砂漠の詩

拝詩ルルー

第1話 別れ話

「はぁ……」


 重い溜め息を吐いて、ガザルは使い魔から受け取った手紙をくしゃりと握り締めた。


『ワルダの庭園、いつものガゼボで』


 今は恋人のラヒムから受け取った手紙だ。


 ガザルは沈むように重たい気持ちのまま、また手紙を開いて、できてしまった皺を指先で丁寧に伸ばした。

 こんなに胸は晴れないのに、どうしてもラヒムから貰ったものは何でも大切なのだ。


「……やっぱり、あのことよね……」


 ガザルは、カフェの窓の外を眺めた。

 彼女の蜂蜜のように深い黄金色の瞳の中には、キラリキラリと小さな星が輝いている——彼女が特別な魔物の王だという証だ。


 街はお祝いムード一色だ。

 人々は朗らかに笑い合い、店や屋台は祝いだと特別な酒や食べ物を売り出し、非常に賑わっている。


——この国の第一王子で王太子と、隣国の第二皇女との婚約が決まったのだ。祝わないなどという選択肢は無かった。


 ガザルは手元のコーヒーカップに目線を戻した。

 ぐいっと飲み干せば、すっかり冷めてしまっていて、いやな酸味が後を引いた。


「はぁ。行くしかないのね……」


 ガザルがまた溜め息をつくと、さっきまでは晴れていた空に暗雲が垂れ込め始めた。

 重い足取りのまま、カフェを出る。


 雨の匂い混じりの風が、ガザルの淡いローズ色の長い髪を強くさらった。



 しとしとと、雨が降っている。


 グレー色の重苦しい空。

 湿気混じりの、独特な篭った香り。

 心まで塞いでしまいそうな、重たい空気。


 ワルダの庭園では、満開の薔薇たちが、泣き腫らしたかのように濡れそぼっていた。


 待ち合わせ場所である簡素な木組みのガゼボの隣には、薔薇の木立が黄色に赤が差した可憐な花を咲かせていた。


「待たせてしまったかしら?」


 ガザルは、ガゼボで待っていた人物に声をかけた。


 今の空模様のような淡いグレー色の髪、ガザルよりも少しだけ背の高い、細身の男性だ。


 ガザルは彼の姿を見ただけで、胸の辺りがキリリと小さく悲鳴をあげた。


「……ガザル……」


 彼は振り返って、ガザルの名前を呼んだ。


 よく日に焼けて色黒な肌。端正だが、彼の人柄を表すような繊細で優しげな顔立ち。ガザルが大好きな彼の優しい藍色の相貌は、今日は重々しく沈んでいた。


(ああ。やっぱり、そうなのね……)


 ガザルは全てを悟った。

 それでも、嘘ではないかと、いや、嘘と言って欲しくて、訊いてしまった。


「……ラヒム、話は聞いたわ……本当なの?」

「…………」


 ラヒムは、悲しげに藍色の瞳をガザルに向けた。

 ただ、じっと。


 それが、答えだった。


「君が泣くと、空まで泣いてしまうね」


 ラヒムは片手をガザルの頬に添え、親指でその目元を拭った。


 ガザルは、いつの間にか泣いていた自分に気づいて、びくりとした。

 そして、もうどうしようもなくなってしまった。


「……っ!!」


 ガザルはラヒムの手を乱暴に振り払うと、雨の中、ガゼボの外へと飛び出した。


 ラヒムはガザルを止めることなく、ただただ彼女の背中を見送った——ラヒムには、ガザルを追いかける資格がなかったからだ。


 しばらくして、ラヒムはガゼボから出ると、ガザルとは別方向へと歩き出した。

 彼の表情は暗く悲しげながらも、何かを決心したような引き締まって硬いものだった。



***



「それで、ガザルはやっとあの男と別れられたのですか?」


 男は酒を嗜みながら、目の前のガザルに美しく微笑みかけた。


 人形のように整った顔立ちの男だ。


 真っ白な髪は絹のように艶やかで、柔らかに編まれて左前に流している。思慮深そうな深緑の瞳は、ガザルがどう反応するのか、注意深く見つめている。

 背中にある妖精の羽は、蜻蛉のような四枚羽だ。クリスタルのように透明な羽には、白銀のレースのような翅脈しみゃくが縦横無尽に走っている。


「ゔぅっ……イヴァンの、ばかぁ……なにも今そんな酷いこと言わなくてもいいじゃない!」


 ガザルがバンッと平手でテーブルを叩くと、テーブルは呆気なくバキッと音を立てて割れた。


「おっと。手加減してくださいよ。ガザルの怪力では、すぐに何でも壊してしまいますからね」


 イヴァンは、器用にサッと酒と料理だけを、魔術でできた空間収納に放り込んで避難させた。テーブルは壊れてしまったが、この際仕方がない。


「人間なんて儚い生き物をパートナーに選ぼうとするからですよ。彼らの寿命は短いし、非常に移り気だ。魔王種たる貴女にはふさわしくない」


 イヴァンは壊れたテーブルを邪魔にならないよう部屋の端に寄せると、空間収納から新しいテーブルを取り出した。その上に、避難させておいた酒や料理を並べていく。


「……私は魔王にはならないわ。これっぽちも興味ないもの……」


 ガザルはめそめそしながら、グラスに新たな酒を注いだ。


「それに、ラヒムが移り気だなんて……」


 ガザルが酒をちびりと舐める。度数が高かったようで、ピャッと顔を顰めた。


「実際に、移り気でしょう? 愛する貴女がいるというのに、王族だからと、国のためだからと、押し付けられた婚姻を飲み込んだ……妖精の私には、到底考えられませんね」


 イヴァンは、全く理解できないといった風に手のひらを上げて、小さく肩をすくめた。


「だって、ラヒムは人間なのよ?」

「ええ。人間ですね。でも、貴女も竜です。本当にあの男が欲しいなら、竜らしく力づくで奪われてみては? 国がくっ付いてくるというなら、国ごと奪えばいい話です」


 しょぼしょぼと頼りなさげに見上げてくるガザルに、イヴァンはキッパリと言い放った。


「……そんなこと、したくないわ。ラヒムに迷惑をかけたくないもの……」


 ガザルが小さく首を横に振る。


「やれやれ。貴女は非常にお優しい。当代魔王様も、貴女を排除しに来ないわけです」


 イヴァンが、困った子供を見るように、愛おしげにクスリと苦笑した。


 魔王種は、魔王になる可能性がある非常に強い魔物だ。

 魔王と魔王種が戦い、勝ち残った方が魔王の座につくのだ。


 ただ、優しすぎるガザルは、当代魔王に戦いを挑むこともなく、静かに暮らしていた——本能的に魔王を目指そうとする魔王種としては、あまりないことだった。


「それとこれとは関係ないじゃない! ……もう、朝まで飲むわよ!! ヤケ酒よっ!!!」


 ガザルはぐいっと、グラスに残った酒を呷った。


「これ以上、我が家の物を壊さないと約束していただけるならいいですよ……って、もう遅いですね……」


 イヴァンは、じと目でガザルを見つめた。


 勢い余って、早くもガザルはグラスを握り潰していた。



 窓から見えるオレンジ色の砂漠は、まだ夜の帳が下りたばかりだ。

 夜空の星々は、薄く瞬いている。


——今宵はまだまだ長くなりそうだ。



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