アルテミスの謝罪

とっく

和倉つぐみ

第1話

――パンッ!


「痛っ。」

 

「お父さんの心の方が痛いんだよ!どうして分かってくれないんだ!」


――パンッ!

 

「お父さんやめて!ごめんなさい!もうしないからっ…うぅ。」


 十発程の平手打ちを喰らい、涙をポロポロこぼしながら許しを請う私を見て、父親が手を止めた。


「こんなに愛しているのに…どうして分からないんだ?」


「分かってる…ごめんなさい。」


 父親は、へたり込み泣き止まない私を見下ろし、頭を撫でると膝をつき抱きしめた。

そして私の首筋に…キスをした。

 

 父親の前では、私の心は死んでいる。

抵抗する気力もない。

この人は可哀想な人なのだ。

自分に言い聞かせ受け入れる。

 

 父親は首筋から顔を離し、私の唇に乱暴にキスをした。


 父親は私を殴った後、キスをしたり身体を触る。

実の父親がこんな事をするのはおかしいって、中3の私ならそれくらいの事は分かる。

小6の時に母親が家を出て行ってから、私への暴力も性的虐待も始まった…。


 

 小6の冬。

お母さんが離婚したいと言った。

それを聞いてショックだったけど、ちょっとホッとしたの…。

 

 お酒を浴びる様に飲んで、常に酔っ払っている父親には定職がなかった。

昼は保険の外交員、夜はスナックで働いていたお母さんに、限界が来ていたのは目に見えて分かってた。

父親はそんなお母さんに、暴言を吐いたり殴ったりした。

それは、日に日にエスカレートして行ってた。


 早く別れちゃえば良いのに。


 そう思ってたから、

やっと決心してくれたんだ!良かった!って思ったんだ。

なのに…

お母さんと荷物をまとめていた時、私は初めて父親に殴られた。

父親はお母さんに向かって

「1人で出ていけ!」

と、怒鳴って私を力付くで引き留めた。



「最後につむぎを抱きしめさせて…。」


 お母さんが震える声で父親に言うと、舌打ちをしながら許してくれた。




「お母さん(泣)」


「絶対に迎えにくるから。絶対に…絶対に一緒に暮らそうね。それまで我慢して…(泣)」


 お母さんは私の耳元でそう囁くと、私から離れて嗚咽を漏らしながら号泣した。



「つむぎ、ごめんね。ごめん。」


「うるさい!早く出て行け!」


 父親がお母さんを蹴飛ばし、家から追い出した。





 それ以来、私は父親に虐待されている。

 

 父親の言い分としては…

母親を選んだ事で心が傷付いたのだから殴って当然。

そういう事の様だ。


 

 今日殴られてしまった理由は、お母さんに会っている事がバレたから。

父親に内緒で定期的にお母さんと会ってたんだけど、バレたのは今回で3回目。

まさか駅で出くわすなんて…。

父親に会った瞬間、お母さんと手を繋いで逃げちゃった。

 

 こんな父親だけど、たまにふと冷静になって私の事を考えるみたい。

そういう時に居酒屋とかの飲食店で働いたりしてるんだけど、今日は久しぶりに仕事に行こうとしてたんだって。

私が父親を傷付けてしまったから、一回も行かずに辞めちゃったって…。

あの後、電車に乗らないで引き返したらしい。

帰ったら案の定、いつも以上に酔っ払っていて沢山殴られた。


 

 そんなに虐待されているなら、早く母親の所に行けよと誰もが思うかもしれないけど

お母さんの生活が安定しないから、なかなか一緒に暮らせないでいる。


 だって離婚したのに、父親はお母さんにしょっちゅうお金を無心していて、物を買わせたりしている。

こないだは高い老眼鏡を買わせてた。

私の為にと思ってお金を渡しているけど、殆どお酒に消えちゃうし…。

うちの公共料金もお母さんが払ってるから、なかなかお金が貯まらない。

高校生になったら私がバイトして引越し費用を貯めなきゃって思ってる。


 気の済んだ父親がまた、お酒を飲み始めた。

デッカい容器の焼酎をコップに乱暴に注ぐから、テーブルや絨毯に飛びまくって部屋の中はお酒臭い。

亡くなった祖父母が建てた一軒家の中で、中学生がこんな辛い目にあっているとは近所の人は誰も気付いていない。

だから誰も助けてくれない。

顔にアザを作ったって、東京の中学校の先生は見て見ぬふりだし。

心配してくれる友達も私には居ない。


 去年までは学校でもいじめられてて、何度か自殺しようとしたけどお母さんを思うと出来なかった。

もう中3の後半ともなれば、誰もいじめて来ない。

高校受験があるからそっちで忙しいみたいで、みんな無視してくれる。

いじめがバレて、内申書に書かれるのも怖いしね。

今は学校にいる時が一番、心が休まる。

早く月曜日が来ないかな。

やっと冬休みが終わってくれる。

飲んだくれる父親を見ながら、もう少しの辛抱だとぼんやりと考えていた。



 程なくして父親が、イビキをかきながら眠った。

心配している母親に連絡しなくちゃ!

お母さんが持たせてくれているスマホを握りしめて外へ出た。

1月の夜の外気は、刺す様に冷たい。

だけど自由な気がして顔の緊張がほぐれる。

お母さんに電話を掛けながら歩き出した。



「もしもしお母さん?」


「つむぎ!大丈夫だった?」


「うん。すごく怒ってたけど大丈夫だよ。」


「ごめんね。迎えに行けなくて…。」


「大丈夫だよ!泣かないでよ(笑)バイトする様になったら一緒に住めるでしょ?」


「ごめんね…。苦労かけてしまって。」


「そんな風に思って無いよ。てかさ、次いつ会える?」


「こんな事があったのに…。寂しいけど少し時間空けよう?」


「やだよ!お母さんと会いたいもん!(泣)」


「わかった…。じゃあ、また来週の土曜日に会おう。」


「ぐすっ。うん…。」


「お父さんが起きたら大変よ。早く帰りなさい。」


「わかった。じゃ、また電話するね。」


「うん。またね。気をつけるんだよ。」


「うん。またね。」



 お母さんは私が酷く虐待されている事を知らない。

時々殴られるとは言ってあるけど…。

酷い暴力も性的虐待も、お母さんが可哀想だから言えないでいる。

これは親孝行だと思ってるんだけど、もしかしたら違うのかな…。



 お父さんが起きていたらまた殴られてしまうから、言い訳の為に自動販売機でペットボトルのコーラを買った。

どうしてもコーラが飲みたかったって誤魔化そう。


 恐る恐る家に帰ると、父親はまだイビキをかいて寝ていた。

そっと何事もなく、自分の部屋に戻れた。




 

 やっぱり自分の部屋は落ち着く。

絵の具や、自分の描いた絵で散らかっているけど、それが良いんだ。

本棚から古本屋で買った、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画集を取り出して『洗礼者ヨハネ』のページを開く。


 右手の人差し指で天を指差すヨハネの微笑みは、私を楽しい所に

 

「さ、つむぎも行こう!」

 

 と、連れて行ってくれる様な気がしてドキドキする。

しばらく眺めた後、私はキャンバスに向かった。

キャンバスと言っても百均で買った大きな画用紙だけどね。

キャンバスなんて高くて買えないもん。

絵の具だって百均だよ。

まだ父親が仕事をしていた頃に買って貰ったイーゼルに、キャンバスに見立てた画用紙を立て掛けてある。

絵の具を出して『洗礼者ヨハネ』の模写の続きに取り掛かった。

ダ・ヴィンチの絵を見ている時と、絵を描いている時は無心になれる。


 

――私は将来、画家になりたい。

 

 自分でも絵の才能があるんじゃないかなって思っている。

なのに、父親に言ったら…


「お前が画家になんかなれるわけが無いだろう!しょうもない事は考えなくて良いから稼いで家に金を入れろ!」


 と、言われた。

父親に言われた事を、お母さんに会った時に言ったら…


「どうして?絵を描くことを仕事にしている人がこの世に居るのに。つむぎがなれないと決めつけるのはおかしいでしょ!お母さんはつむぎに才能があると思ってるよ。だからやりなさい。やりたい事をやんなきゃダメよ。」


 そう言ってくれた。

だから私は将来、画家になると決めている。


 ダ・ヴィンチの模写をする様になって益々、ダ・ヴィンチに憧れる様になった。

どんな風に描いたんだろう、どんな気持ちで描いたんだろう。

彼の助手か使用人として働きたいな…。

過去に行く事が出来たら、ダ・ヴィンチの側でずっと見ていたい。


 タイムマシンがあったらいいのに。



 ダ・ヴィンチの模写だけど、私なりの『洗礼者ヨハネ』が出来上がった。



――上出来だ。


 大満足でベッドに入る。

明日は何を描こうかなぁ。

その前に洗濯と掃除を早く終わらせなきゃな…。




 この様に15歳の私は、

東京の片隅で不幸に喘ぎながらも、

何とか喜びを見い出し


生きている。







 

 

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