第5話 オフィール

 目を開けると少し隙間の空いたカーテンの向こうは真っ暗だった。

 高熱を出した後のような倦怠感が体にある。

 回復魔法を久しぶりにたくさん使ったから、体がついていかなかったようだ。魔力の配分も下手くそだった。


「目が覚めたか」


 側近のロイドではない声がしてそちらを向くと、辺境伯がベッドの側のイスに足を組んで座っていた。彼女は夜でも、座っていても偉そうだ。


「辺境伯? ロイドは?」

「あなたの側近なら休ませた。神経質で気を回しすぎるからな。横で今にも死にそうな顔で看病されてはかなわないだろう」


 ぺちりと額にひんやり冷たいタオルが置かれた。

 彼女の紫の目がこちらをしっかり向いている。辺境に来て三カ月ほどだろうか。やっと彼女の目を正面から見つめても平気でいられるようになってきた。生気に溢れて、命をかけて辺境を守っている彼女が眩しすぎて直視できなかったのだ。


 それに彼女の目に、自分にずっと向けられてきたような疑いや怒りそして蔑みが浮かんでいたらと思うと、怖かった。見るまではそれを本気で私は怖がっていた。彼女と目を合わせればそんなものはないと瞬時に分かるのに。

 そう、彼女は私を見下してもいないし怒ってもいない。それが何よりも有難かった。


「今日はあなたのおかげで三人の兵士の未来が守られました。オフィール殿下、我が領の兵士たちを助けていただきありがとうございました」


 彼女が急にイスから立ち上がって跪いたので、私は慌てた。


「辺境伯」


 半身を起こしたので、せっかく置いてもらったタオルがずり落ちる。


「セルヴァは腕を切り落とさなくて済み、ノートンは足の壊死を免れ、ピーターは視力を著しく失いませんでした。本当にありがとうございます」

「やめてくれ、辺境伯。私が勝手にやったことだ」

「それでも、助かりました。殿下はお力を隠していらっしゃったのに、我が領の兵士たちのために使ってくださいました」


 私はここで初めて辺境伯が丁寧に喋っていることに気付き、おかしな気分になった。彼女は最初から私を敬う言葉遣いをしていなかったのに。こんな言葉遣いもできるのか。しかし、感心よりも寂しさを大きく感じた。彼女とさっきよりも距離が出来た気がしたのだ。


「そんなかしこまった喋り方はやめてくれ。その……私たちは一応夫婦だろう、その書類上は」


 辺境伯のつむじに話しかけていたが、彼女がバッと顔を上げる。


「えぇ、まぁそうだが」


 私の言葉が意外だったのか、彼女の口調が乱れている。


「辺境伯は魔物を前にしても取り乱さないのに、怪我をした兵士を前にして叫んでいたから。気付いたら回復魔法を使っていた。そもそも治せる自信もなかった」


 いつも冷静で、使用人にエストラーダを侮辱された時は静かに怒って、取り乱すことなんてないだろうと思っていた彼女が恐ろしく取り乱していた。兵士たちをきっと家族のように思っているのだろう。そう感じたらロイドの制止さえ振り切って回復魔法を使っていた。


 あの兵士がただただ羨ましかった。

 ロイドや乳母は私が死んだら悲しんでくれるだろうが、その他に悲しんでくれる人を私は思いつかない。むしろ「あの第一王子、やっと死んだか」という反応が多い気さえする。


 まるで女王のような、気高く美しい彼女に心配して欲しかった。そしてそれは今叶っていた。てっきりロイドが側についていると思ったのに、看病というか監視してくれていたのは彼女だ。


 私は初めて、自分の持つ回復魔法に感謝した。自分や乳母やロイドにしか使ったことはなかったが、本当に初めて感謝した。


「すべて私が勝手にやったことだ。私は色々とあって全てを諦めてここに来た。正直押し付けられた結婚だと思っていたし、疲れていた。死にたいと考えていたが、死ぬ勇気は出なかった。でも、初日に魔物と戦う辺境伯を見て自分が情けなくなったんだ。あなたの方が私などよりよほど王族らしかった」

「そんなことは」

「ずっとこのままではいけないと思っていたんだ。でも、一歩がどうしても踏み出せなかった。諦めて殻にこもっていた方が楽だから。あなたを毎日見ていたから、私は今日回復魔法を使おうと踏み出せたんだ。だから礼を言うのはこちらの方だ」


 私は自分が何者かでありたい。特に彼女の中で。それなのに、こんな恰好を付けた言葉しか口から出てこない。あなたが喜んでくれて良かったと、そう言えればいいのに。こんな利己的な自分を気高い彼女は許してくれない気がした。


「……正直、やらかした鼻持ちならない王子を押し付けられたのなら躾をしてやろうと思っていた。まさか金以外の形で助けられるなんて思ってもいなかったんだ。私はまだまだ思い上がっていたようだ。何でも一人でやってこそ辺境伯だと」

「ははっ」


 大真面目な表情で「躾」と正直に言われたので、私は笑った。久しぶりに心から笑った気がする。


「魔の森に入れられたのは躾だったと思う」

「あんなものは躾ではない。子供でも狩れる魔物だ」



 回復魔法を使っても、辺境伯はロイドや母が心配していたように搾取し続けることはなかった。なぜなら、辺境では怪我は名誉であり大切な思い出であるからだ。


 彼女の部下が死にそうな時は駆り出されるくらいである。魔の森についていくことはないが、私も魔物討伐から帰って来た兵士たちを迎えてすぐに致命傷を治療できるように待機している。エストラーダの者たちは強いので、ほとんどの兵士はめったに致命傷を負うことはない。


 家令のサムエルという、タガーナイフをよく手にしている者の背中には大きな火傷があると聞いた。治そうかと勇気を振り絞って声をかけたところ「ご冗談を」と一蹴される。


「この火傷はドラゴンの火によるもの。先代辺境伯を一度は庇った名誉と恥の傷です。これがなければ、私はただの役に立たない死にぞこないの老いぼれでしょう」

「そんなことはない。今でもあなたは十分に強いじゃないか……」


 名誉の後に恥とついたのを聞き逃しかけて、私の語尾は思わずすぼんだ。

 王都からついてきた使用人全員をすぐに殺せそうな男が、役に立たない訳がない。というかこの前、王妃の密偵の役目を持った使用人を見つけて殺しかけていなかっただろうか。「死体は魔の森に投げ込めば処理は簡単です。血を拭くのが難儀ですね」とか真顔で言っていなかったか?


「私がいくら強くとも、先代辺境伯をお守りできたのは一度だけ。私のような老いぼれは生き残り、勇敢なる先代辺境伯はエストラーダ領を守って丸焦げになりました。私はあの一度の名誉と恥とともに生きているのです。この火傷で先代辺境伯を一度はお守りしたものの、熱さと痛みで気絶し、デライラ様に竜殺しをさせてしまいました」


 幼い頃から辺境伯を見てきたのだろう、家令でさえさらりと辺境伯の名前を口にする。それが羨ましいのだが、さすがに口にできる雰囲気ではない。


「私はこの傷を息子や孫、若い兵士たちに晒してこう言うのです。『もっと強い兵士になれ。私のように生き恥をさらしたくないのならば』と」


 私が何も言えないでいるとサムエルは続けた。


「お申し出には感謝しますが、これは私の生きた証なのです。そして先代辺境伯との大切な思い出でもあります。この傷を見る度に、私は彼のことを決して忘れずに思い出せるのですよ」


 サムエルは背筋を伸ばして一礼して去っていく。やっぱり、私は何と言えばいいか分からなかった。ただ、辺境伯の名前を呼ぶ勇気はさらにしぼんでしまった。


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