第5話 船旅

 日差しはまぶしくて鋭くて、針の雨を降らせてくれているようだった。視界を覆う輝きは周囲をも熱してしまう。秋男は耐えきれなかったのかエアコンをつけてやり過ごす、そんな日々を過ごしたものでいつの日か暑さを憎むようになっていた。電気代の高騰から様々な作物の不作までありとあらゆる出来事を恨みつつ過ごしてきた数か月だった。

 その間に船に乗って旅をしようといった提案を示してみたものの、結局実際の旅は冬のものとなってしまった。

 寒い季節に寒い思いをするのはどうなのだろうと首を傾げたものの、妻の小春が二人の旅に対して明るい感情を見せていたため秋男はただ彼女の思いのままに動いて冬に船に乗るという予定を取り付けたものだった。

 一か月の出張という予想外のことや帰ってからの事、様々な疲れを溜めながら睡眠時間を増やして経験をいくつも重ねた日々を見返しては秋男の中に生まれ落ちた満足感を抱いて微笑んだ。人の思考や気分に奥行きや様々な角度の傾斜をもたらしてくれたあの日々に感謝を込めながらも腰を折るような真似はせずにただ待っていた。

 ついに訪れた二人の旅行の日。小春は船に乗れることが余程嬉しいようでいつもに増して明るい笑顔を浮かべながら必死に化粧を用いて顔を整えていた。

「元々カワイイのにもっとカワイくなる気か」

 秋男の好意的な言葉に頬を赤くしてしまうものの、そんな色の変わりなど化粧の裏側に隠されてしまって見えない。

 これからバスや電車を利用して目的地へと向かう。二人だけの旅行はあまりにも大勢の人々に見送られているような気分で全身に恥じらいの熱が灯されていた。

 いつもなら訪れることもない都会の顔、昔は頻繁に訪れていたそこは知っているはずなのに知らない街へと変わり果ててしまっていた。何もかも覚えているはずなのに覚えていないような、既に忘れてしまっているような、そんな錯覚に陥ってしまう。

「随分と年食った気分なんだ」

 秋男が挟み込んだ言葉を見つめて小春はクスクスと笑っていた。

「そんなまだ二十代の真ん中なのに」

 そう言われればそう。などと返しながら無事に港にたどり着いたことを確認してカフェに向かう。

 軽い食事と紅茶をいただいて船の時間がやってくるのを確認してチケットを取り出し見つめる。

 それから港の中、乗船の手続きを行うスタッフにチケットを見せることで乗ることを許されようやく旅は幕を開けた。

 船は留まっているはず、それでも大きな揺れを巻き起こしてしまう。まるで遊園地のアトラクションのような動きを描く船に目を当てながら小春は一度苦い笑みを浮かべる。

「酔ったら言ってくれ」

「ありがと」

 その一言がどれほどの救いになりえるものか分からなかったものの、秋男の言葉に一度大きく頷いて返した感謝の言葉、少し力の抜けた声で告げる言葉はあまりにも柔らかだった。

 そんな揺れの中、揺れる手を見た。まるで手招きしているような動きを描いて存在を示している。

 しかし見えていないふりをすれば何事もなかったかのように闇の中に消え去っていった。

 船幽霊だろうか。しかしながら船幽霊ならば持っていて当然のはずの柄杓の姿が見当たらなかった。幽霊船だろうか。

 改めてあたりを見渡すものの幽霊の姿など見当たらず、気のせいという結論をつける他なかった。

 そうして不安を心の隅にこびりつかせながら少しずつ大きくしてしまう。いつどこに行っても出会うといっても過言ではない彼らはいつ休んでくれるものだろう。ため息を一度ついて小春の目を覗く。彼女もまた何かをつかんでいたようで秋男からの視線を受けて不自然な笑みを浮かべてしまう。

「見えてたんだな」

 乾いた笑い声は間違いなく見たのだと語っていた。



 それから船は動き始めて揺れは更に大きくなる。しかしながら小春が先程よりも元気な色をしているように見えるのは慣れなのか船が留まっているときの揺れのほうが苦手だからだろうか。

 船室に荷物を置いてカギを掛け、甲板に出て二人手を繋ぐ。辺りに広がるのは暗闇と群れる星々。一つの星が大きく輝くさまを見て、小春に贈る婚約指輪にしたい、そんな衝動が顔を出す。

「これから一晩かけて旅行に向かうんだね」

「だな」

 県外へと踏み入った事などいつ以来の話だろうか。二人揃ってそれ程までに出たことのない身。

 そんな身が潮風の寒気を手に入れて、船内へと身を戻す。夕飯と入浴を済ませた後、残すは眠り時間を潰すのみとなっていた。

 船室の中に忍び寄ってきた白い影、手のような形を持ったそれがくっきりとした曲がり方を見せる。手招きのようなそれは理解した途端、秋男の体を突き動かす。

 手の幽霊について行って薄暗い廊下を歩いていると見覚えのある光景を目にした。

 そこは浴槽。しっかりと湯の張られたそれは湯気を漂わせて誘惑してくる。

 一歩踏み出して、ゆけむり、くもり、そんな人工的に作られたお湯の世界へと足を踏み入れようとしたその時、秋男の手をつかむものがいた。

「アキ、どこ行ってるの」

 愛する声が響いた途端、改めて目を向けるとそこにはお湯が空っぽの浴槽があるだけ。

「戻ろう」

 大きく息を吸い、秋男は振り返る。

 船と動きの二つが重なり揺れる視界、その外側へと向かっていく浴槽の中に納まる人の影が見えた気がした。

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