第3話 一日中
携帯電話に送られてきたメールを確認し、春斗は嫌悪の感情に塗れていた。
あの日、妹の小春は都合よく助けを求めて来た。春斗は友だちの秋男と冬子に知らせつつも嫌われているという事実に身を揺らしながら春斗は新しい人生の道を、安い賃金で行動を買い叩かれる運命に辛うじてしがみついているところだった。
後日、小春は謝って来たものの、数年間の憎悪の渦が簡単に緩んで行くはずもなく、言葉の上だけでの薄っぺらな許しを与えた。恨みを抱き続けて己の首を絞め続けるよりも締め付けて来る感情を忘れ去ってほどく方が余程いい、ただそれだけの事。
そんな中、春斗の脳裏にふと浮かんだ疑問に寄り添って苦しみと向き合う。小春といつ仲を悪くしてしまったものか、きっかけは何処に落ちているのだろうか。恐らくこの辺りだと推測した地点の追憶を開き、手を突っ込み探り始めた。
小春の笑顔はあまりにも幼くて涼しさを運び込む。夏の暑さは今より緩やかだっただろうか。電車に揺られていつも通りのあの場所へと向かう。小春が毎月一度、足を運ぶ動物園。人の波をくぐり抜けながら終点の一つ前の駅で降りる。春斗の中では終点の都会も気になっていたものの、その好奇心は未来に取っておこうという必要性が感じられない決心が渦巻いていた。
今日は小春が好きなように生きて行ける日。金銭や時間、家族の意見による不自由を知っているからこそ道を譲る感覚で春斗自身の興味は全て投げ捨てていた。いつの日か好きなように生きて行ける日が来るのだと信じて。
終点からバスに乗り、動物園の近くで降りる。それから入園。この辺では数少ない大きな動物園に二人共に毎度目を輝かせていた。
ゾウは長い鼻を器用に操り草木を貪りキリンは首を伸ばして葉を齧る。猿は愉快な叫びを上げながら果物を食べる。そんな様子に一切目をやる事もなくカピバラはゆったり眠りながら時たま歩き回る。
そんな個性豊かな彼らを見つめながら目に込められた力を抜く小春は平常の顔とは異なるようで、美しく感じられてしまう。
次に向かう場所として、一つの建物へと向かう。常に開きっぱなしの入り口から入ってすぐさま視界に入り込むガラスの壁。迎えと言わんばかりの堂々たる姿に目を奪われる。
そこには多種多様な小動物たちが納められ、細くありながらもしっかりと動物の住処として機能する木の幹は小さく柔らかな彼らの可愛らしさをしっかりと引き立てていた。
ガラスの姿によって控えめになった日差しがどこまでも優しく心地よい。レッサーパンダの子どもやネズミの一種が最大の癒しとなっていた。
このコーナーの中でも特に小春の目を惹く光景がウサギなのだという。
「ほら、カワイイ」
ふわふわと広がるように生えた毛が玉のような姿を形作る。長い耳はどのような進化を遂げた結果なのだろう。春斗の脳には専門的な知識など何一つ書き込まれていなかった。
「黒いのが特にいいね」
小春が告げる黒いウサギに目を向けて春斗はその目をそのまま背けてしまいそうになってしまう。
ガラスの壁の向こうにいる黒いウサギは決して綺麗な黒ではなかった。元々の色とは釣り合わない色、形と日の入り方からしてかかるはずの無い不気味な影がかかっているのだ。不吉な気配に充ちたウサギたちを好む小春を見る度に春斗の顔が引き攣って行く。
ただそれだけでは終わらなかった。
恐らく飼育委員だろう。清掃用具を持った男が入って来たその瞬間、春斗は全てを悟った。
「いっぱいウサギがいるよ」
そう、確かに沢山のウサギが男には纏わりついていた。恨めしそうな気配を漂わせた薄暗いウサギたちが男を責めるように。
彼のウサギを見る顔、そこに浮かぶものは大袈裟な笑顔。あまりにも形が表れた笑顔だったがその色はどことなく薄暗い。
そんな男の表情から、春斗は嫌悪感を読まずにはいられずいても立っていられずその場を立ち去った。
そんな出来事が終わった、動物園から抜け出した後、春斗は思い出していた。ウサギの霊の表情を。
あのウサギたちは果たして男の手によってどのような目を見た事だろう。
電車に揺られながら、小春の笑顔を崩してしまわないようにそっと仕舞い込み、前を見つめる。
やがて最寄り駅に着いた時には太陽が傾いていた。太陽が顔を覗かせているにもかかわらず暗い空を見つめ、今の春斗が小春に向ける感情を眺める。きっとこれからも暗いままなのだろう。
「聞いてないね」
小春の声が届き、顔は揺れ動く。
「今から祭りだって」
近所の公園だろう。花火大会があるという噂を耳にしていたあの日はいつの事だったか。
忘れ去ってしまった過去の話。
今日がその日だと知って大きく頷いてそのまま大きな公園へと向かう。
公園は轟音で覆われていた。人々がかき鳴らす歓声と花火の爆発音。それらがどれ程人々に絶賛されようとも春斗は素直に楽しむことは出来ない。こういった様々な音や物が入り乱れる夜の世界には必ずと言っていい程居座るあの存在が気がかりで仕方がなかった。
小春がりんご飴やチョコバナナを手にする一方で春斗は二人で分け合える焼きそばやたこ焼きを買っていた。
ラムネを飲み干す小春の姿を見つめて微笑みながら花火が打ち破り続けていた静寂を、人々が震わせ続けていた空気を身体の芯まで味わい尽くして。春斗は祭りの終わりが心臓の鼓動と共に波打っている内に、黒々とした空気の中に混ざる濁りから目を背けて小春を連れて帰ろうとした、その時である。
「幽霊だよ」
小春が伸ばした指を追う。右側、その先にはなにも見当たらなかった。
「気のせいだと良いけど」
そう呟きながら二人並んで公園を抜けた。
春斗は黙ったまま小春との認識の差を想い、俯いた。
春斗が感じた濁り、幽霊の気配は公園を抜けても尚、二人を背後から見守るように、隙を見つけるように湿った視線を向けながらついて来ているのだから。
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