第22話

 椿子ちこの肖像画が完成した翌日の早朝。


 いつも通りバラ園の水やりをしていると、樹の背後から誰かが近づいてくる気配がした。石畳を踏みしめる音は、深靴ブーツのものだ。


(梗一郎さまかな?)


 そう思った樹は、ふふっと含み笑い、イタズラを思いついた子どものような顔をした。ふんふんと鼻歌を歌いながら素知らぬ振りで水やりを続けていると、予想していた通り、樹の真後ろで足音が止まった。


(よし、今だっ)


 樹はかかとを軸にして、勢いよく後ろを振り返った。


「わっ!!」


「きゃあっ」


「えっ!?」


 しかし、樹がイタズラを仕掛けた人物は、梗一郎ではなく椿子だった。


 椿子は驚きはしたものの、幸いなことによろけることもなく、ただただ驚いた表情を浮かべていた。


(や、やっちまった……!)


 樹の顔から、サアッと血の気が引いていく。


(と、とにかく、謝らないとっ)


 ジョウロを手にしたまま、アワアワと動揺していると、突然「プッ」と吹き出す音が聞こえた。


 着物の袖で口元を隠し、くすくすと可憐に笑う椿子の姿に、樹はオロオロしながら声をかける。


「え、あの、ち……椿子さま……?」


 するとなにが面白かったのか、一瞬だけ笑いを止めた椿子は樹を一瞥すると、ふるふると肩を震わせて目尻に涙を浮かべた。


「ふっ、あはっ、あはははははっ」


 ひたすら笑い続ける椿子に、樹が「えっ、ええ〜〜……」と困惑していると、椿子の背後に梗一郎が現れた。


 樹はホッとして、梗一郎に駆け寄る。


「梗一郎さま、おはようございますっ。あの、椿子さまが……」


「おはよう、樹。……我が妹は、早朝から元気いっぱいのようだね」


 焦る樹とは対照的に、のほほんとした様子の梗一郎を見て、椿子の笑いがようやくおさまった。


「……おはようございます、お兄さま」

 

 つい今しがたまで笑い転げていた人物とは思えない程、洗練された仕草で挨拶をする椿子の姿に、樹はあっけにとられてしまう。


(な、なんなんだ、いったい……)


 樹が狐につままれたような心地でいると、そんな樹の姿を見たあと、椿子は満足そうに花笑みを浮かべた。


「どうやら、おさまるところにおさまったようですわね」


 その言葉に頷いた梗一郎が、未だに状況を飲み込めていない樹の肩を抱き寄せた。


「ああ、この通り。……心配をかけてすまなかったね」


「いいえ。良いのです。お二人が仲睦まじくいらしてくれれば、椿子は満足ですから。それにしても。記憶を失った樹さんは、以前とは別人のように天真爛漫なご様子で、椿子は驚いておりますのよ? 先ほどなんか、わたくしをお兄さまと間違えて、子どものように驚かせてくるのですもの。なんて可愛らしいのかしら! それに、コロコロと表情が変わって……。百面相をする樹さんが見られるなんて、思ってもいませんでしたわ」


 そう言って、くすくすと笑う椿子を見て、樹は「可愛らしい……?」と呟きながら首を傾けた。

 

「……ほら、この通り。我が思人おもひひとは自分の魅力に無自覚なんだ」


「あらまあ。お兄さまも苦労しますわね?」


「まだしばらくは画塾に通わなくてはいけないからね。……心配だよ」


 そう言って、梗一郎は樹の頭に口付けた。


 話についていけず、置いてきぼりにされていた樹は、状況を理解するのに数秒かかった。


「きゃっ、もう、お兄さまったら!」


 椿子の喜色を帯びた叫び声にハッとした樹は、途端に顔を赤く染めて、梗一郎を睨みつける。


「こっ、梗一郎さま!」


「なんだい、樹?」


「なんだい? じゃなくて! ち、椿子さまの目の前でなんてことを……!」


「おや。人前でなければ、好きにしていいと?」


「っ! そーいうことではなくてっ」


 痴話喧嘩を繰り広げる二人の姿を見た椿子は、「あらあら」と満足そうに微笑み、


「お二人が仲睦まじくて、椿子は安心いたしました。……これでようやく嫁ぐことができますわ」


 と言った。


「えっ!? 椿子さま、ご結婚なさるんですか!?」


「ええ。……本当はきちんと女学校を卒業して、職業婦人になりたかったのですけれど。椿子は花ヶ前はながさき家の嫡女ちゃくじょですもの。所詮は叶わぬ夢でしてよ」


「そんな……」


「あら。樹さん。そのように悲しいお顔をなさらないで。椿子は納得して嫁ぐのですもの」


 椿子は柳眉の眉尻を下げて、樹の左手を手に取る。


「樹さん。わたくしの願いはただ一つ。お兄さまと樹さんが仲睦まじくいてくださることですの」


 そう言って、ふわりと笑った椿子を見て、樹は奥歯を噛みしめた。


「……どうしてそこまで、俺たちのことを」


 囁くように口にした言葉に、椿子はにこりと微笑みを浮かべて、


「『推し』の幸せが椿子の幸せですのよ。これは、生まれながらにして腐女子ふじょしである、わたくしの因果だと思っております」


 と言った。


「おし……婦女子……?」


 本来ならば感動的なシリアスシーンなのだろうが、椿子のセリフの半分も理解することが出来なかった樹は、困惑した顔で梗一郎を見上げた。すると樹の視線に気がついた梗一郎は、樹の頭をポンポンと優しく叩いたあと、真剣な眼差しを椿子に向けた。


「……決意は固いのだね?」


「はい。お兄さま」


「椿子の人生は椿子が決めるものだ。椿子の決意が固いのならば、私はこれ以上何も言うまい」


「梗一郎さま……!」


 樹が『本当に良いのか』と視線で訴えると、梗一郎はこくりと頷いた。


「……ちょうど昨日、椿子の肖像画が完成したんだよ。とても素晴らしい出来栄えだ」


 梗一郎の言葉に、椿子は表情を明るくし、その場でぴょんと飛び跳ねた。


「それは本当ですの!? 嬉しいっ! 椿子の誕生日パーティーに間に合いましたのね!」


 その言葉にハッとした樹は、これだけは言っておかなければと、乾いた唇をひと舐めして口を開いた。


「椿子さま」


「なんでしょう?」


「少し早いですが、お誕生日あめでとうございます」


 思いの外、真剣な声音になってしまったが、早乙女のことを思って真心を込めた。すると椿子は、キョトンとしたのち、ふわりと花笑みを浮かべて「ありがとうございます」と言った。


 こうして樹は、自分の使命を果たし、異世界で生きていく覚悟を固めたのだった。

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