第8話

 樹が目を開けると目の前には、以前見た時よりも五歳ほど成長した姿の早乙女が地面にしゃがみ込んでいた。


 例の如くまたいじめられたのかと眺めていると、ひとりの男性――三十代に見える――が、早乙女に向かって歩いて来た。


 男性は、早乙女が木の棒を鉛筆代わりにし、土に絵を描いている様子をじっと眺めている。男性の存在に気が付きながらも、素知らぬフリで作業を続けていた早乙女だったが、流石に気になりだしたらしい。


 長い前髪の隙間から覗く碧眼の目を男性に向けて、


「人さらいなら止めておいたほうが良いですよ。僕は鬼の子ですから、だれも買いたがりません」


 と素っ気なく言った。樹がその言葉に驚いていると、男性は軽快に笑ったあと、早乙女の目線に合わせてしゃがみ込んだ。


「人さらいに見えるかい?」


 人の良い笑みを浮かべた男性は、笑い皺の目立つ目尻を下げて訊ねた。すると早乙女は、少しだけバツが悪そうな表情を受かべて、首を左右に振った。


「……ここらでは見ない上等な着物を着てたから、人さらいかと思ったんです」


「じゃあ、どうして違うと思ったんだい?」


 男性が穏やかに訊ねると、早乙女はしばらく迷った様子を見せてから、おずおずと口を開いた。


「……のにおいが。おじさんが座ったとき、絵の具のにおいがしたから」


 そう呟くように言った早乙女の頭を、男性はポンポンと優しく叩いた。それに酷く驚いた様子の早乙女は、信じられないものを見るような目を男性に向けた。


「おじさん、僕が怖くないの?」


「うん? どうしてだい?」


「……だって僕は混血児あいのこで、生まれてくるときにお母ちゃんを死なせてしまったから」


「……お母さんが亡くなったのは、君のせいじゃないよ。もともと出産は命がけなんだ。子どもを生んで亡くなる女性はたくさんいる」


「でも……」


 納得がいかなそうに口ごもった早乙女に、男性は、


「それよりも、この絵は君が描いたのかい?」


 と地面に書かれた絵を指さした。すると途端に笑顔になった早乙女は、大きく頷いて、キラキラ光るような笑顔を見せた。


「うん! 僕が描いたんだよ! ばあちゃんがね、『樹はお母ちゃんによう似とる』って言うんだ。だから自分の顔を鏡で見て、お母ちゃんをかいてみたの! おじちゃん、似てると思う?」


 そう言った早乙女は、土に描いた絵と自分の顔を見比べさせた。それに対して、真面目な表情を浮かべた男性は、


「良く描けているけど、本物の方がもっと優しそうな顔をしていたよ。そうだね。さっきの君のようにパアッと花が咲くような笑顔が素敵なひとだった」


 と言った。男性の言葉に目をパチクリさせた早乙女は、木の棒を放り出して勢いよく立ち上がった。


「おじさん、僕のお母ちゃんのこと知ってるの!?」


 興奮気味に訊ねる早乙女に、再び軽快に笑った男性は、


「良く知っているよ。おじさんの姉さんだったからね」


 と言った。そうして男性は遠くを見遣って優しい笑顔を浮かべると、その表情を早乙女に向けた。


「絵を描くのは好きかい?」


 そう唐突に質問した男性だったが、早乙女はこくこくと何度も頷いた。


「うん! 僕、絵を描くのが大好きだよ! えんぴつや絵の具のにおいをかいでると、すごくなつかしい感じがするの!」


「そうか。……やはり血は争えないな」


 囁くように言った男性の言葉を聞き取れず、「おじちゃん?」と首をかたむけた早乙女に、男性は手の差し伸べた。


「さぁ。もうすぐ夕餉の時間だ。おじちゃんはおばあちゃんに頼まれて、君を迎えに来たんだよ。帰りながら、樹のお母ちゃんの話をしてあげよう」


 早乙女は絵の具の跡が残る男性の手をじっと眺めたあと、土で汚れた手を着物で拭って、男性の大きな手を握ったのだった。





 樹が目覚めると、瀟洒しょうしゃなペンダントライトが吊り下がっている天井が見えた。


(俺、また気を失ったのか……)


 おそらく、梗一郎が居室まで運んでくれたのだろう。


 樹はおもむろに、浴衣の合わせ目の上に右手を置いた。解剖学的には、ここに心はない。しかし今、樹の心はズキズキと痛んでいる。


 樹は、早乙女のことを思うと不憫でたまらなかった。目を閉じれば、夢の中で見た早乙女の花のような笑顔がよみがえる。ふと、自分が『早乙女樹』として生きていいのかという疑問が湧き上がった。


 樹も死んだ。早乙女も死んだ。なのに何故、自分は転生することが出来て、早乙女が生き返ることができなかったのだろうか。


(それともどこかで、俺と同じように転生して生きてるのかな……?)


 そうであればいい、と思いながら、樹は浴衣の合わせ目をぎゅっと握った。


 樹は、やると決めたら最後までやり通す男だ。


(転落事故で死んだはずの俺は、運良く第二の人生を与えられた。この身体を与えてくれた早乙女さんの分まで、頑張って生きてみよう! だけど、梗一郎さんのことは……)


 樹はハァと重い溜め息を吐いた。


 梗一郎に触れられた時の形容しがたい感覚は、嫌悪感ではなく、性的な快感だと理解した。きっとこの身体は、梗一郎を愛し、求めているのだろう。それに樹自身も、早乙女の影響か、梗一郎を憎からず思っている。だが――


(やっぱり俺は、女の子が好きなんだよなぁ〜〜)


 樹は盛大な溜め息を吐いて顔を覆った。そして、神様は残酷なことをする、と思った。


「……俺が何ヶ月もかけて、ようやく描きあげた理想の大正乙女おんなのこ。その子が梗一郎さんの妹だなんて!」


(正直に言おう。俺は椿子さんと恋愛がしたかった……!)


 樹は悔し涙をながしながら、やりきれない気持ちで頭から布団を被ったのだった。

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