第7話 オフィール

「殿下は国王になりたいんですか?」


 王都に向かう道中で、護衛についてくれた辺境伯の腹心であるライナーが聞いてきた。

 実はこの男とはあまり喋ったことがなかった。辺境伯の後ろに初日から佇んでいた男のはずなのだが。というか、辺境伯の後ろには影どころか大木のように彼が必ずいる。時折、楽しそうに会話もしている。羨ましい。


「いいや」

「そうですか。安心しました」

「なぜ?」

「辺境伯は殿下が来てから少し楽しそうです」

「そんなことはないだろう」


 あるはずがない。あれは明らかに出来の悪い子犬、いやヒヨコを見るような目だ。それに離婚書類だって平気でサラッサラと書いたじゃないか。


 鍛錬と言って剣を持たされて辺境伯と稽古をしたが、まるで彼女の相手に私はなり得なかった。私が騎士団で学んでいた正統な剣術は、相手が自分の常識内の行動しかしない人間でなければ相手にならない。


 辺境伯には足を引っかけられる、目を突かれそうになる、蹴りを胸に入れられるなど散々だった。私がうずくまって立ち上がる時、辺境伯は大笑いしながら私に手を貸す。私をいたぶって彼女が喜んでいると言うのか。


「君と話している方が彼女は楽しそうだ」


 ライナーの方が辺境伯との稽古についていけるし、いろいろと領内のことも相談もしているようだ。それに私がいないところでは「デライラ」と彼女の名前を気安く呼んでいる。しかし私の前では「辺境伯」なんて呼ぶあたり、きちんと弁えている出来た男だ。


 それが私の心にさらなる暗雲をもたらす。もっと嫌味な男だったなら、ライナーが致命傷を負っても回復魔法を使わないで平気でいられるだろうに。こんなに良い奴なら、ライナーが死にかけても私は何のためらいなく回復魔法を使うだろう。ライナーに縋って泣き叫ぶだろう彼女を喜ばせたくて。


「私は付き合いが長いだけです。あれです、悪ガキ同士が喋っているような」

「そうなのか? 君と辺境伯との婚約の話も出ていたと聞いたが」


 そう、一番面白くないのはこのウワサ、いや事実だ。タガーナイフをこれ見よがしに持っている家令のサムエルがポロリと口にしたのを聞いたのだ。


「それは辺境伯がドラゴンを倒す前までの話です」

「あぁ、そうか。彼女は竜殺しだ。申し訳がないな。彼女にはもっと強い婿がふさわしかっただろう。私などよりもずっと、ずっと」


 だから彼女はあれほど簡単に離婚を切り出したのだ。


 私の取り柄といえば金だろうか。投資も続けていて、辺境伯にも金回りのことは助言している。辺境では魔物の被害がいつ出るか分からないから、金がいくらあっても足りないのだ。金の話をする時、彼女は決まって私を見つめて「私の黄金郷は素晴らしい」と嬉しそうに目を細めていた。多分、私の髪と目が金色であることと名前の由来でからかっているのだろう。


 やっぱりあれは出来の悪い金色のヒヨコを見て楽しんでいるだけだ。でも、彼女にそんな風に見つめられて悪い気はしない。心臓の音だって不自然に速くなる。大人になってから女性にあんな風に、慈しむように見つめられたことなどないのだから。


 だから不相応にも願いたくなる。どうか、こんな私でも彼女の特別にしてくださいと。


「……まさか、殿下はご存じないのですか?」

「何をだろうか?」

「……いえ、私が申し上げることではありません」


 ライナーに再度質問したものの、それに対する答えが返ってくることはなかった。



 王都に到着して、宿で身なりを整えてから王宮に向かう。

 この一年ですっかり私は辺境に馴染んだようだ。王都に近付くにつれて人が多いと感じ、空気も汚く感じた。

 辺境をくすんでいると思っていたのに、今では王都がギラギラしすぎていて目を細めてしまう。


 王宮の入り口では私の婚約者だった令嬢と親である公爵が待っていた。


 王妃が私を王宮に呼び寄せて殺そうとしていることは、側近のロイドが入手した情報で知っている。本当に王妃は実子である第二王子を国王にしたいのだ。

 一方で公爵は第二王子に思う所があり、他の複数の貴族と共に私に寝返ると知らせを送ってきているのだ。なんて馬鹿馬鹿しい話だろうか。一度捨てたのにまた私が喜んでそのイスに座るとでも思っているのか。


「殿下」


 頭の中で情報を整理していると、公爵令嬢が側に寄って来る。母がまだ生きている頃、顔合わせをした時には彼女を美しいと思った。でも、所詮は作られた美しさだった。今は彼女について何も思わない。


 第二王子が暴力を振るったというのは本当らしく、令嬢は頬にガーゼのようなものを当てていた。


 彼女とは仲良くしていたつもりだった。でも、彼女と彼女の実家は陰で私を平気で裏切っていたのだ。そして今度は異母弟のことを彼らは裏切ろうとしている。


 ガーゼへの視線に彼女は気付いたらしく、悲しそうに俯いた。


「第二王子殿下が……女は口出しするなと」


 辺境でもっと酷い怪我を見ていたせいだろうか。それとも彼女が私を裏切ったからだろうか。ひとかけらの同情心も湧き上がってこない。辺境に行く前であれば、同情して何か声をかけただろうに。


 私は命懸けで国のために戦う者たちを見てしまった。裏切らず、権力への欲を持たない。そして、それを美しいと思った。最も美しいのは紫紺の髪を振り乱して血まみれで戦う書類上の妻だ。父を亡くし、兄を失い、ドラゴンを殺してまでエストラーダを守ろうとする彼女を。


「殿下!」


 彼女には適当な返事をして前に進もうかと思っていると、後ろからロイドの焦ったような声が聞こえた。その後ろでライナーも青い顔をしている。


 ロイドは声の聞こえない距離まで私を引っ張ると、耳元で告げた。


「辺境伯領にドラゴンが出現! エストラーダ辺境伯がドラゴンを討ち取りましたが、被害は甚大。辺境伯も酷い怪我を」


 続きを聞く前に私はロイドの腕を取って、入り口に向かっていた。


「殿下! どこへ行かれるのですか!」

「辺境で問題が起きたから帰るのだが」


 後ろで叫んだ公爵と令嬢にそう告げる。


「陛下に回復魔法を施していただきませんと! そうでないと殿下が次の王にふさわしいとみなされません」


 回復魔法を施したところで何だというのだろう。父である国王が不摂生なのはずっと前からだ。魔物と戦って毒を浴びたわけじゃない。それに、父はいつだって私のことを殺しはしないが、守りもしなかった。何だったか、辺境伯が言っていた。目には目を、歯には歯をと。


「殿下のお父様でしょう? 回復魔法を使ってくださいませ。あぁ、私の頬はいいのです。第二王子の勢力を削ぐのにちょうどいいので」


 令嬢が私の手を取って囁く。

 そもそも、私はもう殿下ではない。辺境伯に婿入りしたのだから。ロイドはいつもの癖もあるし警戒していて殿下呼びをしているのだが、最近では辺境伯に必要以上に噛みつかなくなってきた。ここに来る前は息まで合っていた。


 だが、この公爵令嬢と公爵が私を殿下呼びするとはどういうことだ?

 しかも殿下と呼びながら許可なく手を握ってくるなんて。しかも、私が彼女の頬を治すのが当たり前だというその態度。


「勝手に触らないでくれ」


 公爵令嬢の手を振り払うと、彼女は大げさに体を震わせる。彼女の家が筆頭公爵家だとしっかり身に染みて分かっていたから、彼女をこれほど邪険に扱ったことはなかった。そんな勇気だってなかった。


「私は辺境伯の婿だ。殿下ではない」

「あのような野蛮な田舎の女を押し付けられて結婚しただけでしょう? そのようにわざと振舞わずとも殿下、ここは公爵家の派閥で固めております」


 再度手を取ろうとしてくる彼女をまたも振り払った。

 心は不快だが、頭は冷えている。そして私の脳裏にあるのはエストラーダ領を侮辱されて静かに怒った彼女の姿だった。


 そう、私は諦めきっていた。大切なものを奪われて、裏切られても怒ることができないほどに。

 王位なんてどうでもいい。父だってどうでもいい。でも、私を「黄金郷」と呼んでくれる彼女だけは。


「私を裏切って第二王子と結託した女ごときが、私の妻を侮辱するな」


 その言葉で護衛としてついてきていたセルヴァが私と令嬢の間に割って入る。彼女は私の怒りを含んだ声にショックを受けたようで黙ったが、代わりに公爵が口を開いた。


「殿下、よろしいのですか。そのような態度で。私たちの助けがなければ殿下は王位どころかここから生きては出られないかもしれないのですよ」

「どうせ父に魔法を使ったところで、後で毒でも飲ませて殺せば私が失敗したことになるのだろう? 私を裏切ったお前たちをどうやって信じろと?」


 公爵たちが本当に私の味方かなんて分からない。

 回復魔法を使った後で国王を殺せば、私のせいにできるではないか。


 ライナーががっちり私の手を掴んだ。それを合図にロイドも私もセルヴァもそっとハンカチを口に当てる。ライナーが地面に叩きつけた玉が弾けて煙幕が視界を覆い始める。私たちはすぐにさっきくぐった入り口に向かって走り始めた。


 前にはライナー、後ろはセルヴァが守ってくれる。ロイドもしっかりついてきている。向かってくる王宮騎士はライナーたちがすでに何人かねじ伏せた。


「持ってきておいて良かったです」

「何を追加で入れたんだ」

「唐辛子ですね」

「もう少し改良すれば魔物にも使えそうだ」


 ロイドの少し弾んだような会話を聞きながら、馬に乗る。

 書類上の妻は強い、とんでもなく強い。無力な私なんていなくても彼女は一人でさっさと前を向いて進むだろう。


 子供の頃は思っていた。勝手にもっと有能で素敵な愛される大人になるのだろうと。

 そんなことはなかった。情けない私はそのまま情けない大人になっただけだった。


「殿下、申し訳ないのですが最短距離でエストラーダ領まで帰ります」


 馬上のライナーの顔色はまだ青白い。


「もちろんだ」

「殿下、これは私の口から言うことではありませんが。緊急事態ということで説明させていただきます」

「うん? 分かったが、緊急事態ならもっと口調を崩して大丈夫だ」

「はい。ドラゴンに止めを刺した人物は必ず呪われます。デライラは以前ドラゴンを殺したことで呪われて子供を望めなくなりました、さらに言えば普通の人間よりもずっと早く死ぬでしょう。彼女の腹にはどす黒くドラゴンが巻き付いたような呪いがある……らしいです」


 ライナーが語ったのは竜殺しの末路だった。

 言葉が出ない私にライナーは続ける。彼が平気で「デライラ」と呼んでいることにショックは受けていない、多分。


「今回もう一度ドラゴンの呪いを受けたなら、デライラはどうなるか分かりません。二度ドラゴンを殺した人物は世界に存在しないので。そもそもドラゴンはそんなホイホイ出ません、倒せません」

「……国王はそれを知っていて私を婿入りさせたのか。子供ができないと」

「そうでしょう。子供ができたら厄介ですからね。てっきり、あなたも知っているかと思っていました」

「知らなかった……いや、早く言ってくれれば私の魔法を試した」

「俺だってそれをデライラに言いましたよ! 俺はあなたのことよりもデライラの方が大切だから!」

「ライナー、落ち着け」


 ライナーの悲痛な声をセルヴァは諫めた。セルヴァの様子から彼も知らなかったことがうかがえる。


「でも! ドラゴンの呪いは下手に解呪しようとするとその解呪しようとした者に移るんです! だからデライラは解呪を望まなかった。どうせ子供ができずに早めに死ぬだけだと! 兄が辺境伯を継げばいいと」

「兄というのは出て行ったのではないのか?」

「兄のテオドール様は出て行ったわけではありません。彼はドラゴンの呪いを解明するためにデライラと壮絶な喧嘩の後で黙って旅に出たのです。デライラはテオドール様に呪いが移って欲しくないから、金品を奪って逃げたと言っているだけで! 俺以外はこれを知りませんけれど! でもデライラがいつも用意している遺書には、兄を呼び戻して辺境伯を継がせることという文とともにこの事実が書いてあります。俺は勝手に見ただけですが」

「……では兄の名誉を貶めてまで、兄を守っていると?」

「そうです!」


 ライナーは前を向いて泣いていた。すぐに顔を俯かせたからハッキリと見たわけではないが。セルヴァもロイドも何も言えないようで揃って青白い顔をしている。


 ライナーもまさかこんな短期間でドラゴンが出現するなんて思わなかっただろう。だから彼は今辺境を離れた後悔で泣いている。自分があの場にいれば、ドラゴンに止めを刺したのにと。


 そして書類上の妻、デライラ・エストラーダ。

 呪いのことなんて、私に一言も言わなかったじゃないか。押し付けられた婿になら言わないか。早死にすると分かっていて、どうしてあんなに生気溢れる笑みをこぼせるんだ。


「どうでもいい私に回復魔法を使わせれば良かったのに」


 どうして彼女はそうしなかったのだろう。こんな落ちぶれた無様で無力な王子だった私のことなんて、何も考えずに回復魔法を使ってくれと言うだけで良かったのに。そうしたら呪いを移せたかもしれないのに。


「ライナー、泣いている場合ではない。早く帰ろう」

「泣いていません。唐辛子が目に入っただけで」

「私は君に大切に思われる人間じゃないが、そこまで器の小さい人間ではない」


 書類上の妻は私が思いもよらないほど強い人だった。


 彼女の隣に情けない私なんていらないだろう。でも、それでも。彼女を救いたいと思ってしまうんだ。どうしても、彼女に生きていて欲しいと思うんだ。彼女の痛みや呪いだけは私が引き受けてもいいと、そう思うんだ。そのためなら他のことなんてどうでも良かったんだ。

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