第4話 雨女
秋男はいつもと同じ道を歩き続ける。先週までは出張に行っていた身、毎日体を動かし溜まった疲れ、途中からビジネスホテルに泊まっていたとはいえ疲れが完全に取れるわけではなく、最後の一週間の労働を経て得た感情はあまり記憶の中に残っていなかった。
いくつかの支社があり、規模だけが立派な会社。実際に働いてみて分かる事、給料は人の生存を許す程度の金額に抑えられており、小春を養うことすら出来ない。
「情けねえ、結婚なんかして大丈夫だったのか」
独り言が零れ、夏を迎えようとしている大地を陽光とはかけ離れた温度で焦がして行く。
倉庫の群集へと足を踏み入れ、大きな建物の中へと向かう。詰め所のドアを開き、目の前に立っている男の姿を見つめて一度お辞儀をする。
「おはようございます」
「秋男、二日間くらい大変だったな」
男が眩しい笑顔を見せながらアルコールチェックを済ませて缶コーヒーを手渡す。
「想像してた通りっす」
ロッカールームに入り、即座に着替えて携帯電話の電源を切り、荷物を放り込むように入れてただ閉じる。
ベンチに腰掛け缶コーヒーのタブを起こしながら帰って来てからの二日間の会話の群れの姿を思い返す。
職場にたどり着いてすぐさま放り込まれた質問は出張先の設備の格から。続いて扱い易さに雰囲気。
着替えてから休む暇すら与えずに飛び込んで来る言葉の数々に疲れの残った身体を仰け反らせながらもどうにか答えていたあの日々。近くても遠くへと追いやるべき記憶。何もかもを忘れ去ってしまいたいという衝動に駆られていた。
「あんな事もあったんだよな」
秋男の中では質問そのものよりも疲れた身で受け止め回答をひねり出すことの方が苦しかった。いつもよりも苦いだろうか。表情を見て秋男よりも十程年上の女は眉に力を込めて皺を作っていた。
「これも経験の内、新人が入ってきたらいつもがこの繰り返し」
そう言って秋男が入って来た時にも苦労したのだと冷たい声と視線を向けながら続けた後に会話を閉じた女。しかしながら他の人は会話を終わりにするつもりが無いらしく、結局は一日中質問の土砂降りが続いているという状態だった。
女は額を押さえ俯き気味にゆっくりと首を左右に振っていた。
そんな二日間が過ぎ去ったのちの話。若い男たちの間で話題の洋物のホラー映画の話が明るみを作り上げていた。今時の映画の中では飛び抜けて恐ろしく、直視していられない程の出来なのだという評判は時々耳にしていた。
「実際心霊現象に遭ったらあのくらい怖いんだろうな」
そんな一言に対して首を縦に振る事など出来なかった。あの作品は下手な怪奇現象よりもよほど恐ろしいもの。現実はもっと淡々としていた。生きるにあたって残した未練や想い、それは恐ろしいだけではない。かつてこの世界に生きていた人々の届かぬ叫びは異なる意味で目も当てられない重みがあった。
彼らの話に対する姿勢が目についてしまったものだろうか、冷たい態度でやり取りを締めたあの女が秋男に歩み寄る。
「あの人たちの会話に加わらないの」
浮いているように見えてしまっただろうか。秋男は口を開くことなく口角を上げる。
「そうね、苦手な人は苦手だものね」
気に掛けてはくれているのだろうか、そこから繋げられた言葉によって話題は塗り替えられる。
「この前はごめんなさい」
「気にしなくていいですよ」
「あんなに質問攻めする人がいたからあれで終わりにしようと思って」
現実はそうはいかなかった。きっとあの方法で伝わる人物など限られている事だろう。
女はホラー映画を語る集団を横目に相談を持ち掛けた。
「実は周り未婚男性ばっかりだから既婚者のあなたに相談」
この女は既に子を育てている、つまるところほぼ全ての経験が秋男の先輩。そんな彼女が眉を顰めながら持ち掛けて来る事の想像が付かない。余程重々しい話なのだろうか。
「最近私雨女になってね」
気があると思われたくないだけ、ただそれだけの事だったようだ。
「休日お出かけしようと思ったらすぐに雨が降るの」
確率の問題と言いたいところだが、狙ったかのように降って来るのはあまりにも現実離れしていた。
「あの男たちは頼れないな」
ただのホラー愛好者の集い、怪奇現象に対して恐ろしいか否かの基準しか持ち合わせていない彼らに任せるのは心許ない。
「調査の為に家まで上がっていいですか、俺霊感あるんで」
冬子や春斗と比べて頼りない感覚だったものの、無いよりは余程良い。少なくともこの状況では。
「ええ、ありがとう」
仕事は幕を開け、そして幕が下りるまで忙しさは続いて行く。あまりにも疲れた身体で、認知の曖昧な頭でしっかりと霊を見つめることが出来るかどうか、心配になっていた。
これから始まるのはただの調査、具体的な対策を見つけるための下準備。自らの手で現象に立ち向かうには然るべきところで様々な作法や道具の扱いに時代による人々の思考の変化の流れや宗教観を学んでいなければならない。
あくまでも対策は取らない。心霊関係の深部に入るのは退魔師の仕事だった。
世間は冬を迎えようとしていた。乾き始めた空気は風にかき混ぜられて季節が織り成す独特の色をしていた。
壁に挟まれるように狭く感じられる道を通る。車の往来がある以上この場所において人の通り道は狭く白い境界線の内側。自転車が通りすぎるとともにかつて住んでいた地区にと辞意込められた噂話を思い出していた。自転車に乗った人物を転倒させる者。あの噂は本当だったのだろうか。遭遇できなかったことを惜しみながら道を進む。壁に一つの奥行きがあり違和感を抱かせる。そこに収まる古ぼけた石碑と供えられたカップ酒の瓶。
そこから漂う気配の動きを見逃さなかった。
やがて女が住居としている家にたどり着いた。
ドアを開くと共に出迎えるのは元気にはしゃぐ小さな女の子。
「おかえりなさい、お母さんと」
言葉を詰まらせて見つめる女の子に向けて緩やかな笑顔を向けて深く腰を折る。女はさわやかな笑顔を見せて告げた。
「この人は会社の後輩の秋男さん」
「よろしく、秋男おじさん」
おじさんと呼ばれてしまうような状況。今という場を想像したことなど一度たりともなかった秋男は引き攣っていながら妙に力の抜けた笑顔を向ける。崩れた顔は女の子にどのような印象を与えてしまうものだろうか。
「変な顔」
明るい笑い声はよく響き、秋男に伝わっていく。小春が子を授かった時には世話になるかもしれない明るみに癒されながら靴を脱ぎ、上がっていく。
「何か気配とかないかな」
「ありませんね」
しばらくの間沈黙と集中の世界に浸り探ってみたものの、目につく場所もなければ心に来る場所も見当たらない。
ただの偶然なのだろうか。
「明日の休みにはちゃんと出かけたいの」
女が挟み込む言葉はあまりにも棘が多くて心苦しい。秋男の肺腑を抉り、責任感の重みの主張に押し潰されてしまいそう。
今までの気持ちをしっかりと拭ってあたりを見回す。もしかすると怪奇現象が出てくるにはちょっとした条件があるかもしれない。
そうした細かなことを気にかけながら探り続けて数分後、女は夕飯を、女の子はわくわくと表現すればいいだろうか、沸き立つ想いを抑えられないままてるてる坊主を作り始めていた。
「あしたてんきになあれ」
そう告げてティッシュペーパーを丸めてもう一枚のティッシュを被せて輪ゴムで留める。
そんな微笑ましい光景を見つめながら秋男は折り紙を添えたくなってしまう。大きな雫に薄桃色の傘と色とりどりのアジサイにカタツムリ。季節が反対の梅雨入りセット。
女の子の想いに反する行いの欲は意地の悪さを示す。そんな想いは沈黙の中へと仕舞い込み、まっすぐ見つめる。
女の子の作るてるてる坊主には薄っすらと影が射し込んでいた。ベランダの方へと目を向け窓の透明感とカーテンの緩やかなヴェールを見つめながらてるてる坊主への影の射し込み方と比べてみた途端、ティッシュペーパーの体にかかる影が後ろ向きなオーラに見えてしまう。
「まさかな」
それから女の子はてるてる坊主をカーテンレールに吊るしながら丸々とした笑顔で元気な声を流しだす。
「あしたははれますように。はれなきゃくびをきっちゃうぞ」
途端にてるてる坊主が震え上がったように見えた。影が揺らぎ、纏わりつくカーテンを弾く。心なしか悲しみを持っているように見えるてるてる坊主。
その姿を見つめて秋男は直感した。きっと晴れを呼ぶ力を持っていないのだと。女の子は晴れを望む以上に首を切ることを楽しみにしているのだと。そんな歪な祈りに任せて作られたてるてる坊主は即席の呪術に過ぎない。
あまりにも無邪気な呪いは止めることも叶わずただそこに在り続ける。娘の声と共に黒々とした気配を濃く強く塗りつけられる母の姿がおぞましくも哀れに思えてしまう。
やがて夕飯が出来上がる直前という時間、秋男はどのような説明を放り込むべきか悩んでいた。分からないという一言で片付けるのは酷だろうか。
特に何も思いつくことなく時間が迫る。女が夕飯を準備したところで秋男は首を傾げながらてるてる坊主を指した。
「こちらあの石碑の雨の恵みが備わってますね」
首切りの血の涙の有り様に頭を下げ噛み締めつつ言葉を見せて身を外へと向かわせることとした。
「後日、霊能者の類いの人物をお呼びいたしますので」
それから女の子に手を振りそのまま家に背を向け歩き出す。
一人きり、壁に囲まれた狭い道路を歩きながら一息ついて見渡す。違和感のある凹みの中に佇む石碑が先ほどよりも薄汚れて見えた。
「信じ切ったな」
誤魔化しの一言は完全に通用してしまったようで、新しい信仰とささやかな呪いが芽生えていた。
「季節外れの梅雨が来る」
見上げた空は秋の終わりの乾いた晴れ空。夕暮れすら否定して薄暗くなった夕方もあと十分に満たない時間で暗闇模様の星空アートを描き始めることだろう。
どうか秋男と小春の子が生まれる頃にはあの女の子も心の薄雲を取り払っていますように、そんな祈りを込めながら夜道の訪れの中に身を潜めた。
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