癒やしっこ

水月 梨沙

彼女の部屋で、二人。

「ねぇ、癒やしって何なんだろうね?」


ある日の、家庭教師のバイト中。

急に質問してきたのは、僕の生徒である御園生麗花ちゃんだ。

麗花ちゃんは、とても頭が良い。大学で勧められるままに家庭教師を始めた僕なんかよりも、ずっと物事の飲み込みが良かった。


そんな彼女が何故、今もこうして僕に家庭教師を続けさせてくれているのかといえば、ひとえに『親の為』らしい。

麗花ちゃんの親は、あまり褒めてくれない上に体裁をとても気にするとの事。

だから、こうして『良い子で勉強をしていれば』たとえそれがふりだったとしても(バレなければ)それだけで納得して落ち着くのだそうだ。

波風を立てずに、お利口さんでいる。

そんな麗花ちゃんから零れ落ちた今日の一言に、僕は考えた。


「癒やし、かぁ……」

「先生は『癒やしが欲し〜い!』って思う事ってないの?」

「そりゃあ……あるよ。くたびれて電車に乗った時とかなんて、特に」

「しかもその電車が混みまくってて、余計に疲れが溜まったりする時ってあるよね」

「あるある。地獄。心の底から早く帰りたくなるよ」

「分かるなぁ、そういうのって多分みんな一緒だよね」

「でも、癒やしについては人によって違うんじゃないかな?」

「そう?」

「だって、僕はタバコとかを吸ってる人の気持ちは分からないし」

「先生は煙に弱いって言ってたもんね」

「むせてしまうんだよ。でも、すっごく美味しそうにというか……何かから解き放たれているような顔をしながら吸っている人がいるから、もしかして極上の癒やしなんじゃないかって思う時がある」

「羨ましいの?」

「そうだね、出来る事や幸せに感じる事が沢山あるのは『いいなぁ』って思うよ」

「なるほどねぇ……」


麗花ちゃんは、ぼんやりと答えた。

ん? よく考えたら麗花ちゃんもタバコは吸えない。なのにこんな返しをしてしまって、不適切だったというか『つまらない』と思わせてしまった……!?


「えっと、今のは一部の人の癒やしの話って事で……」


僕は慌てて他の答えを探す。


「例えばだけど、『動物』だと答える人は多いんじゃないかな」

「アニマルセラピー、ってやつ?」

「そう、それ。そういうものならイメージしやすくならない?」

「それって、そんなに癒やされるの?」

「癒やされるよ。僕の場合だけど、例えば猫の動きを見ているだけで和んでほんわりとした気持ちになれる」

「ふぅん……」

「あとは、仔猫の鳴き声なんかも可愛くて良いよ。ちょっと小さくて高い声なんだけどね、たまに仔猫とお近付きになれると凄く癒やされる」


ミルクを欲しがっているのか、懸命にミャーミャーと鳴く仔猫。

その様子を思い出すだけでも可愛い。


「みゃぁ」


そう考えていた僕に、突然の声。


「みゃ〜……」

「麗花ちゃん!?」


声の主はもちろん仔猫では無く、この部屋の主の麗花ちゃんだ。


「ねぇ、先生。私の仔猫でも、同じ様に癒やされる?」


自分の椅子から立ち上がり、麗花ちゃんは僕の後ろに回った。

右耳の少し後ろの辺りから、小声で話し掛けられる。


「それとも、もしかして……話し方も、仔猫みたいにならないとダメ、かな……」

「は、話し方?」

「そう。仔猫なんだし、もうちょっと猫っぽく……」


暫く考えた後、麗花ちゃんは続けた。


「私の癒やしにょ一つはにぇ、頭をにゃでてもらう事にゃにょ」

「っ!?」


普段の麗花ちゃんと違って、格段に幼く感じる話し方。

そのギャップに僕は面食らった。


「にぇえ、先生。これから、お互いに『癒やしっこ』しにゃい?」

「癒やしっこ……?」

「そう。二人で交代しにゃがら、自分にょ癒やしについてをはにゃしていくにょ。そうして、相手はそにょ癒やしをかにゃえてあげる」

「な、なるほど……」

「にぇ? 先生。やってくれるかにゃ……?」


そう言いながら、麗花ちゃんは僕の耳に手をあてて、


「おにぇがい、先生」


と、囁いた。


「わ、分かった! 分かったから、取り敢えず椅子に戻ってくれるかな!?」


この距離感はマズい。

何がって……。色んな意味でマズい。


「にゃー……?」

「取り敢えず、麗花ちゃんの癒やしである『頭を撫でる』をする為にも、立ち位置を変えてもらわないと。ね?」

「にゃぁ……」


麗花ちゃんは少し不満そうな顔をしながらも、自分の椅子に戻った。

僕は心の中で大きく息をついてから、麗花ちゃんへと向き直る。


「じゃあ、まずは頭を撫でるね」

「うん……」


こくり、と頷いて少し俯く麗花ちゃんは、なんとなく気恥ずかしそうだった。


「はい、なでなでなで……」

「にゃ……」


優しく彼女の頭に手を置いて軽く動かしてあげると、麗花ちゃんは少し息を吐いて目を閉じた。


「にゃでにゃで、してもらうの……もしかしたら、十年ぶりぐらいかも」

「えっ、そんなに?」

「うん……。勉強も、スポーツも、どれだけ頑張っても『まだ出来るでしょ』とかって言われていたし……」

「そっか、麗花ちゃんのご両親はあんまり褒めてくれないから……」


もしかして、麗花ちゃんは『甘える』という事もロクに出来なかったのかもしれない。そう考えると、この遊びを通して本当に麗花ちゃんが癒やされれば良いなと感じた。

麗花ちゃんは目を閉じて、気持ちよさそうに僕の手の感触を楽しんでいる。それで僕も、少しだけ緊張が解けたような気がした。


「他に『癒やし』って言葉を聞くと、僕は自然の中で過ごす事を思い出すかな。例えば、森の中で静かに過ごす時間とか」

「森……いいね。私も静かな場所が好きかも」

「あ、でも癒やしっこで森林浴は難しいか」

「じゃあ、先生は一回休みね」


ふふっ、とイタズラっぽく笑う麗花ちゃん。


「それなら私は……」

「麗花ちゃんも一回休みで良いよ」

「そんな事を言ってもダーメ」

「じゃあ、あんまり難易度の高くないものでお願いしたいんだけど」

「それもつまんないなぁ。どうせなら先生を困らせてあげたいし」

「えぇ……?」

「そうだ、マッサージなんてどう?」

「マッサージ……」

「癒やしの揉みほぐし、って書いてあるのを見た事があるしね」

「それは上手な人がやったら、だと思うよ」

「じゃあ練習して?」

「これから?」

「そう。私が練習台になってあげるから」


にっこりと笑う麗花ちゃん。

しかし、これは嫌な予感しかしない。下手だと申し訳ないし、気に入られても今後にねだられる気がする。


「う〜ん……」

「そんなに悩まないで。ほらほら、肩揉みで許してあげるから」

「確かに、麗花ちゃんって肩の凝りそうな生活を送っているイメージがあるよ」

「なにそれ、どんなイメージなの〜?」


笑いながら、麗花ちゃんは椅子ごと後ろを向いた。

こうなったら、やるしかない。まず僕は軽く両肩を、握った拳でタントンと叩く事にした。


「どう?」

「叩き方が弱すぎるかな……」

「じゃあ、このぐらい?」

「ん〜……。首の付け根の辺りを叩いてみてくれる?」

「ここ?」

「そう、だけど……」

「やっぱり下手かな?」

「ねぇ先生。私、揉んで欲しい」

「そっちの方が難易度が高そうなんだけど……」

「指圧とか、人間はツボまみれの体らしいから。適当にやってても『当たり』を押せるんじゃない?」

「そういうものかな?」

「ものは試し、だよ。ほらほら先生、頑張って!」

「うぅ、分かったよ」


握っていた手を開いて、麗花ちゃんの肩を包む様に持つ。

そして、そのまま親指に力を入れる様にグッ、グッ、と押してみた。


「もっと中央の辺り……?」

「こう?」

「そう。首から肩にかけて、適当に動かしながら押したり揉んだりしてみて」

「数撃ちゃ当たる作戦かな」

「大丈夫、ちゃんとたまに『当たり』を押してるから」

「えっ、そうなの?」

「そうそう。やってる方には分からないよね」


ふふっ、と笑う麗花ちゃん。

おそらく、僕のマッサージはとても下手だろう。

それでもこうして自然な笑い声が聞こえるという事は、少なくとも麗花ちゃんは今リラックスしてくれているという事だ。

それが僕にとっては、とても嬉しかった。


「有難う、先生」

「ううん、下手くそでごめんね」

「それは良いよ、今後に期待するから」

「えっ、やっぱりまたやるの?」

「だって勉強だって大して見なくて良いんだから、せめてマッサージぐらいは上手くなって私を満足させてほしいなぁ」

「で、ですよね……。精進します」

「頑張れ頑張れ!」


ニコニコと応援してくれる麗花ちゃん。これは、今度マッサージの本でも読んでみようかな……?


「それじゃあ、次は先生の番だね」

「癒やし……。癒やしかぁ……」

「めちゃくちゃ真剣に悩んでるじゃない」

「だって、普段はそんなに意識した事が無いからパッと思い付かなくて」

「それは分かるかも。癒やされたいって思っても、自分が何で癒やされるのかまでは分からないから……」

「それで結局、特に何もしなかったりするんだよね」

「それにしても、癒やしを求めて苦悩する先生って笑えるんだけど」

「癒やされるどころか苦しんでいたらダメ過ぎるなぁ」

「でも、もしかしてもう思い付かないんじゃない?」

「だって、いきなり訊いてくるから……」

「宿題にでもしておけば良かったかな?」

「それじゃあ先生と生徒の立場が逆転してしまうって」

「ふふ、そうだね」


麗花ちゃんは可笑しそうに笑った後、


「でも、そういう先生だから、私は疲れなくて助かっているんだよ」


と、嬉しい言葉を掛けてくれた。


「学校では優等生でいなくちゃいけないし、家ではおりこうさんでいなくちゃいけない。一人でいる時には自由だけど……」

「その時に羽を伸ばしている訳ではないの?」

「伸ばせるけど。でも、一人って……」


『さみしい』。

ぽつりと呟かれた言葉に、僕は麗花ちゃんの孤独を感じた。

きっと、ご両親の期待を裏切らないためにと麗花ちゃんは日々頑張っているんだ。

その苦労を思うと、本当に癒やしというものが麗花ちゃんには必要なのだと実感してしまう。


僕は、もう一度麗花ちゃんの頭をそっと撫でてからスマホを取り出した。


「よし、もうこうなったらズルしてしまおう」

「ズル?」

「僕に思い付けないんだったら、偉大なる力をお借りすれば良いんだ」

「偉大なる力……って、もしかして」

「うん、検索機能」


これで癒やしについてを調べてみれば、いくつかは麗花ちゃんにも合った癒やしが見付かるかもしれない。

そう思って、早速ぽちぽちと調べてみる。


「何か面白いものとか、あった?」

「うーん……。『癒やしには多くの方法があり、個人によって異なる方法が効果的です。』だって」

「その話は、もう最初にしたよね。タバコは癒やしにならないって」

「そうだね。じゃあこれは? 『音楽にふれること』」

「音楽かぁ……」

「お気に入りの音楽を聴くことや楽器を演奏することがリラックスに繋がります……だってさ」

「演奏までは考えて無かったよ。そういえば昔はピアノを弾くことも嫌いじゃなかったなぁ」

「それって、今は嫌いになっちゃったって事?」

「うん。上手くコンクールで賞が取れなくなって、お父さんから『お前には才能があるのに、どうしてそれを生かさないんだ』って怒られる様になって……」


しまった、癒やしどころか落ち込む様な事を思い出させてしまった。

僕は慌てて次の癒やしを探してみる。

でも、この『アートセラピー』というのも絵を描いたり、クラフトを作ったりすることらしいから、取り敢えず飛ばしておこう。同じような結果になる気がするし。

という事で、無難そうなものをチョイスして読み上げてみる。


「これは? 『ヨガ』。身体のストレッチやリラクゼーションを通じて、心身のバランスを整えられます……だって」

「やった事は無いけど、効き目はありそうだね」

「そこに『瞑想』とかも載っているよ。心を落ち着けるために、呼吸法や瞑想を行うことでリラックス出来ますよってある」

「眠くなりそう〜!」


麗花ちゃんは笑った。

よし、この調子でどんどん話してみよう。


「アロマセラピーっていうのも聞いた事があるなぁ。なんでか『お香を焚け! アレはいいぞ〜!』って、やたらとグイグイ薦めてくる先輩がいるんだ。こっちのエッセンシャルオイル……? っていうのは、僕だと分からないけど」

「確かに、お風呂に入る時でも好きな香りにしてゆったりとつかっていると、すごくリラックス出来るよね。あれもそのアロマセラピーの一種なのかなぁ?」

「お風呂そのものもリラックス効果がありそうだけどね。僕は好きな色の入浴剤が入れてあった時にテンションが上がってたっけ」

「どんな色?」

「ブルーハワイみたいな色」

「なぁにそれ、まさか飲んだりはしてないよね?」

「まさか、流石にそんな事はしないよ。でも、昔に家族旅行で行った南国の海を思い出すんだ」

「海外の?」

「ううん、国内だよ。一応は海外にも行った事はあるんだけど、まだ僕がすごく小さかった頃だったから、その時の海は記憶に無いんだ」

「そうなんだ。残念だね」

「そういえば、不思議なことに変な記憶だけはあったりするんだよ。例えば、泊まったホテルの名前を何度も何度も教え込まれたこととか」

「……ひょっとして、迷子になった時のための対策?」

「そうだったみたいだね。英語が出来ない子どもでも、ホテルの名前さえ言えたら保護して届けてもらえるって思ったんじゃないかな?」

「それは……確かにそうかもしれない」

「で、ブルーハワイで思い出す海の話に戻るけど……」

「うんうん」

「ブルーやグリーンの色をした海で、あとは実際に泳ごうとしたらずーっと先まで浅くって」

「遠浅の海だったんだね」

「うーん……名前は知らないけど、地元の海水浴場しか記憶になかった僕からしたら、すごくビックリしたよ」

「泳ぐというか、浮き輪でプカプカと浮いているのも良いかも。混雑していなくて、綺麗な海で、あと日焼けを気にしなくても良くて、ぼーっと浮かぶだけだったら」

「ははっ、それはクラゲ気分で良さそうだね」

「私はあんまり海って行った事は無いんだけど、楽しそう」

「僕は、小さい頃だけなら色んなところに行ったかも」

「良い思い出が沢山ありそうだね、先生には」

「そういえば砂浜が星の形になってたのはどこだったっけな……?」

「星の砂?」

「そう、それ。お土産屋さんに色んなグッズも売ってあったんだけど、面白いな〜って思ったよ」

「面白い?」

「だって、砂が星の形をしているんだよ? 面白くない?」

「でも、星の砂って……」

「ん?」

「ううん、なんでもない」


むむ? なにか気になる態度だなぁ。


「もしかして、麗花ちゃんは星の砂に対して特別な思い入れがあるとか……?」

「違うよ、私は実際に見たことも触ったことも無いし」

「じゃあ、さっきは何を言い掛けたのかな」

「別に……なんでも無いよ」

「もしかして、気を遣ってる?」

「えーと……」


麗花ちゃんは少し迷った末に、こくりと頷いた。


「あのね、先生。星の砂は、本物の砂ってわけじゃ無いんだよ」

「えっ!?」

「普通の砂は、岩とかが風化して出来るものじゃない?」

「不思議な形になる理由は、そういうものでは無いからだった……?」

「うん」

「じゃ、じゃあ何があの星になっていたのかな……?」

「ええと……確か、単細胞生物が死んだ後の、抜け殻……だったって、読んだことがある気がして」

「死んだ後!? つまり、元々は生き物だったって事……!?」

「で、でも殻なら、ね? 貝殻だって、綺麗だから海に行った時には記念にお土産にしたりするでしょ?」

「それは……そう、だけど……」


なんてこった、今までずっと星の形をした綺麗で奇跡的な砂だと思っていたのに……。

少なからずショックを受けて黙ってしまった僕に、麗花ちゃんは続けて声を掛けてくれる。


「そうだ、先生は何か星の砂のお土産を買ったりしたの?」

「ええと……。そうそう、小さなビンに入ったものを買ったよ。なんか、願いが叶うとか幸せになれるとか、そんなような事が書いてあった気がする」

「へぇ……。先生は信じたりしてた?」

「どうだったかな。でも、そういうのって持っていると、なんとなく良い事がありそうに思わない?」


そう言うと、麗花ちゃんは微笑んだ。

もしかしたら同じような事を思い出したのかもしれないし、少し元気を取り戻した僕に安心したのかもしれない。


僕たちはその後も、お互いの癒やしについてを話し続けた。

ネットからは他にも植物を育てることやガーデニングを楽しむこと、自然の中で身体を動かすこと、好きな本を読んで現実から一時的に離れること、お気に入りの映画やドラマを観ること、音楽に合わせて自由に身体を動かすこと、深呼吸や特定の呼吸を行うことで心を落ち着けること……

とにかく、様々な癒やしの方法についてを見付ける事が出来た。


「えっと……『これらの方法はそれぞれ異なる効果があり、人それぞれの好みや状況に応じて取り入れることができます。癒やしの方法を見つけるためには、いくつかを試してみて自分に合ったものを見つけるのが良いでしょう。』だって」

「やっぱり大抵は最後がそんな言葉になるんだね」

「僕みたいに運動が苦手な奴からしたら、ダンスなんて癒やしどころか罰ゲームだから」

「じゃあ、今度なにかで罰ゲームをする時には、先生にダンスを踊ってもらおう」

「そっ、それだけは勘弁して!」


そう言いながらも、二人で顔を見合わせて笑い合う。

こうした会話を通じて、麗花ちゃんの普段とは違う一面を知ることが出来た。

それに……これは僕の希望かもしれないけれど、彼女も僕に対して少しずつでも心を開いてくれているように感じる。


「ねぇ、先生」


麗花ちゃんが、嬉しそうに言った。


「私たち、こうして話しているだけでも癒やされてる気がする」


それは、なんて嬉しい言葉だろう。


「そうだね。僕も凄く楽しかったし、日頃のストレスとかが無くなってる気がする」

「本当?」

「なんだか、スッキリしたというか……。話すこと自体が癒やしになる、ってこともあるんだなぁ」

「うん。これからも、こんな風に話していこうね」

「もちろん。いつでも話したい時は、声をかけて。あんまり役に立つ話は出来ないとは思うけどね」

「ありがとう、先生」

「こちらこそ。ありがとう、麗花ちゃん」


その日の家庭教師の時間は、勉強よりもお互いの癒やしについてを語り合うことばかりをしていた。でも、それが……大げさに言ってしまえば、人生においての必要な時間だったとも僕は感じる。

だって、目の前の彼女は、こんなにも楽しそうに笑ってくれているのだから。


麗花ちゃんの笑顔を見て、僕は彼女にとっての『良い家庭教師』でありたいと思った。

それは、一人で考えているだけでは分からない事でも『二人で話す事』で進展させられるような……勉強だけでは無い、様々な事についての先生として、だ。

自分の部屋の中でぐらいしかのびのびとしていられない麗花ちゃんの『家庭』教師。それは、他の誰にも譲りたくない。

僕がこんなに烏滸がましい考えを持っているだなんて知ったら、麗花ちゃんは怒るだろうか?

いや、怒る事も大切だろう。なにせ彼女は優等生という自分を保つ為に、とても苦労しているだろうから。きっと外……いや、家でも両親の前で『怒る』なんて事は滅多に出来ないに違いない。

僕はヘタレだし、まだまだ麗花ちゃんには敵わない事だらけだけど。でも、だからこそ麗花ちゃんも素の自分を出してくれるのだと思う。

そう考えたら、僕のこの間抜けさも悪くないかもしれない。


「そういえば、新しいレシピに挑戦することや好きな料理を作ることが癒やしになるって話もあったじゃない?」

「うん、あったね」

「私も焼き立てのお菓子の匂いとか、あつあつのクッキーを食べるのとかが好きで、前はよくお菓子を作っていたんだよ」

「そうなんだ? 考えてみたら僕は、焼き立てのクッキーなんて食べた事が無いなぁ」

「なんでも出来立ては美味しさが増すものだよ」

「確かに、ピザとかもチーズがトロトロの内が一番美味しいしなぁ」

「冷めたら美味しさが半減する食べ物も多いよね」

「でも、クッキーはずっと美味しいんじゃないのかな」

「それが、焼き立ての方が美味しいの。パンだって冷めても美味しいけど、やっぱり焼き立てが一番だし」

「なるほど」


それは理解できる気がする。


「パン屋さんでも、わざわざ『焼き立てですよ』って主張するぐらいだし、かなり味が違うんだろうな」

「そうなの!」


麗花ちゃんは力強く頷いた。


「だから、先生」

「うん?」

「今度、焼き立てのクッキーを食べてみない?」

「クッキーの焼き立てを……?」


パンならまだ分かるけど、どうして難易度の高そうなクッキーをチョイスしているんだろう。


「もしかして、焼き立てのクッキーを売ってくれるお店を知っているとか?」

「ううん、それは知らない」

「……?」


ますます分からない。

僕が不思議そうな顔をしていると、麗花ちゃんは拗ねたように、


「先生の鈍感」


と呟いた。

それは申し訳ないながらもその通りだと思うので、僕は素直に頭を下げる。


「ごめんなさい。分からないので教えてください」

「ぷっ、先生なのに『教えてください』って……!」


どうやら麗花ちゃんのツボにはまったらしく、彼女に笑顔が戻った。


「仕方がないなぁ、それじゃあ教えてあげる」

「ありがたき幸せ」

「今度、私がクッキーを焼いて食べさせてあげるって事!」

「……」


え。

それは。

つまり。


「麗花ちゃんが、わざわざ僕の為に作ってくれるの……?」

「そ、そうだよ」

「本当に?」

「嘘なんかついてどうするのよ」

「麗花ちゃんの、手作りクッキー……」


どうしよう、めちゃくちゃ嬉しい。

その思いが顔にもバッチリ出ていたらしく、麗花ちゃんは僕の顔を見て満足そうに微笑む。


「次の家庭教師の日、楽しみにしてて」

「うん!」


まさか、こんなに嬉しい事が待っているなんて。

改めて、麗花ちゃんにはとても感謝だ。


「麗花ちゃん、癒やしの話に戻るけど」

「なぁに?」

「楽しみだったり、嬉しい予定があると、それだけですっごく癒やされるよ!」


僕がニコニコと話すと、


「それは良かった」


麗花ちゃんも嬉しそうに笑ってくれる。

こんな彼女に、僕からも何かお返しは出来ないだろうか?


「ねえ、麗花ちゃん。僕も麗花ちゃんに楽しみな予定を入れてあげたいんだけど、やっぱりマッサージの上達ぐらいしかないかな?」

「それ、私に訊くの?」

「だって僕だと思い付くのにも限界があるし、それに麗花ちゃんの喜ぶような事を思い付けるかって考えたら無理そうだったし……」

「でも、確かに自分本位でサプライズをしても、相手からしたら困惑するって事はあるよね……」

「麗花ちゃん……。その顔は、もしかして自分で体験した事があるんじゃないの?」

「そうよ、あれって本当に苦手なの」

「たまにクラス単位で誕生日のサプライズとか計画する人がいるけど……」

「ダメ、あれは本当に自己満足だと思うわ」


何を思い出したのか、麗花ちゃんは眉間にシワを寄せて溜め息をついた。

よく分からないけれど、人気者をしている以上は無碍にも出来なかっただろうし……


「それは、ほんとにお疲れさまだったね……」

「うん、先生は分かってくれる?」

「僕はそういうサプライズをされたことは無いけど、でも麗花ちゃんの顔を見ていたらなんとなくは察するよ」

「……ふふ……。そうなのよね……」


遠い目をする麗花ちゃん。

いつでもどこでも大変なんだなぁ……。そう思っていたら、麗花ちゃんの目が何かに留まった。


「……雨」

「え?」

「降って来たみたい」


そう言われて窓の外を見ると、確かに空から無数の糸が降り注ぐように雨が落ちて来ていた。


「そうだ!」


麗花ちゃんは椅子から立ち上がり、窓の方へと向かう。

僕が不思議そうに見ていると、そのまま麗花ちゃんは窓を開けた。

その途端に聞こえる雨音。それは、余計な雑音を掻き消すかのようで心地よい。


「今日は、雨の音を聞きながら過ごそうよ」

「雨、好きなの?」

「濡れたりするのは嫌い。だけど、こうして家の中で雨の音を聞いているのは好き」

「……外の余計な音が聞こえにくくなるから?」

「そう! 先生も一緒なの?」

「読書をする時には、天気の日よりも雨の日の方が僕も好きなんだ」

「私と一緒ね!」


麗花ちゃんは、とても嬉しそう。


「雨の音、それから虫の音も。私は好き」

「虫って……セミとか?」

「セミもタイミングによっては、色んな事を考えたりするし……好きな方かな」

「夏! って感じも、夏の終わりの物悲しい感じも、蝉時雨で感じたり出来るよね」

「あとは私、秋に鈴虫とかコオロギとかが鳴いているのを聞きながら眠るのが好きなの」

「あぁ、そういう虫かぁ」

「暑すぎる夏が追わって、冬が訪れる前の……寂しいけれど、涼しくもある時期の合唱を聞きながら目を閉じていると、気持ちが落ち着くの」

「雨の音は、それに少し通じるものがあるのかもね」

「だから、なんだか好き」


静かに、麗花ちゃんは話して口をつぐんだ。

僕も、それに倣って話しやめる。

すると、優しい雨の音がサーサーと聞こえて来た。


「ねぇ、先生」

「ん?」

「いつか……いつかで良いから。雨の日に、二人で本を読みたいな」

「雨音を聞きながらの読書大会か……。とてもいいね」


僕の言葉に、はにかむ麗花ちゃん。

これで少しは僕も麗花ちゃんへ『楽しみな予定』を作ってあげる事が出来たのだろうか。


「ありがとう、麗花ちゃん」

「え?」

「僕は、麗花ちゃんのお陰で……とても楽しいよ」


急な仔猫だったり、お誘いだったり、驚く事もあるけれど。

それでも、こうした提案や何気ない会話で、僕は本当に癒やされている。

だから、その事がちゃんと伝わるように、お礼を言ったら。

麗花ちゃんは嬉しそうに、


「私こそ。先生がいてくれるから、この時間がいつも楽しみなの」


と言ってくれた。


「ありがとう、先生」


その言葉を聞いて、ますます心があたたかくなるのを僕は感じた。


『癒やし』は、こうしてお互いに思いやる気持ちを持ったり、それを言葉や態度で表わすことでも得られたり出来るのかもしれない。

わざわざ交代でゲームみたいな事をやらなくても、僕らはこれから『癒やしっこ』が自然に出来ていくのではないかな……?

そう、思えたとある雨の日の出来事だった。

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癒やしっこ 水月 梨沙 @eaulune

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