。

「そういえばあの日も酷く暑かったな」

 連絡を取らなくなったあの日、あのときも僕はこの坂道を歩いていた。もっとも、記憶の中の僕は、今とは逆で校舎に向かって坂を下っていた。

 何でそんなことになったのかって? 覚えているけれど、思い出したくもない。

 今はとにかく彼女の家に向かいたい。全部そこからだ。


***


 ダークグリーンの屋根が目立つ二階建。敷地を囲む門につけられたブラウンのアコーディオンシャッターは照り付ける日差しを一心に受けて像がぶれている。

 空き家は老朽化が早いと聞いたことがあったが、意外なことに記憶にある外観とほとんど変わらない。違いは敷地内の植物が大きく育っていること、それとアコーディオンシャッターの奥、庭へ続く脇道に、見覚えのないツートンカラーのコンパクトカーが停車していることくらいだ。

「誰かいませんか?」

 敷地内に声をかけ、アコーディオンシャッターに手をかける。シャッターが音もなく開いたものだから、気味が悪くて腰が引ける。写真の場所は家の裏手だ。ここで立ち止まっていてもメッセージの主には逢えない。

 小さく深呼吸をしてコンパクトカーの隣を足早に駆ける。そのまま家の裏手へ足を踏み入れる。あの頃、彼女の家族が手入れをしていた芝は主の不在につけこんで好き放題に伸びている。足首を覆い隠すほどに伸びきった雑草が広がる庭は、記憶と違っていたけれど、その先に見える海岸と水平線は写真の景色と同じだった。

 やはりここから撮影されたのだ。

 時計は14時を指している。リミットまであと1時間。メッセージの通りなら、庭が見える位置に彼女はいる。見渡すと2階の窓から庭を覗き込む顔が見えた。

「本当にいたんだ」

 再会にあたっての一言にしては実に素っ気ない。彼女は窓を開けて少しだけ身を乗り出した。あの頃とは違うネイビーのスーツが見える。

「“いたんだ”ってなんだよ。いるよ。ここにいる」

 一言目はもっと違うものを考えていたのに、彼女の反応に反射的に口が動いた。

「本当に君なんだね、ちー」

 彼女は、彼女だけが使う愛称で僕を呼ぶ。本当に彼女なんだ。

「あのさ」

「なに? 私に会えてびっくりした?」

「それは……びっくりした」

「奇遇だね。私もだよ」

「連絡したのは君のほうだろ」

「ここに来たのはちーだろう?」

「それはそうだけど……」

 いざ顔を合わせると話そうと思っていたこと、話したいことが消えていく。

「忙しかったんじゃないのかい?」

「別に……その、会えるなら……」

「会えるなら?」

「だから、会えるなら今。その……」

 その一言が出ない。あの日と同じ。本当に伝えたいことは常に言葉にならない。

「ただいま。ちー」

 彼女が何を察したのかはわからない。それでも。

「おかえり。また会えてよかった」

 少なくてもこれは僕の心からの言葉だと思う。


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