躓き石
固定標識
永遠の象徴
時間を潰す大学の講義は多岐に渡った。大半は興味のないものであったが、中には鼻提灯叩き割らんと雷土を下すものもある。
文系の路を歩んで後悔したことは数えきれず、しかし確かに私の生涯にささやかであっても献花となったのは、やはり様々な分野に触れたことだろう。
民俗学の講義は週半ばの水曜日、その三限に行われる。故にその空気はけだるく撓んでいた。
真面目に講義を聞いていたのは私くらいなのではなかろうか?
まあ。頬杖には頼っていたが
大学が京都に在ったことも関係して、講義の内容には京都の事例がよく扱われた。民俗学ではまず一つ、テーマが定められたのだ。そしてその中から、京都の事例、全国の事例と展開し、共通点からテーマの持つ特性を考察する。
その日のテーマは【石】だった。殺生石や弁慶石といった有名な話は、有象無象とばかりに右から左、緩やかな水勢は意識を溶かして、生徒の鼻提灯を膨らませていった。
しかし【躓き石】
その言葉は少なくとも、夢幻と体積を増してゆく私の鼻提灯を叩き割った。
起き上がれば、他の生徒は皆意識を夢中へと連れ去られ、崩れるように惰眠に貪られていた。
だから私と民族学の先生は、恐らく意識外で一対一であった。
【躓き石】の由来は古い。
そしてその由来を語るにはまず、まことしやかに囁かれる京都人の性悪さの象徴たる【いけず石】についても語らねばなるまい。
京都は栄える河原町の辺りから離れて、少々静かにご老人が闊歩する地域に移れば、いけず石は随所に見られる。しかしそれを事前知識もなく一目見て、「ああ、京都人は性悪だな」と断ずることは難しいと考える。これは現代アートですと紹介されれば、何人かは手を叩いて納得するだろう。何せ理由がわからないし、意味もわからない。公序良俗に反してでもその場に存在し、他者に危害を与え得る。
これがアートでなければ、そんなものはただの悪意の塊である。
悪意の塊だから当然ではあるのだが。
【いけず石】は古の車避けである。
これが設置されるのは主に十字路や家屋の外壁の角となる。こういった場所にひざ下くらいの大きさの石をどんと置いておくのである。すると、車は曲がるときにこれを避けようと大回りする羽目になったり、強行しようとすれば轍はバキンと痛々しい音で鳴くだろう。
『主に京都で見られるこの様式美は、言葉ではなく行動で不都合な他者を排斥しようとする京都人の心の表れとされている』
などというケッタイなお言葉を、しかしのほほんと吐き出すものだから、この先生というのは侮れないし、絶妙に耳を傾ける気も失せるのである。
して本題の【躓き石】である。
躓き石が初め確認されたのは祇園の街中であった。
曰くその石を跨げば、必ず躓くと。
町人が試し、遊女が試し、浪人が試し、万に一つも例外はなく皆地に臥せた。いけず石を置いた住民だってころり転げて怪我をした。皆初めは【躓き石】と名付けて面白がったものだが、段々気味悪く思われたのか高名な住職を呼んで念仏を上げたと言う。
すると【躓き石】は空に溶け、消えた。
次に【躓き石】が現れたのは一月経って、貴船神社付近の山中である。
その辺りで私の鼻提灯はまたも爆ぜた。しかし私の鼻垂れにはなんら関心なく、先生は淀みなく続けた。
二つ目の躓き石を発見したのは狩人であった。伝承によれば、彼は鹿を撃とうと山の中へと潜ったが、しかし獲物も見つけられず日も暮れた。飢えを満たそうと右往左往としている内に、ある一点で何度も躓いたと言う。
目を剥く私に、しかし目もくれず、続けて教授は大層嬉しそうに語った。
彼はどうも、がら空きのコンサートホールの壇上で、最高のパフォーマンスを鏡面の自分に見せつけているらしかった。しかし彼の誤算として私という観客がいて、そしてその心を動かしてしまったのは、彼には知る由もないことであった。
『どうもなに故か【躓き石】は移動しているらしい』
チャイムが鳴った。
九十分の講義は終了した。
本日の講義を反芻しながら私は考える。
【躓き石】とは、石そのもののことを指すのではなく、石に宿る何者かの伝承のことではなかろうか?
【それ】は初め、祇園のいけず石に宿ったが、宗教者に供養されると別の石に宿った。しかも山中のちっぽけな石にである。この辺りで【それ】が無作為に石に宿るものかとも考えたけれども、たった一月でその【躓き石】も見つかった。人里とは離れた山中に在ってなお、それでも発見され、人を躓かせたのである。
明確に人に寄っている。
そんな気がしてならんのだ。
石に宿る【それ】の目的が何かはわからない。もしかしたら木っ端のかわいらしい妖怪で、人に悪戯をしているのかもしれない。けれどももしかしたら、躓かせるという行為が持つ失脚、転落の意味を位置している可能性もまた捨てることはできない。
同時に思い浮かべるのは石というものの霊性である。吹かれ流され削られて、あるべき姿へと丸く小さくなっていき、けれども何者にも負けないほどに固い。最も身近に存在する永遠の象徴こそが石なのではなかろうか。だからこそ墓は石で作るのだ──
私は立ち止まった。
黙考の重さに俯けていた視線は路傍の石に突き刺さる。
永遠のようにその場所に鎮座し続ける【それ】は、今でも威力を忘れずにいた。
石が永遠であるならば、きっと宿る【それ】も永遠の存在なのだろう。
右足が地面を軽くタップした。かつ、音は鳴って響かず落ちる。
早急に眠ることが望まれた。
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