第9話

 庭園で気を失ってから数日後の早朝。


 樹はリハビリを兼ねて使用人の仕事を手伝っていた。とはいえ、炊事と洗濯は重労働だからとさせてもらえず、樹は庭園の仕事を任された。夜のうちに雨が降ったせいだろう。朝日が昇ったばかりの庭園は、濃い霧に包まれていた。


「わぁー、凄い霧ですね!」


 樹は目の上に手をかざしながら、園丁えんていの老人に笑いかける。朝から元気いっぱいの樹の姿に、園丁は孫を見るような優しい眼差しを向けた。


「早乙女さんは、病が治ってから人が変わったようじゃなぁ」


 ほっほっほっ、と園丁に笑われた樹は、ギクリとして手に持っていた竹箒たけぼうきを取り落としそうになる。


「い、いやぁ〜。一時は生死を彷徨さまよいましたから、これからはもう少し明るく生きてみようかと思いまして」


 あははは、と苦い笑い声を上げた樹は、


「ぼ、僕。あっちから掃除してきますね!」


 と言って園丁の側から離れた。怪しまれないようにゆったりと移動して、園丁の姿が見えない位置まで来ると、樹はようやく肩の力を抜くことが出来た。それでも油断は禁物と、樹は竹箒で石畳の上を掃きながら周囲を警戒し、誰の姿も無いことを確認する。


(誰もいない、よな?)


 ここなら安全だと判断して、無意識に詰めていた息を吐くと、竹箒を杖代わりにしてその場にしゃがみ込んだ。


「はぁ〜〜。朝っぱらから、もう疲れた……」


 そう言って、樹はがっくり項垂うなだれる。


 樹が異世界に転生してから一週間ほど経過した今。樹の魂は早乙女の身体に良く馴染み、元の身体ほどではないが、体力がついてきている。


 とはいえ、早乙女の身体が虚弱体質なのは、生まれつき心臓が悪いせいなので、これ以上健康にはなれない。


(……体力が無いのは仕方がねえ。けど、早乙女さんを真似まねるための情報が少なすぎる! 記憶を失ったからって、まるっと性格が変わったらおかしいしな)


 樹の目標は、このまま花ヶ前家にお世話になって画塾を卒業し、一人前の画家になって生きていくために、仏蘭西フランス渡仏とふつすることである。


(……そのためには、花ヶ前家の人間に不審がられちゃダメだ。早乙女おれのパトロンとして、援助し続けてもらわないといけないんだからな!)


 今現在、早乙女樹について分かっている情報は、ハーフで、温かい家庭で育っていて、性格は優しく、病弱がゆえに儚げで、物腰が柔らかい。そして絵の才能がある、という事だ。


(一日も早く、早乙女の記憶を取り戻さねーと)


 おそらくだが、早乙女の夢を視るためには、梗一郎との性的な接触が必要なのではないかと思う。根拠はないが、これまで二回とも、梗一郎とキスをしたことによって過去視に成功している。


(キスなんか、挨拶だ、挨拶! さっさとキスして、さっさと記憶を取り戻して、さっさと梗一郎さんから離れるんだ!)


 樹は梗一郎と過ごす時間が苦手だった。自分はノンケで女の子が好きなはずなのに、梗一郎と一緒にいると胸がドキドキして、変な気分になってしまうのだ。


(とくに、梗一郎さんのあの瞳がダメだ……)


 まるでチョコレートみたいに、甘くてトロトロになった焦げ茶色の瞳に見つめられると、樹は思わず、梗一郎に身体を差し出したくなる。


 ――樹は直感していた。


 おそらく、梗一郎に一度捕まれば、風切羽を切られて二度と飛べなくなるだろう、と。


 だから樹は、なるべく梗一郎と二人きりにならないように気を付けていた。


「出来るだけ自然に避けてるつもりだけど、さすがに怪しまれて――」


「ふぅん。やっぱり私のことを避けていたのだね?」


 背後から音もなく忍び寄ってきた梗一郎に驚いて、声を上げそうになった樹の口元を、手袋を着けた大きな手が塞いだ。


「しーっ、静かに」


 耳の後ろに唇を当てて、甘い声で囁かれた樹は、それだけで腰が抜けてしまいそうになった。そのことに気づいたのだろう。梗一郎は樹の口元を覆ったまま、耳の後ろにキスをした。


「ン……ッ」


 軽く触れるだけのキスだったにもかかわらず、樹の肌は快感に泡立ち、身体がビクッと跳ねて、甘い声が鼻から漏れた。


 梗一郎は、樹の反応を楽しむように耳に口づけ、耳たぶをみ、耳に息を吹きかけた。すると、あっという間に樹の息は上がって、象牙色の肌が桃色に染まっていく。


 無防備に晒されたうなじにきつく吸い付かれると、樹はたまらなくなって、快感に涙をこぼした。それに気がついた梗一郎は、慌てて樹の口元から手を離し、崩折れそうになった華奢な身体を抱きとめた。


 背中に梗一郎の熱い体温を感じながら、樹は呼吸を整えて、萎えてしまいそうな足に力を入れる。そうして、なんとか一人で立てそうになった頃に、樹の方から身体を離した。


「……梗一郎さま」


 幾分かトゲを含んだ声で名を呼ぶが、梗一郎は怯むことなく、


「なんだい?」


 と穏やかに答えた。霧が晴れてきた庭園のすみで、樹は久しぶりに、梗一郎の瞳を直視する。


「梗一郎さま。僕は今、仕事中なんです。突然現れて、こんなことをされては困ります」

 

 内心の動揺を悟られないように、樹は腹に力を入れると、梗一郎を下から睨んだ。すると梗一郎は、怯むことなく蠱惑こわく的にゆったりと微笑みを浮かべた。


「睨んでくる樹も愛らしい」


「なっ……に言って、」


「まさか樹に睨まれる日がくるとは思わなかったよ」

 

 樹は反論しようとした口を瞬時に閉じた。


(やっべ……)


 気をつけようと意気込んだ矢先に、あっさりと化けの皮が剥がれそうになって酷く焦るが、どんな顔をしたらいいか分からない。


(こういう時、早乙女さんだったらどんな反応をするんだ!?)


 頭を抱えてぐるぐると考え込んでいると、ふと影が射し、樹の目元を生暖かい舌がぺろりと舐めていった。それに驚いて固まる樹を見て、梗一郎は愉しげに目を細めた。


「朝露に濡れる早朝のバラも美しいが、ぬばたまの睫毛しょうもうに濡れる朝露の甘さも格別だね」


 もうどうしようもない。そう結論付けた樹は、熱を持ちはじめた目元を押さえながら、苦笑いを浮かべるしかなかった。

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