第9話 白くにごる心

 それから何事も無く1週間が経った。結城ゆうきさんのことが気に掛かりつつも、いつも通り「はなやぎ」を開店していたのだが。


 その日の口開けのお客さまは高階たかしなさんで、サマーゴッデスのハイボールをおともに、肉団子ときのこのトマト煮込みを食べている。


 肉団子の挽き肉は牛と豚の合挽きを使い、みじん切りにした玉ねぎ、卵、つなぎにお豆腐を使い、ヘルシーに仕上げている。お豆腐の量はそう多くは無いので、お肉の味を邪魔しないのだ。


 使っているきのこはしめじとマッシュルーム、エリンギである。きのこ類は掛け合わせれば掛け合わせるほど旨味が出るなんて言われている。これを和の煮物にするなら、椎茸やえのき、舞茸などをたっぷりと使いたいところだ。


 仕上げにバターも落としていて少し重めのメニューではあるが、だからこそすっきりとした日本酒ハイボールに良く合うのである。


 今日の開店前の占い結果は「ソードの5の正位置」だった。意味は卑怯な戦い、罠にはめる、策略など。見たとき、あまりにも不穏な内容に世都せとは思わず息を飲んだ。


 この「はなやぎ」をおとしめようとしたりする意思が、どこかにあるのだろうか。


 今はまだお客さまは高階さんだけだ。今日ばかりはトラブルの種になる様な、それこそ初見のお客さまが来なければ良い、なんて、経営者らしからぬことを思ってしまう。


 世都は占いにたずさわる者ではあるが、それは目安のひとつだと自覚もしている。それでもよく無い結果は心に影を落としてしまうものだ。世都は今日の平穏をひたすらに願っている。


 がらり、と開き戸が開く。世都が見ると、入って来たのは不機嫌な様子の結城さんだった。笑顔が多い結城さんのそんな表情は珍しく、世都は一瞬戸惑った。だがそれを顔に出さない様に努め、微笑みを作った。


「いらっしゃいませ」


「こんばんは。女将おかみさん聞いてくださいよ〜」


 結城さんは怒りすら滲ませつつ、椅子に掛ける。世都は常温のおしぼりを渡した。


「ありがとうございます。あ、今日は獺祭だっさいのスパークリングください。むしゃくしゃするから贅沢すんねん!」


 獺祭純米大吟醸にごりスパークリングは、山口県のあさひ酒造さんがかもすスパークリング日本酒である。製造量が少なく、店舗によってはプレミア価格になってしまう人気の日本酒獺祭シリーズのひとつで、お米の甘みの中にスパークリングのドライさが重なり、深く爽やかな味わいになるのだ。


 「はなやぎ」では長島ながしま酒店で正規価格で仕入れてもらっているので、過剰にお高い値段設定では無い。だが他のスパークリングに比べたら、少し贅沢品になってしまうのである。


 世都はワイングラスに獺祭にごりスパークリングを注ぎ、結城さんに出した。


「はい、お待たせしました」


「ありがとうございます」


 結城さんはワイングラスの中身を半分ほど喉に流し込む。世都は念のためにとチェイサーにお水も用意した。


「ありがとうございます。あの、女将さん、元カレ、酷い男やったんです! 女将さんに占ってもろてほんまに良かったです」


「何かあったんですか?」


 すると結城さんは目一杯顔をしかめ、吐き捨てた。


「今日、この前言うてた元カレと共通の友だちから連絡もろたんですけど、元カレ、結婚するんですって」


「……あら、ほな、もしかして」


 世都が目を丸くすると、結城さんは「そうなんですよ!」とカウンタの上で悔しげにこぶしを震わした。


「多分私と付き合うてるときから二股掛けとって、向こうと結婚が決まったから私を振ったんですよ。最悪ですよ!」


 それは、確かに最悪である。結城さんはすっかりと憤慨ふんがいしてしまっている。今日のいつ知ったのかは分からないが、ここに来るまで怒りで心がざわついたことだろう。


 と同時に、開店前の占いの結果に合点がいってしまった。


「友だちが言うには、結婚する、ああ、確かもう入籍したって聞きましたね、それも相手が妊娠したからですって。で、今までみたいに遊べんくなるからマリッジブルーになってるって。せやから手っ取り早く遊び相手確保しようとして、元カノに連絡取りまくってるから気ぃ付けてって」


 絵に描いた様な最低男である。世都は唖然としてしまう。結城さんは「あー腹立つ!」とすっかりおかんむりである。


 しかしそれだと、なおさらあのときタロットカードは正しい選択をしてくれたのだ。今の結城さんには辛いだろうが、もし元恋人のもとに戻ってしまっていたら、もっと悲惨なことになっていただろう。


 確かに同棲相手がいながら元恋人との間で揺れ動いてしまった結城さんは褒められたものでは無いだろうが、そんな仕打ちを受ける筋合いは無いのである。


「良かったですね、現状維持を選ばれて」


「ほんまにそうです。女将さんがいてはれへんかったら、まだうだうだ悩んどったかも知れんし、もしかしたらふらふら戻ってしもてたかも知れへんし。たっくんとの関係がなかなか進まんかられてしもたんですけど、早まったことせんで良かったです」


 世都などからしてみたら、交際から1ヶ月ほどで同棲に進展する方がよほど素早い動きなのだが。思わず苦笑を浮かべてしまう。


「せやから今日は、お礼て言うんも変ですけど、もう1杯いただきますね。同じの、獺祭のスパークリングください」


 気付けば結城さんのワイングラスはすっかりと空になっていた。


「はい、お待ちくださいね」


 世都はにっこりと笑い、業務用冷蔵庫から獺祭にごりスパークリングの瓶を取り出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る