甘く腐る
津多 時ロウ
甘く腐る
私という人間の中には、今もこうして電気が駆け巡っているのです。
幾百、幾千、幾万とも知れぬ数の細胞が、それはもう満天の星空のように電気を放ち、私という人間を私たらしめているはずなのです。
「ぶみゃあ」
この不細工な猫の鳴き声も、瞬く間に電気信号に変わり、私の脳へ届けられるのでした。
私はその猫をなんと呼んでいただろうか。
あるいは、動物に名前を付けるなど人間のエゴだなんだと、いかにも尤もらしい言い訳をしていたのかも知れない。
しかし、そんなことは猫にとってはどうでもいい話である。ただ「ぶみゃあ」と挨拶をして、開け放しの縁側から上がり込めば、餌にありつけるのだから。
そしてその挨拶が「こんにちは、お邪魔します」であるのか「おう、邪魔するぞ。餌を食わせろ、人間」であるのかと同じくらいどうでもいい話なのだ。
ところでこの猫はいったいいつから私の膝の上や縁側を、方丈の庵とするようになったのだろう。思い返したところで記憶にはない。
隣の山本さんの奥さんにいつか聞いた話によれば、このふてぶてしい面構えのキジトラは、この辺りのボスだという。
ボス猫がわざわざ挨拶をして上がり込んでくると思えば、いつからいるのかなど、私にもやはりどうでもいいことなのだ。
絵物語よろしく、猫と話ができるのならこいつに聞けば良いのだが、果たして挨拶一つで、勝手に他人様の家に上がり込み、その愛嬌をもって、餌はおろかマッサージまで人間にさせる傲岸不遜の徒とまともな話ができるか、甚だ疑問ではある。
或いは「くるしゅうない、好きにせよ」とでも言うのだろうか。
だが、そのキジトラはある日突然来なくなった。
春夏秋と、寒くない日は縁側を開け放しているから、彼は「ぶみゃあ」と勝手に上がり込んでは、その堂々とした体で居座る。
寒い日はノックするように戸をカリカリとして、私が開ければ、やはり「ぶみゃあ」と鳴いてするりと上がり込み、炬燵にあたる。
それがどういうわけか、最近めっきり姿を見ない。
今は夏の暑い盛りで、縁側に障害物はない。
外からは、花の匂い、土のにおい、近所の川のにおい、草いきれなどが風に乗ってやってきた。いつもの夏のにおいだ。
それに良いも悪いもなく好悪だけがあり、ただ時折りどうしようもなく不快なにおいが混ざることもある。
今日はそれが混ざっている。
だから私は、あのキジトラが死んだのだと思った。
のら猫は死期を悟ると、身を隠し、静かに死んでいくという。本当かどうかなど、私には知る由もない。だけど、キジトラのことを思えば、それはストンと私の肚に落ちるものだった。
私は、それ以外に何を思っただろう。
悲しいと思ったのだろうか、寂しいと思ったのだろうか、怒りを覚えたのだろうか。
案外、何も思わなかったのではないだろうか。そんなものだと。
それから私にはまた無為な日々が戻ってきた。
夏が終わり、秋があっという間に過ぎて、気が付けば冬も通り過ぎていた。
このまま私はひっそりと生きて死んで、ハレもケも幸も不幸もなく、あのキジトラのようにただ甘やかに腐っていくのだ。
しかし、それのどこに不幸があるのか。
少なくとも私には分からない。
だから構わない。
春。
外は少し肌寒い。
私はガラス戸を閉め、縁側で日向ぼっこをする。
カリカリと音がして、「ぶみゃあ」と声が三つした。
『甘く腐る』 ― 完 ―
甘く腐る 津多 時ロウ @tsuda_jiro
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