第27話 事故物件

 大学の後期の講義は終わり、結果は待つまでもなく留年だと分かり切っていた。故に春斗はこの休みが終わらない内に退学届けを出して実家に帰る事となった。大して金を持っていない両親が出してくれた学費、必死で貯めてきた大金を無駄にしてしまったのだ。

 元々私物の少なかったアパートの一室で、持って帰る物と処分するものに分けて予定通りに対処していく。辿った過程の中で思ったそれは春斗の人生の質であり本音。自身の経験の浅さに肩を落としながら殆どの物を捨ててしまう。

 あまりにも空虚で薄弱な部屋は春斗の姿を映す最後の灯りのようで、見つめることすら恥に思えてすぐさま背を向けた。

 実家に帰ってから行なった事は、そう訊ねられて出て来る答えは就職活動からのどうにかありついた仕事で命を繋ぐ気分を得ていただけ。

 その一方で妹の小春は大学に入学したが為に一人暮らしを始めると言って引っ越しの準備をしていた。春斗は小春の一人暮らしの準備について知ってはいたものの、特に手伝う事もなければ祝いを贈る事もない。触れずにいなくなるのを待つだけの事だった。

 小春がいなくなるまでの間は出来る限り仕事が終わっても家に帰らないようにただ景色を眺めていた。きっと小春の方も春斗の顔など見たくもない事だろう。

 これから春を迎えようとしている空の色は柔らかさを帯びているだろうか。公園の池は見るからに冷たそうなままで、しかしながら景色の映りにちょっとした愛想を見ることが出来た。道端に寝転がってあくびをしているネコはいつ見ても可愛らしくどこまでも自由気まま。毛繕いの為に腕を伸ばして顔を必死に動かす姿までもが人の心を惹き付けてしまうのはどうしてだろう。

 こうしていつも同じ場所で同じはずの異なる景色を眺めて。時の移り変わりを見つめ続けていた春斗は四月の半ば頃、小春もいなくなり、それでも尚続く習慣の中で携帯電話の震えを認めて取り出す。

 一件の着信が入っている事に気が付いた。秋男や冬子がたまに連絡をしてくれるため今回もそうだと思って開いたところ、小春からの着信であることを確認し、顔を強張らせながらメールを確認した。


 住み始めたアパートに霊が出るの、助けて


 どうやら事故物件を引き当ててしまっていたようだ。普段の春斗に対する態度や口調とはかけ離れた文面よりも事故物件の存在の方に驚いていた。秋男や冬子と会う機会が減ってもなお、心霊の存在は付き纏って来るものだろうか。大きなため息をつきながら春斗は例の二人に相談のメールを送る事にした。



  ☆



 青い空はどこまでも澄んでいてしかしながらしっかりとした自分なりの色を持っていて、心に染み入る優しさと強さを持ち合わせた姿は絵画の主役のよう。

 冬子は助手席に秋男を乗せて車を運転していた。秋男と共に移動する時にはよくある事だったものの、完全に都合のいい交通機関と化していた。今回は理由が理由だっただけに目くじらを立てることも無く純粋な疑問を訊ねる。

「春斗がいないのは普通なのか」

 今回の件は春斗の妹からの依頼であるはずが、今の搭乗者の二人と親しいはずの春斗がいないのはあまりにも不自然。そんな言葉を聞きながら秋男は笑っていた。

「小春ちゃんはクソ兄貴が理由もなく大嫌いみたいだからな」

 大きなショッピングモールが後ろへと流れ、過去の像と成り果てる。アスファルトの道路の端辺りに一定の間隔で植えられた木々は行儀よく並べられ、道路の見えない壁を成して支える柱のよう。

 木々の右側には線路と踏切が伸びていて、ベビーカーを押す女性の姿が映る。杖を着いた老人や若々しいカップルに太った中年の男の姿まで多種多様の人々が見受けられて住みやすい街なのだといった印象を受けた。

 特に変わった事も物もない道路を通り過ぎて行き、やがてアパートが建ち並ぶ狭い道路が見えてきた。そこから次に訪れる角を曲がって三件先、そこに建つ小さく小綺麗なアパートの一室こそが小春が借りた物件なのだという。

 車を降りたふたりは携帯電話のメールに示されている部屋へと向かう。あまりにも静か過ぎて足音が驚くほどに響いて来る。場所そのものが死んでいるように思えた。

 隅が微かに黒ずんでいる階段を上り始める。端の方は薄汚れているものの、素材の破片や風や人の動きによって運ばれて来ているはずの草木や埃が見当たらないところ、綺麗に手入れされていることが分かる。

 そこから少しだけ歩き、小春がいるという部屋の呼び鈴を鳴らした。しばらく流れた静寂の後、ドアは優しい音を立てながら少しだけ開き、眉をひそめた女が顔を覗かせていた。弱り果てた顔は本来の輝きを失っていたものの、恐らくは少女のようなあどけなさを持った顔立ちをしていることだろう。春斗のある種の情けない顔立ちを思い返しては二人揃って勝手に納得していた。

 秋男は可愛らしい少女のお出迎えに歓喜していた。

「どうも、あなたたちが秋男さんと冬子さんよね、私は小春。春斗の妹です」

「うっす、俺秋男。宜しくな」

「私は冬子、春斗とはよく遊びに行ってた。よろしく」

 小春は二人を部屋へと迎え入れてすぐ様ドアを閉じた。何かに怯えながら生きているような様子で自宅の中で座り込み膝を抱え込む姿の見苦しさに冬子はつい目を逸らしてしまう。

「ここさ、事故物件なの。幽霊が出るから怖くて」

 春斗に教えてもらった通り、小春は深刻な悩みを抱いていたようだった。

「もしかしたら二人なら解決出来たりしないかな」

 秋男は即座に声を張り上げ提案を出す。

「じゃ、まずは盛り塩と行こうぜ」

 周りへの迷惑など知らないと言わんばかりの声量に呆れつつも内容をしっかりとつかみ取っては首を横に振る冬子。相変わらずの目付きの悪さと下に刻まれるように滲む濃いくまとそれらの色味を際立たせる白い肌は可愛さの欠片も感じさせない。

「やめろ、詳しくもないのにそんな事。逆に閉じ込める事になるかも知れない」

 蠱毒の件以来、ここにいない春斗含めて三人とも心霊現象に対して取れる対策に限界を感じていた。所詮は素人に過ぎないのだという事。それを分かっていてもなお、秋男は舌打ちをして乱暴な声で言の葉を散らす。

「じゃあどうするってんだ」

「取り敢えず泊まってみる事には分からないな」

 そうして男一人女二人という正気の沙汰とは思えないお泊まり会が決定した。この中で笑顔を輝かせるのは秋男ただ一人だという事。秋男はその事実を見て見ぬふりという対応で済ませて己の空気感を保った。



  ☆



 昼夜問わず不自然な程に静かなアパート。あまりの静けさにアパートそのものが死んだ一つの町を連想してしまう。死した町で眠る事は死へと近付くような気がして、知らずの内に引き込まれてしまうような気がして。冬子にはとても出来そうもない。実際のところ小春もいつ心霊現象に巻き込まれるか気が気でなくてまともに眠ることが出来ずに参っているようだった。

 一方で秋男はとても安らかな顔で廊下の固い床の上で眠り切っていた。

「凄いね、勇気があるのかな」

 冬子は秋男の呑気な寝顔を一瞥して鼻で笑いながら吐き捨てるように告げる。

「バカなだけだ」

 その様子を見て小春は一つ訊ねた。

「バカな事ってそんなにいけないのかな」

 冬子には理解が及ばない世界なのだろうか。小春は秋男に対してどこか羨むような輝きを込めながら見つめていた。

「確かに過ぎるのはいけないけど、少しくらいバカな方が生きやすいと思う」

「そうかもな」

 軽く頷く冬子の顔に同意の感情は全く宿っていない。そんな事実を見つめながら小春は軽い笑みを見せてアパートの静けさに劣らない程に静かに呟いた。

「春斗に取ってたの、過ぎる事だったかな。普通に酷い事たくさん言ってた」

 冬子は不器用ながらに出来る限り優しく微笑みかけた。小春の手を包み込みながらいつもの声に一欠けらの優しさを織り交ぜて返す。

「気が付いたなら良いんじゃないか。春斗ならひと言謝れば許してくれるだろうな」

「本当にそうかな、冬子さんは知らないだけだよ」

 どれだけ非道な事を言えばそこまでの感情を抱いてしまうのだろう。いとことは誰彼構わず無難か或いは友好的な関係を運んでいた冬子には想像すらつかなかった。

「目を合わせる度に死ねとか言ってたのに」

 小春の目は伏していた。懺悔の時間、過去の過ちを悔いて捻り出す言葉の雨はやむ気配すら見えない。

「このアパートに住み始めてから死ぬのがどれだけ怖い事なのか、春斗にどれだけ酷い事を言ってたのか思い知らされて」

 兄妹だからこそのぞんざいな扱い、人として見ずに存在そのものをも平気で踏み潰すような言葉、そうした行ないの重みを今更知ってしまったようだった。

「バチが当たったみたい」

 冬子はゆっくりと首を横に振る。

「バチじゃなくてきっと教えてくれただけさ。だから大丈夫」

 小春の手を包んでいたその手に少し力を加える。冬子は天井の方、ロフトの方を向いて目を凝らしていた。

「断末魔の残り香、タチが悪い。事故物件ならみんなそうか」

 握り締める手の震えに声のこわばり。冬子の緊張は相当なものだと知った。ロフトの方から這うようにゆっくりと伸びて来た青白い手は干からびかけた生々しいもの。今にも折れそうな細い指は生を感じさせない。それがロフトの縁を掴み、遅れて顔がはみ出して来る。

 明らかにこの世の者ではないモノの目がこちらを覗き込む。更に時が経つと首までが視界に映り込み、首に巻き付いた朽ちたロープがようやく死因を悟らせる。

「今日は内から」

 小春の声は恐怖に震えている。共鳴するように身も震えていた。冬子は秋男を起こす。秋男は目を擦りながら身体を起こして、覚束ない意識でその霊を見て、即座に現れた恐怖感と共に縮こまる小春を抱き締めた。

「大丈夫だ、放っておけばきっと」

「ダメだよ、近付いて来るの」

 小春は歯が震えてぶつかる音を絶え間なく鳴らしながら怯え震える声でそう語る。

 霊は既に胸辺りまで身を乗り出してぶら下がるような状態でそこにいた。冬子は秋男と小春に逃げるよう促す。秋男は小春を抱き締めたまま立ち上がる。

 ドアを開けて三人揃って逃げ出し始める。ドアを出て右側へ、エレベーターを目指して走り始める。そこですれ違ったドアが開かれたのを冬子は見逃さなかった。振り返るように目を向け映ったものに暗い想いを抱く。映ったものの正体は完全に干からびて黒ずんだ老いた男。足をふらつかせながら力なく歩み寄って来る姿が網膜に焼き付いて離れない。

「増えてるぞ逃げろ」

 闇の中で息を切らしながら走り行く。最初にたどり着いた秋男はエレベーターのボタンを押す。そこから上ってきた箱がガラス越しに見せた影に塗れた光景に秋男は声をあげる。

「ダメだ」

 エレベーターのドアの向こうにも何人かの霊がいて、それが今にも開かれようとしていた。このアパートは完全に怨霊の住まいと化していた。

「階段だ」

 そうして三人は階段を懸命に、転けそうになれども構わず全力で駆け下りてアパートの一階にたどり着く。部屋のドアが同時に幾つも開かれ、黒々とした霊が姿を現し始める。詳細など確認する間もなく逃げ出し、冬子の車に乗り込む。

 エンジンをかけてすぐ様走り始めた車は幽霊ばかりが住まうアパートからどうにか逃げ出すことに成功した。あの光景に対する恐怖は一週間にも渡って残る後味となり、頭を抱えて悩まされたのだった。



  ☆



 存在そのものが事故物件なアパートとの契約はすぐにでも解消しようと心に決めて逃れるための手続きを出して、当然のように引っ越した小春。荷物などは業者に任せてこれから新たな住まいに移動するといったところ。

 新たな住まいに移る前に一度実家に帰って春斗にひと言だけ謝るとまさに冬子の言った通り、言葉の上ではすぐに許してくれたのだという。

 しかし、小春は気が付いていた。許してもらう時、それから後の会話、全ての反応に於いて春斗の視線が少しだけ斜めに逸れていた事を。

 言葉では許してはもらえても心では許し切れていない、拭い去れない恐怖やこびりつく嫌悪に似た感情を目の当たりにして、小春はやはり取り返しのつかない事をしてしまっていたのだと改めて思い知らされた。

 大きな池のある公園で一人、夕空に涙を浮かべて池に想いを流して罪悪感に苛まれながら実家には戻らずそのまま引っ越し先へと向かったのだという。

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