第2話 公園のベンチにて
フラフラと歩き始めたが、頭が混乱してどこをどう歩いたのか記憶にない。
気が付くと、噴水のある公園のベンチに座っていた。
噴水のそばでは小さな子どもたちが遊びまわっている。
天気は穏やかな晴れの日。
暖かい春の日に誰もが嬉しそうに微笑んでいる。
ベンチに座るエリザのことを気に留める者はいない。
杖をついた老人がゆっくりとベンチの前を通り過ぎて行く時、微動だにしない彼女のことを少し不審そうに見ていたが、一瞥しただけで何事もなく通り過ぎて行った。
エリザは身動きもせず真っ直ぐベンチに座り、目の前の光景をぼんやりと眺めていた。
公園は穏やかな時間が流れていたが、彼女の心の中は嵐のようだった。
「……私はフィルの恋人じゃなかったの……?」
『金蔓』
フィルもその友人もエリザのことをそう称した。
フィルにとってエリザは、お金を出してくれるだけの存在だと友人に吹聴していたということだ。
「将来、一緒になろうねって……フィルが言ったのよ……嘘つき」
幼い頃から知っている仲で、家の事情で離れてしまう時期があっても関係が切れることはなくお互いを思いやって縁が続いてきたはずなのに、どうして彼は突然こんなに変わってしまったのか。
金蔓というのは、ある意味間違っていない。
現在、フィルの生活を支えているのはエリザだからだ。
士官になりたいが実家からの援助が望めない彼のために、先に職に就いていたエリザが援助を申し出た経緯がある。
夢を諦めずに済むと、いつか必ず恩に報いるとエリザに感謝してくれていた……と思っていたが、あれは間違いだったのだろうか。
何度考えても、分からない。
ぼんやりと考えているうちに、噴水で遊んでいた子供たちはいなくなり肌寒くなった公園内を人々が足早に歩いていく。
そのうちに、歩く人の姿も減り、さんさんと降り注いでいた太陽もいつの間にか傾き、オレンジ色の光が噴水を照らしていた。
公園を歩く人はほとんどいなくなり、ベンチにポツンと座る女性を不思議そうに横目で見ていく人々もいたが、噴水を見つめたまま動かないでいるエリザに声をかけてくるものはおらず、皆足早に去って行った。
日が暮れても、エリザはベンチにすわったままだった。
夜が更けると、昼間の暖かさが嘘のように空気が冷たくなり、公園内を歩く者は誰もいなくなった。
空に浮かぶ満月が地面を照らしていて、まるで昼間のような明るさだった。月ばかりが輝いていて、星が全く見えない。月明かりがスポットライトのようにひとりきりのエリザを照らしているようだった。
籐のバスケットを膝に乗せ、真っ直ぐな姿勢で座り続ける。まるで銅像のように動かない彼女に目を向ける者はいない。
どれくらいそうしていただろうか。
噴水を見つめていたエリザの左側にふと影が差した。
ゴソゴソと衣擦れのような音が聞こえる。
それでも前を向いていたが、影がずっとそこにあるのでエリザはゆっくりと横を向く。
するとそこには、一人の汚い男が同じベンチに座っていた。
泥で汚れ、擦り切れた服。伸びっぱなしでボサボサの髪の毛。中途半端に伸びたヒゲ。そして左右違う汚い靴を履いている。
薄汚れた姿の男性。恐らく家がなくて長らく路上で生活している者なのだろう。そんな風体の男が膝をそろえて姿勢よくエリザの隣に座っていた。
男は彼女と目が合うと、にこにこと人の良さそうな笑顔を向けてくる。
「かごの中、良い匂いがしますねえ。甘い苺と……カスタードの匂いだ」
そう言って隣に置いた籐かごに鼻を近づけクンクンと匂いを嗅いでいる。ああ、食べ物を欲しがっているのかと気づいて、かごの蓋を開けてやった。
「欲しければ、どうぞ」
かごが地面に落ちたせいで中にあったケーキはぐちゃぐちゃだったが、崩れただけで中身は床に落ちてはいない。衛生的によごれていなければあげても構わないだろうと判断しケーキを渡してやる。
「おお、これはこれは。ごちそうになります。立派なケーキだなあ。これあなたが作ったんですか? この苺がつやつやで宝石みたいに美しいですね。素晴らしい、美味しそうだ」
欲しかった言葉を、こんな得体のしれない男から言われてしまい、ぐっと喉がくるしくなった。
崩れたケーキを見て男は嬉しそうにはしゃいだ声をあげる。無遠慮にかごのなかを漁り、フォークを取り出すとケーキに突き刺しぱくりと一口頬張った。
「うん、美味い。甘い物なんていつぶりかなあ。これ全部食べちゃっていいのかな? ああ、生地がまた絶品だ。このサクサクしたところは何でできているんですか? 食感の違いがまたいいですね」
口数の多い男だなと鼻白む。
この辺りは貧困街がないので路上生活者と関わる機会がほとんどなかった。だからエリザが知らないだけで物乞いをするために口が上手くなるものなのか……とぼんやり考える。
だが、頑張って作ったケーキを褒められるのは素直に嬉しかった。たとえそれが、赤の他人のホームレスの言葉であっても。
恋人の思い出の味となるように、記憶をたどって試行錯誤して作り上げたケーキだ。ものすごく手間がかかるが、その分味も抜群に美味しいはずだと自負している。
そうやって出来上がったケーキは、彼の口に入るどころか叩き落とされてぐちゃぐちゃになってしまった。
もう捨てるつもりでいたそれを、なぜか見ず知らずの薄汚れた男が食べている。
なんだか不思議な光景だなと思いつつ、嬉しそうに食べてくれているのでちょっとだけ救われた気持ちになった。
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