⓾ キペとシクロロン
「お、こ、・・・こんぶっ!」
なにそれっ、と寝ぼけまなこのキペに問うシクロロン。
部屋ではニポも眠っていたのだが辺りの静けさからすると今は夜のようだ。
「あら、目が覚めたのですね。よかった。」
鼻血も拭われ顔の腫れもいくぶん引いてきたキペも起きたばかりでは頭がうまく働かない。どうも目が覚めたとき見知らぬ場所にいることに慣れていないのだ。
「ここは・・・あ、きみは? あう、ニポ。・・・あっ! パシェは? 小さな女の子っ!」
大混乱の整理にてこずるキペをシクロロンは微笑みでなだめる。
「大丈夫です。お連れさんたちなら奥の部屋で待っていますよ。
それと、ここは教会の隣にある個人の屋敷です。医法の設備が整っているわけではありませんが、手術の必要な重傷ではないようなのでここで休んでいただくことにしたのです。
そして、私はシクロロン。今お連れさんを呼んできますね。あなたはまだ休んでいてください。」
簡素な丈の長い上着に脚をすっかり隠したスカートのシクロロンの背には、初めて見る翅が生えていた。
シム人の中でも生える場合とその大きさがどういった優位で決まるのかわかっていないものだったが、もしかしたら飛べるんじゃないかと期待させるほどその翅は異常に大きかった。
そしてその折りたたんだ翅には、不気味な目のような模様が五つ、浮かんでいる。
「あの、・・・シクロロンさん、ありがとう。いい名前だね。長いけど。」
ぽた、と額から落ちた濡れ手拭いはシクロロンが取り替えてくれていたのだろう。それを額に当てなおして、キペも微笑んだ。
「はい。」
あまり褒められたり感謝を告げられたりしたことのないシクロロンは少し照れて、奥の部屋へと仲間を呼びに出ていった。
「・・・ニポ?」
キペのいるベッドからひとつ離れたところで眠るニポは、その声に応えることなく寝息を立てている。
「よいしょ、っと。・・・んっ!」
殴り蹴られた体も痛かったが、ニポをかばってダイハンエイから転げ落ちた時につけた傷が、上体を起こすキペの体のあちこちで思い出したように悲鳴を上げる。
それでも『ヲメデ党』の隠れ家で受けた恩もあるから、と布団から這い出ようとするニポの様子を見にキペは立ち上がる。
「ふぅ。とりあえず追っ手は振り切れたみたいだなあ。・・・うもっ。」
そうして何気なくニポの額に手を置いてみると、腫れの引かない自分の顔よりずっと熱くなっていてびっくりしてしまう。枕のそばに落ちていた手拭いは生乾きになって温かくなっていた。
「あや、こりゃ大変だ。」
体の節々はまだ痛むのの意識があるぶんだけ動けるキペは、水桶のある台で手拭いを浸すとニポの赤い顔にそっと載せてあげた。そして跳ね除けてくしゃっとなった布団を首まで上げてやり、その手を掴もうとするニポの手を包み込むように両手で握ってあげ――
「みゃーっ! お、お、オカシラああぁーっ!」
とそこでシクロロンに連れられてやってきたパシェがおっきな声を上げてダイハンエイのようにすっ飛んでくる。床に膝を付いていたキペはそれに弾かれてあっちにやられる。
「おふー、・・・なんだ、まだだいじょうぶじゃないか。
こらちぺっ! まぎらわしいことすんなよっ! てぬぐいひろげてかおにのっけてたらナニかとおもうだろっ! それにちゃんとしぼれっ! みてみろ、オカシラがズブぬれじゃないかっ! あ、いや、ヘンなイミじゃなくてっ!」
突き飛ばされたうえ大声で怒鳴りつけられるキペ。身も心もズタズタだ。
「あっはっはー。そうかそうか、キミはシクロロンちゃんっていうんだねぇ。長いからロロンちゃんにしよう。あ、ボクはねぇ、シム人だろうとユクジモ人だろうと垣根なく愛しているからね、うん。つぶらな黒目がかわいいねぇ。おやキペくん。あ、ニポちゃんはまだおねんねかぁー。じゃあロロンちゃん、二人でどこか遠い夢の園にでも――――」
「うるっさいんだよっあんたらぁっ! パシェ、あんたもいつまでチペが乗っけたこの滴ってる布ほったらかしてんだいっ! 息ができないだろうがっ! なんかもうしょうがなくて起きちゃったじゃないのさっ・・・うぉ・・・ほぐっ。」
びっちゃびちゃに濡れたニポにシクロロンまで怒られて静まり返る。
ニポはといえば事切れたように再び意識を失って眠っていた。
だので夜の静寂のぬくもりというものを改めて知る一同だった。
「・・・ニポ? あ、寝ちゃったかな。よっこい、っと。それにしても何でエレゼさんが?」
体が起きてきたらしく立ち上がるのもそんなに困難ではなくなってきた。無理はできないが慣れれば日常生活は送れそうだ。
「あー、それな。ちぺ、このヒトにかんしゃしろよっ! このヒトと、あとたびのヒトたちがたすけてくれたんだっ! そのヒトたちはもういっちゃったけどっ!」
ぺちん、とエレゼの膝を叩いてえっへん、とやるパシェ。
当のエレゼはシクロロンに猛アピール中だ。
「そうだったんですか。ありがとうございます、エレゼさん。
・・・あ、そういえばカーチモネ邸にもいませんでした? ヒトが多くてごちゃっとしてたんですけど、でもアレはおそらく・・・」
ヒマ号の中からニポとパシェが出てきて矢の雨にさらされたとき「そしてかわいいっ!」と唸っていた男のシルエットがどう考えてもエレゼだったのだ。あの時は夢中だったものの思い直すとずいぶんな偶然だ。
「あーそうだねぇ。たぶん楽隊が彼の屋敷に呼ばれていたからじゃないのかなあ。はは、ま、いーからいーから。」
部屋の中でも帽子を取らないキラキラの瞳を持つエレゼはたぶん、そんなことより大切にしたい時を今この瞬間に見出しているのだ。でなければシクロロンがその眼差しにあたふたすることもなかっただろう。
「エレゼさん・・・楽隊に紛れて入ってきてたんですね。あ。」
と気付いたときにはぎゅー、とお腹が鳴っていた。
パシェやエレゼは食事を摂っていたのだがキペとニポはまだだった。
「ふふ、じゃあ私、何か持ってきますね。もう夜だからきちんとしたものは作れませんが。」
よく働く医法師さんだな、となんだか悪い気がしてきたキペはそれを制して立ち上がる。
「あ、大丈夫ですよ。僕、歩けますから。案内してくれれば自分でできます。パシェ、エレゼさん、ニポを看ててくださいね。」
まかせろ、とどーんと胸を叩くパシェの背後できらりと目を輝かせるエレゼ。
「そうだパシェちゃん、キミもついていった方がいい。断然いい。ここにいない方がいい。またはもう寝た方がいい。無論、別室がいい。健康にいい。美容にもいい。明日を拓く美貌がほしけれ――――」
だので。
「エレゼさん・・・パシェ、ニポを守るんだ。いいね。」
まかせろ、とどーんと再度胸を叩くパシェの背後でしょんぼりするエレゼ。
アヒオとリドミコがいなくなっても似たような連中とは縁のあるキペだった。
「ねえシクロロンさん、きみ一人で切り盛りしているの?」
部屋を出ると暗い廊下が続いて屋敷の広さを教えてくれる。しかし明かり取りからの月あかりにぼんやりと照らされていたためそこに不気味な雰囲気はなかった。
「いえ。あの、あなたのお名前は? なんだか二つも持っているヒトのようだけど?」
そういえば、と思い返せば『ヲメデ党』の二名にはチペと勘違いされて呼ばれたままだ。
細かいことは気に掛けない性格だったのが幸いして今までどうとも思わなかったのだろう。
「あ、ごめん。僕はキペ。・・・きみも知ってるかな、セキソウの村のヌイなんだ。弟を探しているうちに・・・えっと、なんかこう、ごちゃごちゃっとなってココまで来ちゃった。ふふふ。
あ、シクロロンさんはここのヒトなの?」
説明しようと思い巡らせてみるも、この数日の間にいろいろなことがあってこんがらがってしまう。足音と衣擦れだけの静謐な廊下はそんな頭の中の整理をやさしく待っていてくれるようで心地よかった。
「ふふ、おもしろいヒトなんですね。あと、私はシクロロンで構いません。
それからココにはときどき来てていろいろするんです。・・・あなたも旅の途中なのでしょう? いいなぁ、そういうの。」
ちょっとした応接間のようなラフな部屋に入ると、キペを残してシクロロンは暗い部屋をトコトコと歩き出した。
「見えるの?・・・んー、旅っていってもそんなに恰好いいものじゃないよ。冒険って類でもないし。
でもね、ヒトとの出会いはよかったなって思う。きみともそうだし、あそこにいた三人ともその途中で出会ったヒトなんだよ。」
食べられるものを探してくれるシクロロンをそのままに、キペはまだ明るいドアに背を預けて話した。段取りがいいのだろう、シクロロンはお盆に木の実や野菜、干し虫と練り焼きを取り分けて戻ってくる。
「ね、外へ出ませんか? 風がないからそんなに寒くないし、今夜は空がきれいですよ。」
凍えるほどではないこの季節、確かに空は澄み渡っていてきれいだった。
「そうだね。あ、でもちょっと温まるものを持っていかなくていい? 少し冷えるかもよ?」
そう言ってお盆を受け取り、また何やらを持ってくるシクロロンを待ってキペは庭へと歩いた。ことん、とその後ろで鳴った物音には気付かずに。
庭へは一階の廊下を抜けるとそのまま出ることができた。
「ほら、やっぱり今夜は澄み透ってるっ!」
よく手入れの届いた細草の絨毯は青く照らされて、その真ん中へと踊り出るシクロロンは美しい妖精にすら見えてしまう月の夜だ。
「ほんと、きれいだねシクロロン。」
その景色が、と言いたかったのに、なぜか照れてしまう。
だからなのか、シクロロンも伸ばした翅を落ち着けて照れてしまう。
「あの、キペさん。食べながらでいいから、聞かせて。あなたの話。」
普段は子どもや老人を背に乗せているベンチも久々に息をひそめて見守りたい二人が腰を下ろしたからだろう、そっと支えるように軋む音を怺えた。きっと口と指とがあったのなら月に鳴く虫の声さえ「しぃー」とたしなめたに違いない。
「えーっとね。ふふ、そうだ、アヒオさんっておもしろいヒトがいてさ、リドミコっていうユクジモの女の子を連れててね。すごく仲がよくてさ―――――」
紐解けばいくらでも広がる話に、キペ自身ものめりこんでいった。
あんな出会いがあった、こんな別れがあった、そんな思い出がいつのまにか出来上がっていた自分の道に新鮮な驚きを感じながらも言葉は次から次へと溢れ出ていく。
そうして傷の痛みも、食べることも忘れて話すキペに、シクロロンはまあ、とか、あら、とかの相槌を感情豊かに添えては続きをねだった。
しゃらしゃら、とヒト気を報せる葉音を聞き逃したまま。
「キペさんっていいヒトなんですね。私、あんまり歳の近い男のヒトと話したことないし、争いが好きそうなヒトばっかりの中で育ってるからかな、その、会えて、よかった。」
体のあたたまる薄いササをひとくち含むと、二人はその余韻に浸る。
いつしか月は流れていって山の影に身を隠すほどに時は経っていた。
「ふふ。楽しいばっかりだったらきみも連れていきたいところだけどね。箱入り娘の医法師さんには聞かせられない話も耳にしてしまうんだよ。
きみみたいにやさしい子には、平穏な暮らしの方がずっと似合ってると思う。」
世間知らずといわれたキペが得意になって伝えることではなかったが、シクロロンの穏やかな心がそう言わせてしまうのだろう。
「キペさん。私、医法師ではないんですよ。
それに・・・えっと。
・・・ね、キペさん。もしね、もし、私が「ついていきたい」って言ったら、
・・・ごめんなさい。なんでもない。」
奥歯にものの挟まった言い方を詮索するつもりはなかった。
しかし言いたいことが言えない歯がゆさが、むしろキペにはつらかった。
「ね、シクロロン。僕には何にもわかってあげられないけど、何もしてあげられないけど、心が動いた時には体も動くと思うよ。
僕でさえ「探したい」って思って村を出てこれたし、「守りたい」って思って子どもの盾にもなれたもの。きみの心が巡り巡って僕と一緒に出かけることになったのなら、僕はそれを受け入れるよ。
きっと行き先は異なるだろうし、途上で道を違えることもあるだろうね。
でもね、自分の心を大事にして共に歩くから「仲間」になれるんだと思うんだ。
はは。なんかお説教くさくなっちゃったね。」
偉そうなことを言ってしまったな、とはにかむキペをシクロロンは熱くなる胸を抱えて見つめていた。
務めなければならない視線の中で総長に就き、やりたくもない会議に出席させられ、決められた方角に顔を向けて望まれた言葉をなぞるだけの毎日にキペのような存在はいなかった。
キペのような言葉をかける者もいなかった。
「・・・う・・・ん。」
だからだろう、そんな当たり前の言葉に、胸が詰まる。声が詰まる。
「・・・シクロロン。無理、してきたんだね。僕はバカだからわからないけど、今は、いいんだよ。」
そしてまたうん、と頷くシム人の娘の目に、星屑の光がわずかに滲む。
それをぐっと堪える娘の強さにキペはそっと微笑んで、シクロロンの頭に手を載せた。
肩に手を伸ばせるほどマセていないキペには、それで精一杯だったのだ。
「キペ、さん。」
くるんとなった長い金色の髪の中に、笑おうとするシクロロンが覗く。
「大丈夫。たぶんきみは、とっても強い子だもの。」
頭にあるキペの手をシクロロンは両手で包み、ぎゅっとそれを胸に抱きしめる。
月の代わりに空を飾る星たちの明りの下、
二つの影が静かにひとつにな――――
「うわきかあーっ! ちぺえぇーっ!」
「それはないよおぉー、キペくぅーんっ!」
とそこでガサガサ言っていた庭の端から凍えた二人が飛び出してくる。
むしろそれが引き金になって二人はひとつになってしまう。
「え、え? どっから・・・あいや、浮気? いぇっと、なにしてんの二人ともっ! ニポはっ?」
うえーんと泣きながら二人を引き剥がすエレゼとお盆に残っていた干し虫をがつがつとシクロロンの腕の中で食べるパシェがそれぞれに抱きついて暖を取る。身じろぎもせずに寒空の下で監視するのは体に堪えるものがあったのだろう。
「ふおうっ、さみい。アンタだいじょうぶだったか? ちぺのやろー、こんどうわきしたらタダじゃおかねーからなっ!
んでオカシラならだいじょうぶだっ! オカシラだからっ!」
相当キツかったのだろう、パシェはむしゃぶりつくようにシクロロンに抱きついてキペを叱った。
何が罪なのかということはいつかしっかりと教えていかなければならないなとキペが心に決めた瞬間だったそうな。
「ぷみょお。寒いよおキペくぅーん。こんな形で裏切られるなんて、ボクは心の底から寒い思いをしているのだよぉキペくぅーん。」
こちらも負けじとキペに抱きついてくる。
キペの場合、気色悪いとか趣味じゃないとかいった問題より先に傷だらけの体に触れてほしくない気持ちの方が強かった。
「おぼぐっ・・・エレ、エレゼさん。じゃ、戻りましょう。・・・あの、お、願い。離して。」
おや、これでは仕方ない、ではボクもこちらへ抱きつこうかねぇ、となったところでパシェのパンチが飛んでくる。
二人はキペとシクロロンよりもずっと距離を縮めていたようだ。
「ふふ。とにかく戻りましょうか。」
もうすっかりやさしく笑うシクロロンになっていて、三人のやりとりを朗らかに見つめていた。
「えとシクロロン、僕も、会えてよかったよ。」
またうわきかぁー、とぽかぽか蹴られるキペは追い立てられ、それを追うようにシクロロンとエレゼがついていく。
滴り落ちるだけだった雫はやがて小川となり、数を束ねて速度を上げる。
駆け抜けるだけの急流を得るまで焦がれたように幅を広げて大河へ育つ。
夜となく昼となく海を目指して流れゆく中わずかな意志の芽生えさえ退け、ただ一心に時はヒトを巻き込み突き進むことを選んで、そして過ぎた。
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