電車の中で

小日向葵

電車の中で

 電車に乗っていた。座席は埋まっていて、ちらほらと立っている者もいるくらいの混雑度だった。電車が駅に停まり、ドアが開いて人の乗り降りが行われた。

 腰を九十度に曲げた老婆が乗って来て、俺の左隣に立つ。すると、右斜め前に座っていた女子中学生がすっと席を立って「どうぞ」と小さな声で言った。ああ、心温まる光景だななんて思っていたら、遥か右の向こうから小太りなおっさんが空席目掛けてふうふう突進してきた。いるんだよなこういうの。

 俺はおっさんが座る前に、持っていたトランクを空席に置いてそっぽを向いた。周囲の目が俺に注がれる。おっさんが舌打ちしてその場を離れたので、俺はトランクを持ち上げて老婆に座るよう促し、老婆は頭を下げて席に座った。

 次の駅で俺は電車を降りた。変に注目されるのも感謝されるのも嫌だったからだ。俺なんぞは本来背景で構わないんだ。通行人でいいんだ。

 「偉い」

 突然後ろから背中を小突かれた。振り返ると、そこには禿頭に立派な白髭を蓄え、まるで古代ローマ人みたいな白いローブ状の布を纏い、チートスみたいな先のモコモコした杖を手にした爺が、笑顔で立っていた。

 明らかに不審者だと俺は判断した。無視するに限る。

 次の電車がホームに入って来たので、俺は行き先を確認して乗り込んだ。爺もついてくる。

 「お前に褒美をやろうと思ってな」

 無視に限る。俺は窓の外を流れる車窓に意識を向ける。広がる住宅の群れ。駅と駅の間の住人は、どういった基準で最寄り駅を決めるんだろう。目的地への運賃だろうか。

 「ほっほっほ、無視するな。儂は神様じゃよ」

 爺は紙袋をごそごそやった後、謎の人形を取り出した。

 「これはきっとお前の人生を豊かにするじゃろう。苦しい時は心の支えになり、悲しい時は慰めにもなる。そういう力を持った特別な人形、天界の宝じゃ。大事にするが良いぞ」

 爺は俺の手に無理矢理その不細工な人形を握らせると、ほっほっほと笑って消えて行った。周囲の人間がどよめいたので、俺だけに見えていた幻覚でも目の錯覚でもないと思う。

 電車が次の駅に停まって、ドアが開いた。人が何人も降りて、そして乗る。ぐずる小さな女の子を引きずるように、くたびれた格好をした母親が乗ってきた。

 女の子は何が気に食わないのか、顔中を涙と鼻水でべとべとにして何かに対し拒否と拒絶を表明していた。母親の方はと言うと、全く取り合う様子も我が子の機嫌を取るそぶりも見せず、ただ世界の全てに対して疲れと諦めを表明するかのようなため息をついていた。まるで世界中の不幸を一身に受けているような顔と態度だった。

 俺は、手の中にあった不細工な人形をぐずるその子に差し出した。あ?と間抜けな顔で見るその子に俺は人形をさらに差し出す。ぐずることを止め、おずおずと子供は人形を受け取った。母親は全く子供の方を見ていない。見る余裕もないくらいに疲れているのだろうが、ぎゅっと握った手は離さない。

 「あいがちょ」

 片手で人形を抱く女の子の頭にぽんと手を置いてから、俺はトランクと共に電車を降りた。背後でドアの閉まる音がして、電車はゆっくりと走り出す。

 俺はホーム据え付けの時刻表に目をやる。次の電車まであと十分、これで三十分の遅刻は確定だ。

 まあいいか。俺は自販機でペットボトルのミネラルウォーターを買い、透明な中身をぐびりと飲んだ。



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電車の中で 小日向葵 @tsubasa-485

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