ピザで喧嘩
桂木 京
ピザで喧嘩
妻と久しぶりに喧嘩をした。
きっかけは、話せば笑われるような、そんなつまらないこと。
その日は、私の仕事が遅く、妻も用事があったため、食事を作るのが大変で、帰宅の遅い私が夕食を買って帰ることにした。
たまたま、久しぶりに食べたいと思い立って買った、マルゲリータ。
近所でも評判のイタリアンレストランのテイクアウトメニューだった。
帰宅した私は、喜ぶ妻と一緒に皿を出し、ビールの缶を互いの手元に置き、乾杯をした。
3歳になる息子はもう眠っている。
ピザの出来上がりを待っているうちに、20時を超えてしまっていた。
息子に申し訳ないと思いながらも、私と妻はピザを食べようと手を伸ばした。
そして、事件は起こった。
お互いに1ピースずつ手に取り、自分の皿に取り分けようとした、その時……。
「あっちぃ!!」
思いきり伸びたチーズが、私の手首にまとわりついたのだった。
伸びるチーズは、もちろん熱い。
そして、なかなか取れない。
取れない間も、熱い。
苦しみながらもようやくチーズを取った私。
妻はそれを見て大笑いしていた。
それが、私の癪に障ったのだった。
「お前さ……笑い事じゃないだろ。こっちは火傷するところだったんだぞ。」
気の強い妻と、出来るだけ事なかれ主義で行こうと思っている私。
故に、普段は妻が何を言っても聞き流すか、合わせるか。
しかし何故か、この日ばかりは違った。
私が我慢する必要があるのか?
火傷している夫を、ただ笑ってみている妻って、どうなんだ?
そう思うと、怒りが込み上げてきたのだった。
「なに? 急に怒り出して……」
妻も、普段それほど怒らない私を見て、不思議そうな表情を私に向ける。
「急にって……こっちは火傷しそうだって言ってるの。そういう時は濡れタオル持ってくるとか、大丈夫? って一声かけるとかあるだろ。」
「何よ~、ピザのチーズくらいで大げさだなぁ。だったら伸びるチーズが乗ってないピザを選べばよかったじゃん。」
いつも妻は強気である。
普段なら言い負かされて、私はビールを一気飲みして黙るのだが……。
「大体さ、お前……毎日仕事して遅くに帰ってくる俺に対して、感謝の気持ちが足りなさすぎじゃないか?」
この時、私は思っていた。
働いて忙しい思いをしているのは、私だけだ、と。
そもそもそれが間違いだったのだが、この一言が、妻の怒りの炎を燃やすことになったのだった。
「感謝……ですって?」
妻の表情が険しくなる。
普段とは違う表情の変わり方。
これは、些細な喧嘩とは呼べなくなるような、大喧嘩を予感させた。
「じゃぁ何? あなたは私に感謝してる? どうせ私はフルタイムで働いていないパートだから、大して疲れないだろうとか、そう思ってる?」
妻の怒りの形相。
私は何か、触れてはいけないものを踏んでしまった、そんな気がしたが、今回ばかりは退くわけにはいかない。
「お前の方こそ、俺がただ仕事に行って帰って、家では何もしない奴だと思ってるんだろう?」
「えぇ、思ってるわ。フルタイムで働くことがそんなに偉いわけ?」
妻がいつになく逆上している。
こうなった時の妻は、手が付けられなくなる。
しかし、これはいい機会だ。
いつも妻ばかりが主導権を握ってきた我が家。
今回は旦那の威厳を見せるいい機会だと思ったのだ。
「そりゃ偉いだろ。俺がフルタイムで働くことで生活の基盤が出来ているわけだし。」
「じゃぁ、フルタイムで働けば、家事はやらなくていいと思ってる? 子育ては私任せでいいと思ってる?」
妻の語気が荒い。
今回は、なかなか決着がつかなさそうだ。
――――――――――――――――
私は正社員で役職持ち。
妻は家事を一手に引き受け、仕事はパートで3時間ほど。
家計を支えているのは、主に私の給料だ。
家のローン、食費、水道光熱費、保険料から車の維持費まで、主な出費は私の口座から引き落とされている。
その辺の強みはあった。
私が働かなければ、生活が成り立たない。
そう自負していた。
「家事を任せていることには素直に感謝している。でも、働く方のこともちゃんと考えてくれよ。ほとんど家にいるんだから、休みたいときに休めるだろう?」
2ピースしか食べていないピザは、もうすっかり冷めてしまった。
「……私は、働いていないとでもいうの?」
妻が、私を睨みつける。
「子育ては? あなたは子育て、ちゃんとしているって言える?」
「してるじゃないか。風呂に入れたり、遊んだり……」
「それだけじゃない!」
妻は私の言葉を遮るように叫んだ。
「ご飯を食べさせるのは? おむつを替えるのは? 寝かしつけるのは? 洋服やパジャマを切らさないようにこまめに洗濯するのは? あなた、一度でもしたことある? おむつ替えって言ったって、あなたうんちのときは私に丸投げするじゃない。どっちも替えて初めておむつ替えっていうのよ!」
「それは、お前の……」
「私の仕事じゃない! 子育ては、二人ですべき仕事なのよ!」
妻がこれまで見せたことも無いような怒りの表情を、私に向けた。
「仕事の早い日は、買い物だってして帰るじゃないか。足りないものを買い足したり……。」
子育てに関しては、何も反論が出来ないほど妻の方が圧倒的にこなしている。
子育てで自分のことを主張しても分が悪い。
そう思った私は、自分も家のことをやっているということを妻に伝えたかった。
しかし、その考えが甘かった。
「あなたの買い物は全部、『無くなってから』でしょう?」
「買い足してるじゃないか。」
「それも、急ぎじゃないものばかり……。牛乳とか炭酸水なんて、1日2日無くたって困らないじゃない。あなた、『名もなき家事』って知ってる?」
名もなき家事、ニュースでそんな話は耳にしたことはあるが、詳しくは知らなかった。
家事は妻がやるものだと思い込んでいたから。
「毎日使うものを切らさずに蓄えておくのだって家事のひとつなのよ。あなたがすぐにたくさん無駄に使うティッシュペーパー、トイレで使うトイレットペーパー、あなたの整髪料、歯磨き……今までに切れて使えなかった日、ある?」
確かに、言われてみればそれらがなくて困った記憶は一切ない。
「シャンプー、トリートメント、石鹸、納豆に牛乳、あなたが毎日飲むビールだってそう。買ってこなければ蓄えられないのよ。あなた、今までに補充してくれたこと、一度でもある?」
何も言い返せなかった。
消耗品が切れていることは、私の知る限りでは一度もなかった。
妻が買ってくれているのは分かっていたが、当たり前のように補充してくれているから、無くなってしまったらなんて、考えたことがなかった。
次第に旗色が悪くなっていく。
あって当たり前、やってあって当然だと思って過ごしてきたそのほとんどが、妻の毎日の努力の賜物だった。
(私は……こんなに妻が家のことを気遣っているのを知らなかった……。)
「家事には時給が発生しないから、夜の旦那様にとっては『当たり前のこと』って感じられることが多いけどね、賃金が発生しないからやらない、が通用しないのが家事なの。やらなければ家も、家族の心も荒んでいくのが家事なのよ。」
私が意気消沈したのを感じ取ったのか、妻は荒かった語気を弱め、私に訴えかけるように言う。
妻の言う通りであった。
こうやって喧嘩と言う形で話し合わなければ気付かない家事。
私は喧嘩が始まった時に最初に妻にぶつけた言葉を悔いた。
『感謝して欲しい』
仕事に出て働くことだけが感謝されるべきことなのか?
文句も言わず、賃金など見返りも求めず、家族や家のために毎日家事をする妻こそ、感謝されるべき存在なのではないだろうか?
「……ごめん。間違ってたよ。」
私は妻に深々と頭を下げた。
「金を稼ぐことだけが感謝されるべきことではないよな。いい気になってたよ。」
妻が仕事に集中させてくれたから、私は仕事に全力を向けられた。
妻が支えてくれたから、家を守ってくれたから、私は疲れ果てても帰って休むことが出来た。
感謝すべきは、私ではなく妻だったのだ。
「ふぅ……。」
私の謝罪を受けた妻は、思い切り息を吸い、深く大きなため息を吐く。
「……私の『仕事』、少しは分かってくれた?」
そういう妻の表情から、怒りの感情はすっかり消えていた。
「あぁ。……ごめん。これからは家事、ちゃんと……」
「あぁ、私は怒ったからって家事をやって欲しいわけじゃないの。」
私が反省し、少しは自分も家事に対しての向き合い方を改めようと、その気持ちを口に出したが、妻は小さく首を振った。
「今のご時世、旦那さんも家事とか育児とかやって当然って風潮になってきているじゃない? 私は正直、それは望んでないの。私があなたに分かって欲しいのは、夫婦ってどっちが偉いとか、どっちが上とか下とか、そういう関係じゃないと思うんだ。お互いのことを尊重して、思いやって、そうやって絆を深めていく関係だと思うの。」
妻の言葉が、私の胸に沁みていく。
あぁ、私はこんなに良い妻を持っていたのだ、と。
「私は、家事をやっていることは『やってます!』って堂々と言うつもりは無いし、今後も家事についてあなたに要求することはない。でも、こんな家事があるんだ、こんなことをしてるんだ、主婦って思っているほど暇じゃないんだ、そういうことを分かって欲しいのよ。」
「あぁ……今回の話で、良く分かったよ。」
「そっか。じゃぁ……この話はこれで終わりにしましょ。」
私が反省していることを妻は汲み取ってくれたのか、立ち上がりピザを手に取った。
「生地、カリカリになっちゃうけど、少しだけ焼き直そうか。」
それは、楽しい晩酌を再開させようとする、妻の気遣いだった。
「はい、お待たせ。」
妻が温め直してくれたピザには、少し具が足されていた。
「一度冷えたピザの具って、固まっちゃってあまり美味しくないのよね~。だからかけちゃった。追いチーズ!」
それは、先日私が晩酌の供にと買っておいた、ラクレットチーズだった。
「こういう買い物はするのにねぇ。」
妻が、私をからかうように言う。
「ホント、面目次第もございません。」
今回の喧嘩で、自分のしていることがいかに単調で、独りよがりだったかを知った。
世間からは、『専業主婦なんて幸せね』『家にずっといるだけなんて羨ましいな』などと言われる主婦業も、実際は大量のタスクを伴う大仕事だったのだ。
しかも、賃金など出ない。
それでも、世の主婦たちは報酬を求めることなく家事をする。
「本当に……一番大変で報われない職業だよな、主婦って。」
思わず呟いた私の言葉に、妻の表情がほころんだ。
「それが分かってくれただけでも、今回の喧嘩は収穫アリね。」
「ねぇ、出来るだけ喧嘩をしないコツって、考えたことある?」
不意に妻が私に訊ねる。
そこには、私を責めようという気持ちは感じられず、ただ私にその秘訣を知っているかと言う興味からの問いだと感じられた。
「うーん……旦那が、奥さんを立てる?」
「それも大切なことだと思うんだけどね。」
チーズたっぷりのピザを頬張りながら、妻がニコニコ笑う。
「私はね、どれだけ『お互いのことを理解するか』だと思うの。仕事のこと、家のこと、お互いのしていることにもっと興味を持って、もっと理解することで、喧嘩の火種は消えていくんじゃないかなって、そう思うよ。」
「あぁ……そうだな。」
私も、そう思った。
私は妻のことを理解していなかった。
それどころか、理解しようとも思っていなかった。
だから、妻と喧嘩をしたのだろう。
どうして私のことを分かってくれないのか?
どうして私のやっていることに興味を持ってくれないのか?
……と。
「あなたも、仕事が大変。それは私も分かってる。だから私は出来るだけ家のことを完璧にこなして、気持ちいい家であなたの帰りを待とうと思ってる。」
妻の笑顔。
私の胸に熱いものが込み上げてきた。
こんなにも、家のことを、私のことを考えてくれていたとは。
私は、心から妻に感謝した。
「ねぇ、このチーズ……有り得ないくらい伸びるよ!」
妻がピザのチーズをわざと伸ばして遊ぶ。
もう、先ほどまで喧嘩をしていたことは気にしていないようだ。
妻の、こういうさっぱりしたところが、好きだ。
「俺も食べようかな……。おぉ、本当によく伸びる……。」
本当は、残業が長くなってしまった時に、妻も子も寝てしまった後にこっそりワインと一緒に楽しもうと思っていた、ラクレットチーズ。
これを買った時には、自分のことしか考えていなかった。
一人で晩酌の時に楽しもう、そう思っていた。
しかし、そんなチーズを妻が美味しそうに口にするのを見ると、自然と笑顔になってしまう。
少し前の私なら、『勝手に食べるな』と怒っていた。
これも、今回の喧嘩で妻のことをより知ろうとしたからなのだろうか。
そして……
「……あっちぃ!!」
「えー、また?」
伸びたチーズが再び手にくっついた。
妻は大笑いしながらも、冷たいおしぼりを私に渡してくれる。
「ほんと、可笑しいな!」
私もたまらず笑い出す。
これでいいのだ。
これまではお互いにきっと、心の余裕が無かったのだ。
だから、互いに悪いところばかりを見て、自分のことばかり話して、怒ったり失望したりしたのだろう。
これからの私は、いや、私たちはきっと違う。
些細なことを笑い話に出来るように、助け合って生きられるように……。
夫婦、互いのことをよく理解し合い、共に歩いていこうと思う。
「でも、このチーズ美味しいわね。」
「他にもいろんな種類のチーズを売ってたんだ。今度一緒に買いに行こう。」
ピザで喧嘩 桂木 京 @kyo_katsuragi
★で称える
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