プロローグ(3)

「いい加減出てきたらどうじゃ?」


 九凪が去ってからしばらくして、帰ろうともせずその場を動かなかった少女が不意に口を開く。その声色は攻撃的で、先ほど彼と話していたような無邪気な雰囲気はどこかへ行ってしまったようだった。


「気づいていましたか」

「当たり前じゃ」


 一瞬、空気がぶれたように風景が歪んだかと思うとそれまで存在していなかったはずの女性の姿が現れる。長い黒髪の、スーツを着た理知的な雰囲気の女性だ。髪の色はまるで違うのだけど、その整った容姿に纏う雰囲気はどこか少女のものと似ているように思える。


「覗き見とは感心せぬな」

「それに関してはあなたが悪いですよ」


 振り向く少女に女性は肩を竦める。


「私はあなたの封印が解けたのに気づいてすぐに駆け付けたのに、当のあなたはそれよりも前に離れてしまっていたんですから…………それでようやく見つけてみれば可愛らしい子にシュークリームを貢がせて楽しく会話してるんですよ? 間に割って入らず見守るに留めたのを褒めてもらいたいところですよ」

「む」


 自分に非があることに気づいたのか少女が眉をしかめる。


「まあ、よいでしょう…………とりあえず最初に確認しておきたいのですが、あなたは自分についてどこまで覚えているのですか?」

「何も覚えておらぬ」


 きっぱりと少女は答えた。実際に彼女は自分が何者であるのかという知識を一切持っていない。少女の過去に浮かぶのはどこまでも白い空白だった。


「その割には落ち着いていますね」

「それに関してはお主のおかげ…………いや、お主のせいじゃな」


 恨みがましい目で少女は女性を見る。


「記憶がなくともわしが何者であるかはわかっておるし、己の状況は理解しておる。どこぞの誰かが頼んでもおらぬのに、耳も塞げぬわしへと状況の説明を繰り返し繰り返し聞かせてくれたからな」

「そうですか、それは何度も足を運んだかいがあったようで何よりです」

「なによりなことがあるか! 一度聞けば十分な話を何百何千と聞き飽きても足らぬほど聞かせおってからに!」


 それに文句を言おうにも封印された身では声を出すこともできなかったのだ。


「こちらからはあなたの意識の有無がわからなかったのですから仕方ないでしょう。話した時にあなたの意識がないのでは意味がないですからね、確実に聞いてもらうために繰り返し話すというのは当然の作業です」


 そして聞かせない、という選択肢は彼女にはなかった。自身の置かれている状況もわからぬままに封印が解けたとすれば、自分が駆けつける前に少女がどんな騒ぎを引き起こすかわかったものではないからだ。


「そのおかげであなたも現世に戸惑うことなく適応できたのでしょう?」


 女性が少女の全身を見やる。少女の来ているのは現代的な服装であり、彼女が封印される前には存在しなかったものだ。


「そんなもの聞かされておらずとも、裸で歩き回るほどわしは馬鹿ではないわ」


 女性の視線に少女が馬鹿にするなと顔をしかめる。


「別に服装だけの話ではないのですが…………それは神通力で生み出したのですよね?」

「当たり前じゃ。例え記憶がなくとも人の子の物を盗むほど落ちぶれてはおらぬ」

「その割にはシュークリームをたかっていたようですが」

「あれは供物を捧げるように促しておっただけじゃ!」

「…………もはや現世では神の存在は信じられておらぬと繰り返し説明したはずなのですが」


 呆れたように女性が少女を見る。神への信仰はあるがその実在を信じている人間は少ないというのが現代における常識だ。ゆえに自分が神などと宣えば頭のかわいそうな子と認識されてしまい騒動の種になる…………だからこそそれも繰り返し封印された少女へと彼女は伝えていたはずなのだ。


「それは…………封印から解放されて少しばかり浮かれて忘れておっただけじゃ」


 バツが悪そうに少女が女性から目を逸らす。


「…………はあ、改めて現状を確認しておきましょう」


 女性は溜息を吐いて少女にそう告げる。


「まずあなたの名前は?」

「月夜というのじゃろう?」

「ええ、そして私は真昼です」


 女性、真昼は月夜に頷く。


「あなたも私もかつて人から神として崇められた存在ですが、あなたは大罪を犯してこれまで封印されていました…………とはいえその罪は記憶と共に失われたものとしてもはや清算されています。もはやあなたをとがめることはありません」

「そう言われても何も覚えておらぬから、喜ばしいとも感じぬがな」


 罪を犯したと言われても、その記憶がないのだから別人の話にしか聞こえない。


「ええ、ですがその前提がないとこれからの話もできませんからね」

「これからの話じゃと?」

「この世界から神々は去ったという話は覚えていますか?」

「うむ、その理由までは聞かされておらぬがな」


 この世界に残っている神は自分を含めて少数しかいない。人々もその実在をもはや信じていないから、軽挙妄動は控えるようにと何度も繰り返し月夜は聞かされていたのだ。


「あなたが封印された前後でちょっと大きな事件がありましてね。それを契機に神々は人の世から去るべきという話になったんですよ。なにせ神はそこに在るだけで周囲に影響を与えてしまいますからね…………だから去ってあとは人の自立に任せようということになりました」

「じゃが、お主は残ったのじゃな?」

「何事にも後始末は必要ですから…………あなたの様に封印された神をそのまま放置していくわけにもいきませんし、神々が去ってもその影響がすぐに消えるわけではありません。残された神秘の対処や人々の神に対する認識の変革など誰かが残ってやらなければなりませんでした…………だからあなたの友人であった私が、あなたを見守るついでに残ったんですよ」

「友人、のう」

「ええ、あなたは覚えていないでしょうが」


 懐疑的な視線の月夜を真昼は真顔で受け止める。


「とにかくです。神々はこの世界を去って新たに創造した世界へと移り住んでいます。この地に残ったのは私のように力の大半を封印して事後処理に勤めている僅かな神々のみ…………ですのであなたにも選択してもらう必要があります」

「何を選ばせるんじゃ?」

「この世界に残るか、神々の世界へと旅立つかです」

「ふむ、選択肢を与えてくれるとは優しいことじゃの」


 もはやこの世界にとって神とは異分子でしかない。だからその異分子である月夜に選択肢などないものと聞こえていたのだが、真昼は自分に選ばせてくれるらしい。


「理由としては二つありますが、一つはあなたにはかつてのような大きな力が残されてはいないからですね」

「神通力はあるようじゃが、確かにそれほど強いものではないみたいじゃな」


 それは神の持つ世界を己の望む形に変革する力だ。力の強い神であれば意識せずとも勝手に周囲へと影響を与えていくような代物ではあるが、今の自分にはそれほど大きな力はないと月夜は感じている…………記憶はないが、今ある力はかつてに遠くは及ばないという感覚だけは残っているようだった。


「もちろんだからと言ってみだりに力を使ってもらっても困りますがね…………一応私はそれを取り締まるような組織の長を務めていますし」

「わかっておる…………それで二つ目は?」


 月夜が尋ねると真昼は彼女へと少し同情的な表情を浮かべる。


「記憶のないあなたにとってあちら側はあまり居心地がよくはないでしょう」


 月夜を一方的に知る者はいてもその逆はない。しかもかつて罪人であった彼女を見る目は良いものではないはずで、記憶のない彼女からすれば理不尽で納得しがたい仕打ちに感じることだろう。


「まあ、そうじゃな…………寄る辺もないのはどちらも変わらぬが、こちらであれば少なくとも理不尽な目には遭うまい」

「可愛らしい出会いもありましたしね」

「な!?」


 その不意打ちに月夜の顔に動揺が浮かぶ、


「またね、と言われていましたし」


 からかうように告げられる言葉に、月夜の顔がみるみる真っ赤になった。

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