第6章: 未知への一歩
春のそよ風が肌を撫でる中、桜の花がまるで繊細な雪のように舞い落ち、空気にはほのかな桜の香りが漂っていた。宮は桜の木の下でそわそわと立ち止まり、バッグのストラップを指でひねりながら落ち着かない気持ちを紛らわせていた。その動作は単調で繰り返され、胸の中で羽ばたく蝶々のような緊張を和らげようとしているかのようだった。
薄いカーディガンが春の涼しさに揺れ、宮の服装は控えめだった。淡いラベンダー色のブラウスをシンプルなジーンズに合わせ、お気に入りのスニーカーを履いていた。普段通りの気取らないスタイルが好きな彼女にとって自然な選択だったが、待っている時間が長引くほど、その服装があまりに地味すぎるのではないかと気になり始めていた。夢はこれをどう思うだろうか?十分気を使っていないと思われるのではないだろうか?
宮はスマートフォンの画面が点灯するのを見て再び時間を確認し、唇を噛んだ。早すぎたのだろうか?それとも遅れたのだろうか?そもそも夢は来てくれるのだろうか?
疑念が渦を巻く中、近づいてくる足音が宮の考えを現実に引き戻した。
「宮?」
その柔らかな声に驚き振り返ると、数歩先に夢が立っていた。
その姿を見た瞬間、宮は息をのんだ。夢は広いつばの帽子を少し傾け、風が髪を遊ばせていた。大きなサングラスで顔のほとんどが隠れていたが、それでも彼女の優雅さは隠しきれない。淡いピンクのカーディガンが肩にかけられ、流れるような白いスカートが彼女をこの舞い散る花びらの中に属するような、どこか現実離れした存在に見せていた。
「待たせてしまってごめんなさい」と夢が帽子の縁を軽く触れながら言った。
宮は喉を鳴らし、顔が熱くなるのを感じながら「い、いえ、そんなに待ってないです」と慌てて答え、目線をそらした。
夢は微笑み、その唇のわずかな曲線が宮の胸に見知らぬ温かさを運んできた。「行きましょうか?」
夢が言い、軽く帽子の縁に触れた。その声は軽やかだったが、どこか慎重な響きがあった。
宮はすぐに頷き、彼女の横に並んで歩き出した。
桜並木が道を覆うように咲き誇り、ピンクと白の繊細な天蓋を形成していた。しばらくの間、二人の間に言葉はなく、静けさの中に風に揺れる花びらのかすかな音と、公園の向こうに広がる都会のざわめきが混じっていた。
宮はそっと視線を横に向け、夢の姿を盗み見た。彼女は自然な優雅さで歩いていたが、その姿勢には微かな躊躇が感じられた。周囲を慎重に意識しているように見えたのだ。アイドルである夢が用心深いのは当然かもしれないが、それが彼女を想像以上に脆く見せている気がして、宮は意外に思った。
「会えてよかったです」夢が突然言い、静けさを破った。
宮は驚いて瞬きをした。「あ、あの、私もです」と口ごもりながら答えた。「こうやって会えるのは…本当に素敵だと思います。」
「どういうふうに?」
宮は躊躇い、言葉が喉に詰まった。「その…ステージじゃなくて。もっと…普通の人みたいな感じで。」
夢は柔らかく笑った。その笑いには楽しげな響きと、どこか深い意味が込められているようだった。「普通の人、ね?それ、褒め言葉として受け取っておくわ。」
宮は赤面した。「そ、そういう意味じゃなくて—」
「大丈夫よ」と夢は笑みを深めて言葉を遮った。「何となくわかる気がする。正直、嬉しいわ。いつも完璧を求められるのは、結構疲れるから。」
宮は目を伏せ、バッグのストラップを握る手に力を込めた。「完璧じゃなくてもいいと思います。夢さんは、もうそのままで十分素敵だから。」
言葉が止める間もなく溢れ出し、宮の顔は恥ずかしさで燃えた。しかし、恐る恐る夢を見上げると、彼女の微笑みはどこか切ないものに変わっていた。
「ありがとう、宮」と夢は静かに言った。
会話が自然に流れ始めたその時、高い声が突然空気を切り裂いた。
「夢ちゃん!」
宮は凍りつき、目を見開いて辺りを見回した。夢は全身を硬直させ、本能的に帽子をさらに深く引き下ろした。
声は再び響き、今度はもっと近くから聞こえた。「夢ちゃんだ!」
夢はゆっくりと振り返り、胸の中に不安が渦巻いた。変装が足りなかったのだろうか?誰かに気付かれてしまったのだろうか?
しかし、その声の主を見ると、夢が目にしたのは自分を指さしているのではなく、カフェの窓に掛けられた大きなバナーを指差す小さな女の子だった。
バナーにはマイクを手に持ち、明るい笑顔を浮かべた夢の姿と、最新シングルを宣伝する太字の文字が描かれていた。
「見て、ママ!」その子は母親の袖を引っ張りながら言った。「夢ちゃん!私の一番のお気に入りなの!」
夢は自分が無意識に止めていた息を吐き出し、肩の力を少し抜いた。そして宮の方に目を向けた。宮はその光景を目を丸くして見守っていた。
「危ないところだったわね」と夢が小さく呟き、苦笑いを浮かべた。
宮はゆっくりとうなずいた。「よくあることなんですか?」
「まあ、少なくとも望む以上にはね」と夢は認め、ラテを一口飲んだ。「でも仕事の一部だから。」
少しの沈黙の後、宮がまた口を開いた。その声は静かで、どこか考え込んだような響きがあった。「いつも注目されるのって、大変そうです。」
「そうね」と夢は静かに答え、視線をカップに落とした。「時々、ただ周りに溶け込めたらいいのにって思うわ。でも、あの子みたいな瞬間を考えると、幸せそうな顔を見られると…それが価値あるものに思えるの。」
宮はじっと夢を見つめ、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。慰める言葉をかけたかったが、何も思い浮かばなかった。ただ、うなずくだけで、夢が自分の理解を感じ取ってくれることを願った。
それ以上は踏み込まず、今はただ夢と一緒にいることを楽しむだけで十分だった。
カフェを出る頃には、太陽はすでに傾き始め、公園は黄金色と琥珀色に染まっていた。二人はゆっくりと歩きながら戻り、空気には言葉にならない思いが漂っていた。
「わ、私、そろそろ帰らないと」と宮がついに言い、バッグのストラップをぎゅっと握った。「明日、学校があるので。」
夢はうなずき、優しい笑顔を浮かべた。「わかったわ。帰り道、気を付けてね。」
宮はしばらくためらうように立ち尽くし、何か言葉を探しているようだった。しかし結局、短くうなずいて小走りに去っていった。その動きにはためらいと緊張が混じっていた。
夢はその姿を見送りながら、宮が角を曲がり見えなくなるまでその視線を追い続けた。足音が消えて、夢は桜の木の下に一人取り残された。彼女は息を長く吐き出し、自分が息を止めていたことにその時初めて気が付いた。そしてそっと胸に手を当てた。
まただ。あの微かな感覚が。胸の奥で控えめに、けれども確かに響いていた。この感覚は、ステージに立つ前の緊張感とも、ライブパフォーマンスのアドレナリンラッシュとも違っていた。それはもっと穏やかで、温かくて、全く未知のものだった。
彼女の指がネックレスのペンダントに触れ、その縁をぼんやりと指でなぞりながら考えを巡らせた。宮の頬が赤く染まる様子、震えながらも真剣な声——そのすべてが頭の中で再生され、まるで消えない旋律のように心に残っていた。
どうして彼女は私をこんな気持ちにさせるの?
夢は眉をわずかにひそめ、困惑した表情を浮かべた。この感覚が何なのかは分からなかったが、宮を思い出すと、なぜか心が軽くなるように感じた。周囲の世界が柔らかくなり、いつもの心配事の鋭い輪郭が一時的にぼやけるような気がした。
足元の花びらを風がさらい、夢はその場に立ち尽くしていた。宮が去っていった道を見つめ、頬にほのかな温かさを感じながら、口元に小さな笑みが浮かんだ。
一方その頃、宮は街を駆け抜けながら、顔を赤らめていた。春の冷たい空気も、頬に広がる熱を冷ますには足りなかった。なんでこんなに動揺してるんだろう?彼女は胸の高鳴りを感じながら考えた。夢の笑顔の温かさ、その優しい声の調子——それらが頭から離れず、彼女を混乱させ、息苦しくさせていた。
家の通りにたどり着くと彼女は足を緩め、深まる空に輝き始めた星々を見上げた。私、どうしちゃったんだろう?バッグのストラップを握りしめながら思った。それでも、胸の内に芽生え始めた温かさを否定できない自分がいることに、彼女は気付いていた。
昨日の断片 @miracat
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