熱帯夜

フライドポテト

 

 蒸されるような暑さで起床してしまった。

 外から光が入ることはなく、部屋はぼんやりと薄暗い。

「あっぢぃ……」

 湿気が汗を呼び、シャツも下着もベッタリと肌に密着していた。服を仰いでも入ってくるのは熱気ばかりで、体温は一分たりとも冷めない。

 六畳一間の狭苦しい部屋に充満する湿気は、サウナに入っているのかと錯覚する暑さだ。

「タイマー短かったかなぁ……」

 エアコンを2時間後に切るようにしていたのは采配ミスだった。この蒸し暑さなら三時間、いや4時間でちょうどいい。

 リモコンを片手に、タイマーの再設定を試みた。

「ん?」

 動かない。液晶画面は変わっているのに、エアコン本体はうんともすんとも言わない。

「え? 待って待って!」

 暑さとは裏腹に、鳥肌が立った。

「困るよ困るよ~! 死ぬよ死んじゃうよ!」

 何度リモコンを叩いてもエアコンは付かない。

 終わった……。

 扇風機は持ってないし、この暑さじゃ寝られない。

 明日も早朝から予備校があるというのに……。

 ダメ元で、窓を開けてみる。

「うぎゃっ!?」

 開けた瞬間、湿りけのある熱気が顔を覆った。太陽は沈んでいるというのに、ジメっとした暑さが中に入ってくる。

 これでも室内は外よりマシらしい。

「はあぁ……、ほんとどーしよぉ……」

 窓をすぐに閉め、布団の上であぐらをかいた。

 熱風で完全に目が覚めた。ぼやけていた視界もどんどん鮮明になっていく。


 ガチャッ……。


 玄関の方から扉の開く音がした。振り向くと、黒い影がうごめいていることが確認できた。

 全身を恐怖が支配し、心拍数の上昇が止まらない。夢である可能性がかすかによぎるものの、この暑苦しさを脳内だけで再現できるとは思えない。部屋に不審者が侵入した……これは紛れもない事実だと結論づけた。

「だれ……?」

 手元で武器になりそうなものはリモコンしかなかった。それでも全くないよりはマシかと思い、強く握った。片手だと手汗で滑りそうだったので、もう片方の手も添える。

「うえ~、こっちも暑いなぁ~」

 軽々とした口調で、通りの良い澄んだ声。それには心当たりがあり、心拍数の下降がはじまる。

「あなたは……水瀬さん?」

 水瀬さんは隣に住む2つ上の女子大生だ。外出や帰宅の時間が被ることが多く、顔を合わせることが多い。ちょうど私の志望する大学に通っていて、時々大学の話を聞かせてくれる。水瀬さんの話は勉強するモチベーションにもなるので、とてもありがたい。

「うん。ウチの所のエアコンが壊れちゃってさぁ……こっちなら涼しいかなーって」

 一方、水瀬さんは距離が近すぎると感じる時もある。やたら私生活に突っ込むような問いかけをしたり、ちょっとしたことで部屋に尋ねてきたりする。一人暮らしする前は隣人の顔すら知らなかったので、この距離感の差には違和感しかない。

「困りますよ……」

 今も、扉が開いているという理由だけに勝手に部屋に侵入してきた。こっちがその気になれば警察に突き出せる行為である。

「あはは、ごめんごめん。夜中にチャイム鳴らすのはちょっと悪いかなぁって、寝てるなら起こしたくなかったし」

 水瀬さんは眉を落としながら半笑いをした。都合が悪くなるとすぐこの顔になり、もう目に焼き付いている。

「そういう問題じゃないです」

 暑くて怒る気力も湧かない。腹の底で煮え立った怒りすら、気温の暑さを下回っている。

「しかし受験生チャンの部屋も暑いとなると、どうしようかねぇ」

 水瀬さんはなぜか頑なに私を〝受験生チャン〟と呼称する。表札に苗字が書かれているし、初対面の時に挨拶もしたのだから、普通の呼び方をしてほしい。肩書きで呼ばれるのは独特の恥ずかしさがあり、耳にするたびに耳元がゾワゾワとする。

「赤星さんの所に行く?」

 水瀬さんは向かって右側を指差した。赤星さんはアパートのもう片方に住む社会人である。

「やめてください……今度こそホントにトラブルになりますよ?」

 赤星さんとは接点がほとんどない。水瀬さんはもしかしたら接点があるかもしれないが、それでも私まで入ってきたら迷惑だろう。

「そうかなぁ、そうかもなぁ。じゃあどうする? そうだ! 氷とかある? あれを口にするだけでも……」

「食べたら帰りますか?」

「…………」

 ずっと開いていた水瀬さんの口が急に閉ざされる。じっと黙り込み、鼻の穴を動かして呼吸をする様子は、口から空気の介入を一切しないという強い意志が感じられた。

「食べたら帰ってくださいね」

 返答を待つのを諦めた。水瀬さんの前を通り、冷蔵庫に向かう。一人暮らし用のため非常にコンパクトな大きさで、しゃがまないと扉を開けることができない。

 冷蔵庫の冷凍室を開け、薄黄色の光が室内に漏れる。ひんやりとした空気が広がって、体がキュっと引き締まる。冷凍室をずっと開けていたくなるが、電気代がもったいないのでそれはできない。

 素早く製氷皿に手を伸ばす。しかし、それは異様に軽かった。

「……ない」

 製氷皿には何も入っていなかった。そこでやっと氷に使い切っていたことを思い出した。

 晩ごはんを食べた後で氷を作ろうと思っていたまま、手を全く付けていなかった。

「食べれないから帰れないや」

 後ろからひょっこりと顔を覗かせて、水瀬さんはにやけるように言った。

「水瀬さんの家に氷はないんですか?」

「私の部屋に来たいって意味?」

「帰ってもらおうと思っただけです」

 あまりにも都合の良い解釈に、ついムキになる。冷凍室を閉じる時に必要以上の力が入ってしまい、夜中にはふさわしくない大きめの音が出てしまった。

 水瀬さんの発言は冗談交じりのもの、本気で受け取ってはいけない……。

 深呼吸をして、心の乱れを整える。しかし、少しだけ冷えた体はどんどん熱を吸収していき、肉体は熱くなるばかりだった。

「……ごめんね」

 水瀬さんの口調は急にしおらしくなった。眉尻を落とし、口を尖らせた顔がおぼろげに思い浮かぶ。

「…………」

 ここで優しい顔を見せたら、また調子に乗ってしまうだろう。水瀬さんはそういう人なのだ。罪悪感が胸をチクチク刺すが、元をたどれば私に非は一切ない。

ここは断固なる決意で、表情筋に力を入れたままにした。

 真顔を維持した状態で、水瀬さんのほうを見た。目が合った途端、水瀬さんの瞳は大きく開いた。まるで飼い主と再会した犬のようだ。

「アイス買ってきてあげるから。ね、それで手を打って」

 水瀬さんは両手を合わせ、チラりと舌先を見せてくる。

「ダメですよ、こんな夜遅くに」

「んん? 何で?」

 何で……? 本当にお気楽な性格をしている。隣人がここまで危機管理できない人だと、怖さが上回る。

「だって……危ないじゃないですか……。変な人に襲われたりとか……」

 時計は確認していないが、今は明らかに深夜0時を過ぎている。そんな夜道に出向くなんて常識的に考えてあり得ない。

「ぷっ……! くくくくく……!」

 水瀬さんは腹を抑えて笑い出した。

「か、かわいい……! ここそんな治安悪くないし、このアパートに住んでてそれ言う? く、くく……、ダメダメ、お腹痛くなっちゃう!」

 さらにはしゃがみ込み、畳をバンバンと叩きだす。その反応を見て、急に自分の発言が恥ずかしくなってきた。ここの蒸し暑さとは別に、耳が熱くなってきた。

 日中より夜中のほうが犯罪トラブルに巻き込まれやすので、襲い時間帯の不要な外出は避ける。これ自体は間違っていないはず……それなのに、水瀬さんにここまで笑われると、自分自身の価値観に不安が生じる。

「……そんなこと言われても、怖いものは怖いです」

 自信がぐらついて声が全然でなかった。恥ずかしさから、顔を水瀬さんから逸らす。

「いや、とにかく大丈夫だから! 私はよく夜中散歩してるし」

 私の肩に水瀬さんの手が優しく添えられる。手汗で少し湿っていて、シャツを通しても体温が伝わる。

「それに……二人で行けば。安全度は2倍だよ」

 諭すような声が耳元に届き、顔に入れていた力が抜けた。


 蒸されるような暑さは、恐怖という感情すら押し潰れそうになる。

 日中より気温は低いかもしれないが、湿度の高さが汗の蒸発を妨げ、体の熱が外に全く逃げてくれない。着替えるタイミングが無く、汗が染み込んだ寝着のまま来てしまったので、汗は垂れ流し状態であった。

 特に、手の汗がびっしょりと濡れている。水瀬さんの指が絡まっているからだ。

 最初は親指以外の四本の指を、水瀬さんに握られた。途中、汗で滑って手が離れると、水瀬さんは指と指を交互に絡める手の繋ぎ方に変更した。手は離れないが、湿り気が倍増する。自分の汗だけじゃなく、水瀬さんの汗も混じった液体が手に充満していると考えると、少しだけ気持ちが悪い。

「恥ずかしく……ないですか?」

「何が?」

 水瀬さんは振り向いた。口が半開きのまま首を傾げていて、嫌悪感などを催してはいないようだ。意識しているのは私だけ……。

 その後は特に会話もなく、暗闇を進んでいった。厳密には、水瀬さんに合わせて歩くだけだった。日中に見慣れているはずの町並みも、夜中ではかなり雰囲気が変わり、同じ町という認識ができない。街灯の光でぼんやりと照らされる路地の様子が、自分にとっての唯一の手掛かりで、正しい道を進んでいると認識できる材料であった。

 淡々と進める水瀬さんは、本当に夜中出かけるのに慣れているのだと実感できた。

 ほとんどの建物が明かりを閉ざしている中、一つだけ内部の光を漏らしている建物があった。ずっと夜道を歩いていた者にとってその光は強すぎて、極限まで目を細めてしまった。

「あ、着いた着いた」

 水瀬さんの歩く速度が少しだけ上がった。


 節電のためか、コンビニの冷房は切られている。店員はレジに一人のみ、椅子に座ってだらしなくうちわを仰いでいる。来店した私たちには目を向けないどころか気付いてもいなそうだった。

「うえ~、ここもかぁ~。ほんとヤバいよね今年って」

 水瀬さんは私の手を離し、両手で顔を扇ぐ。外と変わらない気温で扇いでも効果はないだろう。実践してから察知した水瀬さんは、すぐに扇ぐことをやめた。

「ここでタムロする意味も無さそうだし、早く買って戻ろっか?」

 一直線にアイスのある冷凍コーナーで向かっていった。さすがに、冷やさなきゃいけないものの冷房はしているようだ。冷凍コーナーの近くにいれば涼めるはずだが、そこまでみっともない行為をするほど、水瀬さんは落ちこぼれていないらしい。少しだけホッとする。

「ふあぁ……」

 ここに来て眠気が暑さを上回ってきた。口が自然と大きく開いてしまったので、とっさに両手で押さえる。水瀬さんの後に付いていきアイスを選びたいが、足も思うように動いてくれない。

 日付が変わった深夜まで起きているなんて、生まれて初めての出来事だ。覚醒した意識がまたもうろうとし始めている。

 早く帰らないと……道端で寝るはめになってしまう。

「うわっ!?」

 大きな声が、眠気を一瞬だけ覚まさせた。

「アイス……一個しかない」

 水瀬さんは今にも泣きそうな顔で、口をポカンと開けていた。


 残っていたアイスは円筒状の一本のみだった。近くに他のコンビニはないし、アイスを売っていそうなお店は営業時間外である。水瀬さんは仕方なく、一本だけアイスを買ってコンビニを出た。

 再び手を繋ぎ、来た道を淡々と戻っていく。

「あーあ……。はいよ」

 水瀬さんがアイスの入ったビニールを差し出してきた。

「……水瀬さんは食べないんですか?」

「いやぁ~、欲しいけど、ねぇ? 受験生チャンが気にしないっていうならいいけど……」

 珍しく照れ気味に、水瀬さんは顔を背ける。

一つしかないアイスを分けるということで、遠慮をしているらしい。しかもこのアイスは木の棒が突き刺さった、一つの固形物である。これを分けるとなると……一人の口が触れたものを、もう一人が食べる必要がある。そういうことに鈍感だと思っていたので、水瀬さんの反応は意外であった。

「気にしませんよ。だから遠慮しないでください」

 私はビニール袋を押し返した。気にしないというのは嘘であるが、いつも好き勝手させられている水瀬さんをからかってみたいという気持ちが上回っていた。

「え? ほんと? いやでも、私は後半食べるからいいよ」

「どちらかというと、私の食べかけのものを水瀬さんが食べるほうが嫌です」

 自分でも何故こんな言葉を口走ったのかが分からなかった。自分の意思が介入している感覚がない。何かに取りつかれたかのような、もしくは第三者の行動を覗いているような……とにかく、今の自分は自分でない気がした。

「ああ、そうですか」

 水瀬さんの敬語は初めて聞いたかもしれない。相当動揺していることが伺える。ゆっくりとビニール袋を受け取り、アイスの袋を開ける。

「…………」

 無言で口を開け、水瀬さんはアイスを咥える。

「んん~! ふへはい! ひひはえふひはい!」

 口を閉じた瞬間、声が上がった。アイスの半分以上を飲み込んだまま喋っても、何を言っているのか一切分からない。だが、目をパチパチとさせて喜んでいるので、どういう心境なのかは想像が付く。

 水瀬さんはそのままアイスの棒を引き抜いた。アイスは奇麗に嚙みちぎられた。

「ほい」

 残ったアイスが差し出される。表面はまだ凍っていて、細かな氷の粒が確認できる。水瀬さんの唇が触れた切断部は、熱によって表面が液体に変わりかけていた。重力に逆らえず、形がゆっくりと崩れかけている。

「……ありがとうございます」

 このまま地面に落ちたらもったいないので、急いでアイスにかぶりついた。棒を横に傾けて引き、棒の上側にアイスが移動させる。そこで棒を縦に戻し、喉がつっかえることなくアイスを全て口に含めた。

「ふふふっ……」

 水瀬さんの笑い声が聞こえた。既にアイスを食べ終えたらしく、深いえくぼを作ってニヤニヤと見つめ、私を観察していた。

「実は私も、受験生チャンに食べてほしかったんだ……私が食べたアイスを」

 下唇に人差し指を添え、水瀬さんは顎を引く。自然と上目遣いになり、それが私の心を突き刺す。

 強く握られたかのように胸が苦しく、さらに熱くなっていった。体中がムズムズと痒くなり、全身をかきむしりたくなる。

 普段はサバサバとしている水瀬さんが、媚びるような視線を向けている。頬は赤く染まっていて、物欲しそうであった。

 いつもの水瀬さんではない。いや、絶対にこんなことをする人ではない。

「そうですか……」

 ここで初めてアイスが冷たくないことに気付いた。

 スッと波が引くように、体が冷めていった。

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熱帯夜 フライドポテト @IAmFrenchFries

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