第14話

 樹が異世界転生をして、約一月が経過した。


 人間とは不思議なもので、心構え次第で、あっという間に環境に適応出来てしまう。中には上手く適応できない人もいるだろうが、樹は存外、適応能力が高かったようだ。


 梗一郎こういちろうとも適切な距離感を保てているし、書生としての仕事や画塾がじゅく通いにも慣れ、樹はいつしか、自然と早乙女樹にり変わることが出来るようになっていた。


 しかし樹は、穏やかに過ぎていく日々に安らぎを感じつつも、どことなく息苦しさを覚えていた。


 ――原因は梗一郎だ。


 樹がどれだけ事務的な態度を取っても、梗一郎は飽きることなく、樹の元に通ってきた。梗一郎は、わざわざ早朝の庭園に来ては「おはよう、樹」と穏やかな微笑みを浮かべる。そして、挨拶のみで去る日もあれば世間話をして出勤することもあった。


(俺のことなんか、放っておけばいいのに)


 しかし、一度も顔を合わせない日があると、物足りなさを感じてしまうのも確かだった。


(結局俺は、梗一郎さまとどうなりたいんだろう……)


 尽きない自問自答を繰り返しつつ、いつものようにバラの水やりをしていた樹は、聞き慣れた足音が聞こえてきたことでハッと気を引き締めた。


「樹、おはよう」


 樹はドキドキと高鳴り出した心臓を落ち着かせるように短く息を吐くと、手にしていたジョウロを足元に置いて、しゃんと背筋を伸ばした。それからできるだけ梗一郎の顔を見ないように、ぺこりと頭を下げる。


「……おはようございます、お坊ちゃま」


 そう言って顔を上げた樹の視界の端に、否応なしに梗一郎の顔が映り込んだ。秀眉しゅうびを下げながらも、微笑みを崩さない梗一郎の態度に、樹の胸がズキンと痛む。


 しかし樹は、胸の痛みに気づかないフリをして、事務的な笑みを浮かべた。


「今日は早朝からいい天気だね」


「そうですね。バラたちも喜んでいます」


「そうか。……バラたちが羨ましいよ。毎日樹に世話され、愛し育んで貰えて」


「愛し育むだなんて……」


 梗一郎の大袈裟な言い方に思わずクスリと笑みをこぼす。その時、伸ばしっぱなしの前髪がサラリと目元に落ちてきた。


(そろそろ髪を切らないと)


 そう思いながら邪魔な髪を耳にかけようとした瞬間、梗一郎の手が一歩先いっぽさきんじ、ぬばたまの髪をサラリとさらって樹の耳にかけた。その際ほんの一瞬だけ、梗一郎の指先が耳の輪郭を撫でていき、樹の肌がぞくっと泡立った。そして梗一郎の指先の熱が伝染したかのように、樹の耳がかあっと熱くなり、真っ赤に染まる。


 樹は咄嗟に髪をササッといじって、赤くなった耳を隠した。


 なんとなく気まずい気持ちになった樹は、着物の合わせ目をぎゅっと握りしめて視線をうろうろと彷徨さまよわせ、苦笑いを浮かべる。


「み、みっともないですよね」


「何がだい?」


「髪ですよ。そろそろ切らないといけませんね」


 そう言ってあははと笑った樹を見て、梗一郎はフッと口元を緩ませ、懐かしげにちゅうを見つめた。


「……そなたと初めて出会った時のことを思い出すよ」


「え……?」


「そなたは顔を隠すために髪を伸ばしていてね。その美しい蒼穹そうきゅうの碧眼を、ぬばたまの髪で隠していた。私にはそれがもったいなく思えて、思わず樹に声をかけたんだ。……そうして私は、そなたに一目惚れしたんだよ」


 と言って梗一郎は、切なそうに微笑みを浮かべた。その表情を目にした樹の胸がズキンと強く痛む。


(それは、早乙女さんと梗一郎さまの思い出。今、梗一郎さまと話しているのは俺なのに……)


 樹の心に嫉妬というどす黒いモヤがかかっていく。なにかと理由をつけて、梗一郎を避けていたのは自分なのに、樹に早乙女の姿を重ねる梗一郎のことが許せなかった。


「……っ、」


 樹はうつむいて下唇を咬み、勢いよくあふれ出してしまいそうな激情をこらえる。けれど――


「……お坊ちゃまは、僕のことを見てくださっていますか? 僕は以前の早乙女樹となんら変わりのない存在ですか? 一度でも、以前の早乙女樹ではなく、今ここにいる僕を見て下さったことはありますか?」


 矢継ぎ早に言い連ねる樹の姿を見て、梗一郎は目を丸くしていた。その表情を見てハッと我に返った樹は、咄嗟とっさに口元を手で覆い、梗一郎から視線を逸らした。


(俺……何を口走って……!)


 すぐに弁解しなければと、樹が口を開けた時、先に口火くちびを切ったのは梗一郎だった。


「……すまない、樹」


「え?」


 謝罪の言葉を口にしたまま黙り込んでしまった梗一郎を見て、樹は嫌な予感を覚えながら、細かく震える唇を開いた。


「こ、梗一郎さま。謝罪の理由を……お尋ねしてもよろしいですか……?」


 樹の問に対してすぐに反応がなかったことに絶望感を覚える。サアーッと血の気が引いた樹の顔は紙のように白くなり、震える両手を握りしめると、氷のように冷え切った指先が手のひらにくい込んだ。


 ――自分は何を恐れて、失望しているのだろうか。


 梗一郎から距離を置いたのは樹で。


 梗一郎との触れ合いを拒んだのも樹で。


 梗一郎の前から消え去ることを決意したのも樹だ。だというのに――


(なんでこんなに胸が痛むんだ?)


 樹の心臓はバクバクと激しく拍動し、胸が張り裂けそうなほどに痛んだ。そして熱を帯びた目尻に涙が溜まっていくのを感じる。樹は、だんだんと浅くなっていく呼吸を落ち着かせることができなかった。


(もしかして、俺は、梗一郎さまのことが……)


 最悪のタイミングで自分の気持ちに気づいてしまった樹は、今すぐこの場所から逃げ出したくてたまらなかった。そうして樹が無意識に後退あとずさろうとした時、今までずっと口を閉ざしていた梗一郎が言葉を発した。


「私はそなたを通して、記憶を失う前の樹の姿を見ていた」


「っ、」


 樹の目尻から、ツゥーっと涙が流れ落ちた。


 しかし、樹から視線を外した梗一郎はそれに気づかない。


「樹。今の君は、以前とは別人のように明るく快活で愛らしい。けれど、私が愛した樹は――」


「やめてください!!」


 それ以上聞きたくないと、樹は両耳を塞いで首を左右に振った。そして樹は、ポロポロと涙を溢しながら、戦慄わななく唇を動かした。


「……だったらなんでアトリエで僕を抱いたんですか?」


「樹、それは……。とにかく私の話を聞いて――」


「聞きたくありません! ……どうせ俺は早乙女樹には勝てないんですから……!」


「樹……?」


 ハッと自嘲気味に笑った樹は、流れる涙をそのままに、口元を歪めて梗一郎を見つめる。


「梗一郎さま。僕は、画塾を出たら仏蘭西フランス渡仏とふつするつもりです」


「――なに?」


 梗一郎の顔からストンと表情が無くなった。


 初めて梗一郎の柔和な仮面を剥がすことができて、樹は胸がすく思いと共に、仄暗い愉悦を感じることが出来た。それに満足した樹は、手の甲で乱暴に涙を拭い、梗一郎に頭を下げた。


「僕にはまだ、やることがありますので、お先に失礼いたします」


 そう言って、梗一郎の顔を見ることなく、樹は庭園を後にしたのだった。

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