蓮が咲いたら

春風蘭子

第1話「我ら新入生」

蓮が咲いたら

――一九四五年三月、太平洋戦争も終わりに近づいてきていたころ。この物語は、そんな時代の 千葉県千葉市のお話である。


「合格」……。

 震える手に支えられた合格証明書に書かれた二文字は、間違いなくその手の主であるおかっぱ頭の少女……金城サキかなしろさきの合格を告げていた。それも県内随一の女学校、蓮咲高等女学校はすさきこうとうじょがっこうに。憧れの学校に合格する。通常の少女であれば、それはもう何にも変え難い喜びを感じることだろう。サキもそんな中の一人であった。

「頑張ったわねサキ!蓮女に合格するなんてお母さん鼻が高いわ!」

隣に座る母親のトヨも、娘に負けないくらいの笑みを浮かべている。

「試験の後、ずっと自信がないって言っていたものだから……一時はどうなるかと思ったけど、これでひとまず安心ね!」

「これで春からも文ちゃんと通えるんだ!」

文ちゃん、もとい清崎文代きよさきふみよはサキの親友で、共に蓮咲高女を目指してきた仲でもある。とはいえ、文代の方は級長を何度か務めたくらいには優秀なため、サキ程の苦労はしていないのだが。

「ふふふ……そうね、あなたはそのために頑張ったようなものだからね……」

小さな頃からずっと一緒だった文代なしでの生活など、サキには考えられなかったのである。単純明快で彼女らしいといえばらしい志望理由であった。ふと、トヨが優しく声をかける。

「そうだ、合格のお祝いにできる限り白いご飯炊いてあげる。……これくらいしか出来ないけれど許して頂戴ね」

最後の言葉は消え入りそうなくらいに小さく、サキの耳には届かなかった……。が、白いご飯という言葉を彼女が聞き漏らすことは無い。

「ほんと⁉ やったぁ‼」

白米なんていつぶりかと丸っこい目を輝かせるサキ。そんな姿にトヨは嬉しさや寂しさの入り交じった複雑な気持ちを抱いて、困ったように微笑むのだった。

――一ケ月ほど後。桜もすっかり散って、新緑の輝く季節。お昼時の蓮咲高女一年二組の教室には、机に突っ伏すサキとそれを宥めるお下げの女学生、文代の姿があった。

四月の初めに簡素とはいえ、喜びに満ちた入学式を迎えたサキと文代。二人は憧れの裾に沿って白線の入ったスカート……ではなくモンペを下に履き、近所の人のお下がりとはいえ蓮女のセーラーに身を包み、意気揚々と新生活に期待を寄せていた。が、そこで待っていたのはペンを握る勉強の日々ではなく、鍬を握って校庭を耕す作業の日々であった。……実はサキにとってその辺は大した問題ではない。作業が多いのは非常時だから当然なのだ。問題は……

「またやらかしちゃった……」

「元気だして、また次頑張ればいいんだから。ね!」

「でもこれで何回目だろ……」

「私だって沢山失敗してるのよ、気にすることなんてないわ」

「全然してない!文ちゃん級長でしょ! それに文ちゃんが怒られてるところ見たことないよ!」

この日は散々な日だった。久々の授業に喜んだのもつかの間、指されてもうまく答えられず、裁縫では針を落っことしその出来も……と、あまりにも悪いことが起こりすぎていた。

しかし、これだけでへこたれるほど弱いサキでもない。ただ……こんな日が続きすぎているのだ。当然こういう子は目立つ。組では「まるでだめ」なんて噂されることもあった。文代も親友として慰めてこそいるが、最早どう慰めたらいいのか迷っているようにも見えた。

「ったく、今日は特に酷かったわ。級長は……特に金城さんに甘いのよ、もっとビシッと言わなくちゃ」

と、文代の隣で不満げにぼやいている糸瓜襟を着たおかっぱ頭は副級長の笹原峯子だ。級長副級長の仲として文代とはもちろん、文代と仲のいいサキともよく一緒にいてくれている。が、真面目な彼女からすると、サキのやらかしっぷりには我慢ならないところがあるようだ。

「まぁまぁ、私怒るの得意じゃないし……締めるばっかりじゃ良くないってこともあるのよ」

「級長……」

峯子は半分諦めたような表情で小さく息を吐いた。

「にしたって、なんとかやらかさないようにする方法を探さないとだめだよね……」

伏していた顔を上げてサキがそっと言った。

「サッちゃんは……そうやって慌てて失敗するんだから、ゆっくり見つけていけばいいのよ」

「そっか……そうだね!」

「級長また甘やかしてる!」

……そんなこんなで午後の農作業が始まり、やがて難無く終わりを迎えた。唯一の「まだマシ」な分野でさえヘマをする私ではない。そう言わんばかりに気合いを入れて取り組んだ甲斐があったと胸をなでおろし、いつもの歩行隊にて隊列を組み行進しつつ帰路に就くのだった……。


 そして夕飯時。芋ご飯やらその芋の蔦やらの食卓を囲む金城家では、サキの学校生活の話で持ち切りだった。

「それでね、どうしたら失敗しなくて済むかって話!」

「難しい事じゃねぇだろ、気にしなきゃいいんだ」

こう言うのは祖父の啓蔵けいぞう

「姉ちゃんはドジだからな! バカとドジは死ななきゃ治らないってよ!」

そう笑うのは上の弟のわたる。下の弟、末っ子のしげるはそうなの?と渉を見つめている。

「う……」

「コラ、お姉ちゃんになんてこと言うんです!」

母親のトヨが諌める。

「でも問題ね、なんとかしないと……」

トヨがため息をつくと同時に、突如けたたましいサイレンの音が鳴り響く。

「警報発令ー! 警報発令ー!」

外からは警報を知らせる声がする。

「け、警報!」

「ちぇっ、ご飯時なのに……!」

「お前たち、いいから早く逃げるぞ!」

啓蔵を先頭に、一家は庭の狭い防空壕へと逃げ込む。サキは嫌いなサイレンがなるべく聞こえないように、防空頭巾の紐をきつく絞めた。重苦しい空気の中、トヨが口を開く。

「あの……お義父さん、提案があるのですが」

「なんだ」

「こうも警報が多いと千葉も何時やられるか。東京もあんなに焼かれて……噂では名古屋や大阪もやられているそうですし……」

三月十日のあの日、東京へ向かう飛行機がトヨたちの頭の上を飛んでいき、東京の空が赤く染まったのが千葉からもよく見えたことをトヨは覚えていた。

「疎開を……そろそろ考えた方がいいのかもしれません。私の実家ならまだなんとかなるんじゃないかと……渉と茂だけでも……」

「やだ! 母ちゃんと別れたくない!」

泣きそうな声を上げたのは茂だ。

「……茂! あんまり母ちゃん困らすなよ!」

続けて渉が叱責を浴びせた。

「そうだなトヨ……。茂、お前の気持ちは分かるが……千葉だっていつ何があってもおかしくないんだよ……。」

啓蔵は優しく茂にこう言い、頭を撫でてやる。

「そうだぞ茂、あの寂しがりのお父ちゃんだってお国のために出征してったんだ、俺達だって頑張るんだよ!」

再び渉が茂に向かって言ったが、その口調はどこか自分に言い聞かせているようにも見えた。


「警報解除〜」

解除の合図とともに日常へと戻る。だが一家、特に茂と渉の二人は疎開の話が頭から離れず、暗い気持ちを引きずっていた。一家は無言で食事の続きをしていたが、サキが沈黙を破った。

「や、やっぱりお爺ちゃんの言う通りかなー、ヘマしなくて済むようにするの」

「まだそれ考えてたのか? どうしてこうなのかなぁ……うちの姉ちゃんは」

学校の話以上に深刻な会話をしていたことを知っていながらのサキのこの発言。弟の渉にも呆れられていたが、サキは気にもとめない。

「ええと……ほら、楽しいこと考えた方が気分も楽になるよ。女学校で上手くいって人気者、なんて」

あくまでもサキなりの励ましのつもりだったらしい。効果はともかくとして。

「女学校のこと考えたって楽しくねぇやい!」

一家を束の間の笑いが覆った。

 翌日。晴れ空の下また畑仕事だ。昨晩も結局失敗をなくす良い方法は見つからなかった。ここ 最近の考え事はもっぱらそれだった上、毎回見つからないのでもう慣れっこではあったが。人間 何事にも慣れるものだ。半ばやけくそ、と言った感じで鍬を振り下ろし続ける。

「あら、今日は校長先生がいらしているのね」

隣で作業をしていた文代が何気なくこう発した。どうやら蓮咲高女の校長が作業を見に来たようだ。

「ここでしくじったら我が一年二組の恥になるわよっ」

文代のさらに隣にいた峯子がサキの方をキッと睨み釘を刺す。文代は若干困り顔である。

「わかってる……」

言われなくたってそれくらい理解できる。サキはなるべく彼が早く帰ってくれることを祈り、作業に専念することにした。なるべく目立たないようにひたすら手を動かす。が、やはり校長のいる 方向が気がかりで仕方なかった。そのせいで……何度かきちんと耕せていないと級長組に小声で 注意を受けた。

 その暫く後。校庭の畑には、何故か女学生たちと共に作業に取り組む校長の姿が。

「いやぁ、見てるだけというのも忍びなくてね。少しの間だけになるけど参加させて欲しいんだ」

「そう……ですか」

こう言って二組担任の片倉ヤエを説得し、鍬を持って混じったのである。

「精が出るね」

「頑張ってくれてありがとう」

労いの言葉をかけつつひたすらに手を動かす姿に、女学生達の間にはよく分からない緊張が走っていた。しかし同時に、偉いから、と言って威張らない校長に感銘を受けてもいたのだった。

そんな中、サキはといえば頼むから私が何かやらかす前に帰ってくれ、と目の前にやってきた校長の背中を眺めつつ作業をし続けている。

「級長、じゃ今からここに肥かけるわね」

サキたち三人……いや校長含めて4人の前に一人、いつの間に文代に呼ばれたのか肥桶つきの天秤棒を担いだ女学生がやってきた。

「淑子ちゃん、お願い」

淑子は天秤棒を床に置き、柄杓を取り出すと慣れた様子で肥を撒く。

「そこ、どいて」

彼女はサキのいる辺りが少々気になったようで、そう促した。

「わかった。あ……あっ…! わっ!」

次の瞬間……地面をよく見ていなかったためか、ぬかるんだ地面に足を取られて思い切り滑り、前のめりに倒れてしまったのだ。それだけならまだ良かったのだが……

「嘘…… 」

「サッちゃん…… 」

校長も巻き込んでしまったから大変である。サキに突き飛ばされた彼は盛大に転び、土の中に倒れてしまった。片倉が血相を変えて走ってくる。文代たちは呆然とした様子で目の前の惨事を眺めていた。

「先生‼ 校長先生! まぁ…… なんてこと‼」

片倉の悲鳴にその場にいた女学生の視線が一斉にサキに集まる。片倉の慌てようも凄い。サキは尻餠をついた体勢のまま、スーッと血の気が引いていくのを感じた。頭は真っ白になり目の前は真っ暗になる。もうだめだ、私の女学校生活は終わりだ…… 。心の底からそう思った。

「お、お怪我はございませんか⁉」

「ははは…… 片倉先生、大丈夫だよ。大丈夫だから」

慌てふためく片倉に校長は笑って声をかける。片倉はホッとしたように一息つくと、サキの方を まさに鬼のような形相で睨んだ。

「またあなたなのね……! 何度も懲りずにドジばっかりして! 今日は校長先生にまでご迷惑を! 第一あなたは…… 」

すさまじい勢いで怒声が降りかかってくる。さすがのサキも片倉のあまりの剣幕に固まってしまった。

「まぁまぁ、先生落ち着いて…… 」

見かねた校長が間に割って入る。

「あ、あ…… ごめんなさい、私また失敗してこんなことに…… 」

「金城さん。失敗することは別に悪いことではないんだ。それに私の服も……こんな汚れくらい気にしないよ。大事なのは失敗を次に生かすことさ。原因を考えて、そこから対策を考えるんだ。 今回の原因も考えてごらん」

何を怒鳴られるのかと身構えたが、思ったよりずっと優しく諭されサキは逆に驚いた。

「ええと、足元の不注意です…… 」

「そうだね、じゃあ今度はどうしたらいいのかな」

「なるべく…… ぬかるんだところは通りません?」

「そう、それでいいんだ。他の失敗も一つ一つ考えるといいよ」

「ありがとう…… ございます。あの、そんなに簡単でいいんですか…… ?」

恐る恐る尋ねてみる。

「そうだよ。解決法っていうのは身近なところに転がっているものだからね」

サキはなぜこんなことが思いつかなかったのか!と衝撃を受けるのと同時に、彼に対して帰って欲しいだのなんだのと思っていた自分を恥じた。

「じゃあ、続きをしようか。片倉先生もあんまりがみがみ、それも皆の見ている前で叱っちゃいかんよ」

「はい……申し訳ありません、 私としたことがつい…… 」

片倉は申し訳なさそうに頭を下げる。そうしてまた、作業が開始されたのだった。サキは悩み事が思いもよらない形で解消され、今日の晴天のように晴れやかな気分であった。


後日。いつもの教室で、先日の事件について談笑しているサキ達三人がいる。

「あの時ああ言われてなかったら…… 今頃もきっとたくさん失敗してたと思うな」

そうサキは微笑んだ。文代もこう続ける。

「そうねえ。サッちゃんの悪い噂もなくなったし本当に良かった!」

「まぁ、あんまり浮かれちゃダメよ。勝って兜の緒を締めよとも言うし…… 」

峯子は嬉しそうなサキを諭すように言った。

「はいはい、わかってるよ。副級長さん」

「まったくもう!」

口でこそ怒っていたが、峯子の顔は笑っていた。

サキは第一の関門…… を乗り越え、また新たな一歩を歩んでゆく。


――夕暮れの昇降口。下駄箱だけが並んだ静かな暗がりに、一人の少女が現れた。サキたちより少し背の高い彼女は上級生だろうか。周りをきょろきょろと確認しつつ一年生の下駄箱の前にやってくると、そのうちの一つに何か手紙のようなものを入れる。そして、音がしないようそっと扉を閉めた。

「読んでくれると……いいんだけど」

そんな彼女のつぶやきは誰の耳にも届くことなく、彼女自身とともに暗闇へと溶けていった。

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