滅亡は嫌なので隣国の皇帝を善良に育てる……つもりが間違えました

藤浪保

第0話 プロローグ 

 皇帝に呼ばれたアリシアが急ぎ身支度を調えて庭園へと向かうと、すでに皇帝が席に着いていた。 


「アリシア・ルーエンが、帝国の太陽にご挨拶いたします。お待たせして大変申し訳ございません。支度に時間がかかってしまい……」

「待っている時間も楽しかったので、気にしないで下さい。こちらこそ、急にお呼びだてしてしまって申し訳ありません。ようやく時間が空いたものですから」


 皇帝は手にしていた書類を置いて立ち上がり、アリシアに歩み寄った。


「それに、こんな素敵な装いを見られるのであれば、待つ甲斐かいもあるというものです。とてもよくお似合いだ。俺の見立ては間違っていませんでしたね。もちろん、普段の服装で来られても全く問題はありませんので、どうか負担のないようにしてください。どんな姿であっても素敵ですから」


 皇帝の方こそ完璧な装いだ。髪の色と同じ黒を基調とし、瞳の色と同じ赤を差し色に使った服装で、昼間のお茶会にしてはややきっちりとしすぎている。大きな夜会に出るには物足りないが、晩餐ばんさんであれば正式なものだったとしても十分通用するくらいの服装だった。


 このような姿で来られてしまえば、アリシアだってそれなりに着飾らないわけにはいかない。 美しいドレスを着たところで、栗色の髪とぼんやりとした顔立ちでは見劣りするのは避けられないが、であればなおさら服装に気を使うしかない。自室の衣装部屋には皇帝から贈られたドレスがぎっしりと収められていて、手持ちが少ないという言い訳もできないのだから。


 皇帝から差し出された手にアリシアが手を重ねると、皇帝は甲に口づけを落とした。


「やっと会えましたね。同じ屋敷に住んでいるのに、こんなにも会えないなんて。会いたかったです」

「先日夕食をご一緒させて頂きましたわ」

「三日も前です。毎日会いたいですし、できれば三食ご一緒したいですし、本当ならこうやってお茶も一緒したいですし、可能なら片時も離れたくありません」


 皇帝はそう言いながら、アリシアを席へと案内する。おおれ多くも皇帝自ら椅子を引いてもらい、アリシアは着席した。


 侍女が脇のテーブルにティーセットを置いて下がった。声は聞こえないが合図があればすぐさま反応できる、という絶妙な位置で立ち止まる。


 アリシアを座らせた皇帝は、自らは座らずにティーセットへと近づいた。


「私が――」

「どうぞそのままで。俺が淹れるお茶、好きだって言っていたでしょう?」

「ですが」

「これは俺の役目ですから」


 そんな訳にはいかない。相手は帝国の皇帝なのだ。手ずからお茶を淹れさせるなどとんでもない。


 かといって、皇帝の厚意を無碍むげにするのは、それはそれで礼を失する行いだった。


 どうしようか迷っているうちに、皇帝は手際よくお茶の準備を進めていった。蒸らしている間にケーキも切り分けて、皿に移す。ホイップを搾り、ソースを垂らせば、まるで熟練の料理人が準備したかのような完璧な盛り付けになった。


 アリシアが買って出たところで、お茶は淹れられてもここまで綺麗な盛り付けはできない。結局の所、皇帝に任せるのが正解なのだ。それはアリシアにもわかっていた。


 皇帝がアリシアのカップに紅茶を注ぐと、ふわりと香りが立ち上った。ことりとケーキの皿も置かれる。


「どうぞ」


 皇帝が座るのを待って、アリシアはカップに口をつけた。


「美味しい……」

「でしょう?」


 皇帝は本当に嬉しそうに微笑んだ。


「毎日でも淹れて差し上げたいです。ケーキもどうぞ召し上がってください。さすがに自分で買いに行くことはできませんでしたが、俺が厳選しました。お好きだと思いますよ」


 こんがりと焼き色がついたチーズケーキだ。皇帝が添えてくれたのはベリーのソースだろう。


 アリシアはケーキを一口大に切り、ソースと生クリームをつけて口に入れた。


「美味しい……」

「でしょう?」


 先程と同じやり取りをして、やはり皇帝は嬉しそうに笑う。


 チーズケーキにはベリーのソース。甘めのケーキには甘みを抑えた生クリーム。


 アリシアが教えた組み合わせだ。もちろん味はアリシアの好みの通りだった。


 こくりと紅茶を飲む。


 この茶葉もアリシアの好きな銘柄の一つで、チーズケーキに合わせてセレクトしたのだろう。


 ティーカップもアリシアの好きなブランドのもの。表面の装飾もさることながら、口当たりがよいのも気に入っていた。アリシアの国の陶磁器メーカーが細々と製造しているもので、わざわざ取り寄せたのは明らかだった。


 このお茶会一つとっても、皇帝が心を砕いているのがよくわかる。加えてこの甘い態度である。誰が見ても、皇帝がアリシアに思いを寄せていることは明白だった。


 この三日間に何をしていたのかを皇帝に聞かれ、アリシアは答えた。


 図書館で読書をしたり、広大な庭園を散歩したり、刺繍ししゅうをしたり。特別な事は何もしていない。


「外出をしても構いませんよ。護衛はつけてさせてもらいますが」


 皇帝はいくつか質問を挟みながらアリシアの話を楽しそうに聞いたあと、そう言った。


 アリシアは庭園を囲む木立にいる護衛達に視線を向けた。一人や二人ではない。互いに距離を空けながら、ぐるっと囲んでいる。彼らは全てアリシアの護衛だ。警備の厳しい皇宮でもこの人数なのだから、敷地の外に出ることになれば、どれほどの人数を連れて歩かねばならないのか。


「社交的な方ではありませんから」

「では、帝国の事を学ぶのはどうですか? 学習はお好きでしょう? 家庭教師をつけましょう」

「お心遣い痛み入りますが、ご遠慮させて頂きます」


 アリシアは丁重に辞退した。皇帝の思惑はわかっている。単純な厚意からではない。


「アリシア様」

「陛下、敬称はやめてください」


 大陸一の大国の皇帝に様付けで呼ばれるなど、身に余り過ぎる。


「アリシア様こそ、そのような他人行儀な呼び方はやめて、どうぞ名前で呼んで下さい」

「そのようなこと、できるはずがありません」


 アリシアが首を振ると、皇帝は悲しそうに眉尻を下げた。


「アリシア様」


 皇帝がテーブルの上に置いたアリシアの手に手を重ねる。


「まだ、俺の気持ちには応えてもらえませんか?」

「時間を下さいとお願いしたはずです」

「俺では駄目ですか? あいつの方がよかったですか? こんな形になってしまって申し訳ないと思っています。ですが、どうか俺を選んでくれませんか? アリシア様の気持ちを無視して先には進みたくありません。俺は――」


 皇帝は途中で言葉を切った。


 一人の男が近づいて来ていたからだ。皇帝の側近だった。


「なんだ」

「そろそろ次の会議が始まります」


 皇帝は懐中時計を見て、不機嫌さを隠しもせずに溜め息をついた。


「申し訳ありませんが、時間が来てしまいました」

「はい。お気遣いなく」


 皇帝のスケジュールが最優先なのは言うまでもない。


「部屋までお送りする栄誉を頂けますか?」

「おそれながら――」

 

 皇帝の提案に口を挟んだのは側近だった。


「重臣たちがすでに陛下をお待ち申し上げております」

「待たせておけばいい」

「そういう訳には……」

「首を切り離せば静かになるか?」

「陛下!」


 物騒な物言いに、アリシアは思わず叫んでしまった。


 冷たい声色と鋭くすがめられた赤い瞳に、心臓がぎゅっと縮こまる。


「はは、もちろん冗談ですよ」


 にこりと皇帝が笑うと、不穏な空気が緩んだ。


「行きましょう」


 皇帝は立ち上がり、アリシアの手を取る。


「ですが、急がれませんと」


 アリシアはちらっと側近の顔を見た。顔を青ざめさせ、冷や汗を拭いている。


「俺のいない間に相談したいこともあるでしょうから、少しくらい遅れていく方がいいんですよ」

「それは……」


 暗に自分を排するための策謀を巡らせているのだと言っている。


「気にしないでください。簡単にやられたりしませんから。アリシア様が思っているより、俺はずっと強いんですよ」


 それはそうかもしれない。


 アリシアにこれだけの護衛をつける一方で、皇帝自身は一人も護衛をつけていない。皇宮の外に出る時も一切連れて歩かないという。それは皇帝の強さの表れだった。


 皇帝に手を引かれ、アリシアは今度こそ立ち上がった。


 そのままアリシアに宛がわれている部屋へと向かう。


「……先程の話ですが……言い過ぎました。あまり気に病まないでください。アリシア様がどんな選択をしようとも、俺は受け入れます。アリシア様のそばにさえいられればそれで十分ですから」


 アリシアは何も答えなかった。


 どう答えたらよいのか悩んでいたからだ。


 何も言えないうちに、部屋の前についてしまった。


 扉を守っていた護衛が、空気を読んですっと離れる。


「名残惜しいですが、行かなくてはなりません」


 皇帝はアリシアの手に口づけを落とした。


 すぐに立ち去るかと思ったが、皇帝はアリシアの手を離さない。


「あの……抱き締めてもいいでしょうか」


 おずおずと皇帝が言い出した。


「……いえ、他意はなくて、これから狸親父どもと渡り合うための英気をもらえないかと思って。もちろんアリシア様が嫌ならしなくていいです。すみません、調子に乗りました。――って、うわっ」


 アリシアの反応がないのを不安に思ったのか早口で弁解じみた事を言い始めた皇帝に、アリシアが抱きついたのだ。


 ぎゅっと腕に力を込めると、皇帝はアリシアの背中に腕を回し、噛みしめるように深く息を吐いた。


 アリシアの耳が接した胸元から、皇帝の速く大きな心音が聞こえて来る。


「……ありがとうございました」


 体を離した皇帝は、顔を真っ赤にしていた。


「見ないでください。他意はないって言ったのは本当ですが、それだけでは済みませんでした。もう行きますね」


 くるりときびすを返し、皇帝は去って行った。


 アリシアは部屋のドアを開け、そしてその場に崩れ落ちた。


 みるみるうちに顔に血が集まって行くのが自分でもわかった。鏡を見るまでもなく、でダコのようになっているだろう。


 心臓が痛い程に高鳴っている。


「なんなのよ、もう……」


 つれない態度を取ってはいるが、アリシアの気持ちは急速に傾いていた。


 相手は大陸一の大国の皇帝で、稀代の魔術師で、非常に容姿が整っており、アリシアの忠実なしもべだ。


 あんなにひたむきな気持ちを向けられて、抗えるはずがなかった。


「私は間違えたはずだったのに……なんでこんなことになっちゃったの……?」


 アリシアは両手で顔を覆って呟いた。

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