ウォーキングで学んだこと

天川裕司

ウォーキングで学んだこと

タイトル:ウォーキングで学んだこと


ウォーキングしていたら、

ちょっと小学校の繁みのところに、クモの巣が張っていた。

俺は子供の時からクモの巣を見ると、何かそこにひっかけたくなる。

子供の時は虫だったけど、

今はもうそんなことをしない。虫がかわいそうだから。

だから代わりに枯葉とか小さな木の枝なんかを引っ掛ける。


そこで発見があった。

1度や2度ひっかけたところ、その蜘蛛は

一目散にその引っかかったものの方へ走ってきたが、

それが偽物だとわかるとまたすぐに元の位置に戻る。

それを2〜3度繰り返すと、

もうそれが偽物だとわかったのか、走ってこない。

走ってこなくなったのだ。学習した?

それよりもその時、何かクモの巣のすぐ前に居る俺のことを、

この蜘蛛は見て居るような気がした。ちょっとだけ怖かった。

でも同時にこの蜘蛛がすごいと思った。


そして大樹。その小学校横に俺が勝手に

ジブリの森と呼んでいる小さな森みたいなところがあり、

そこに結構大きな木が植わっている。

その大樹に耳を傾けたところ、

中からトントン…コンコン…と言った感じに、

何か血流のような、いや水の流れのようなものが聞こえた。


生きているのだ。神様に生かされている。

自然万物が神様によって生かされており、

その自然のひとつひとつを見るだけで

人間は自分の人生の師を見ることがある…

そんなことをつぶやいた先人が居たのを思い出す。

松下幸之助さんだったか。

でも人なら人つながりで、誰でもいっとき経てば、

同じことを思うのだろう。そんなことも考える。


虫は何を考えて生きているのか?

また動物も何を考えて感じて生きているのか?

どう思って人間を見ているのか?

あの星空は、この風は、この山や川や田んぼは…。


虫は虫で、動物は動物で、

自分に与えられたその立場を受け入れている?

それを疑問に問い、しばらく考え込む人たちも

居るのだろう。俺もそのクチだ。


セミは、人間より死ぬのが何倍も早い。

あの蝉は一体何を考え感じているのか、自分の生涯に。

心を静めて考える。

これを思って「セミは畜生って泣いてんだ!」と歌った人も居たね。

また「自分の不幸を思う時、空蝉の生涯を考えよ」、

そう諭した戦国の世を生きた女性も居た。それも思い出す。


出会い。人との出会い。昆虫との出会い。動物との出会い。自然との出会い。

すべての出会いは、もしかするとやはり

神様によって成されているのか?

よく思う事は、ウォーキング中、

それもまたナイトウォーキング中に、

部屋の中に居たら絶対知ることができなかった

あの民家の部屋の明かり。その明かりの中で動いている人たち。


そして小学校の敷地の片隅で、

何か物を運んでいる蟻の姿。

この蟻の存在も自分の部屋にずっと居たら、

わからなかったこと。わからなかったその存在。

梅雨時なら紫陽花の姿、その紫陽花の近くを這っているカタツムリ。

夏ならセミ。他のいろんな昆虫、動物、自然の万物。


野の花。道端に咲いているレンゲ草。

花の名前はよくわからないけどいろんな草花。

その自然の命の先をずっと考えていた。

まるで追うように、その先を思い、考えて見た。

するとその先に、イエス様が居り、神様が居た。


これは直感で知ったこと。

この直感も感覚で、神様が与えてくださったもの。

俺はまた自然と出会いながら、命と出会いながら、

神様と出会うことができたのだ。


このことを少し前に日記につけ、今、世間に公表してみた。

これと出会うのも、おそらく神様が成される

出会いにあるかもしれない。そう信じる俺が居る。


動画はこちら(^^♪

https://www.youtube.com/watch?v=pYbUWFUs9zc

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ウォーキングで学んだこと 天川裕司 @tenkawayuji

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