第6話 山の怪

 そこは山の中、木々は不気味にざわめき太陽はその瞳を閉じ、その場には常に嫌な風が吹いている。ゴールデンウィークという休日群の中の一日を山登りに費やした秋男。その後ろを春斗と冬子が着いて行く様は秋男をリーダーとして進む探検隊のよう。

 後ろの二人を確認する事すらなく進んでは気合いを入れなければすぐさま離されてしまいそうな秋男の背中を見失わないように追いかける。

 春斗の身は疲れを示していたものの、それでも懸命に進んで行く。冬子は浅い呼吸を何度も繰り返し、激しい疲れを示していた。

「春斗、あのバカ止めて来てくれ、すぐに」

 春斗は言われるままに秋男を呼び止めるべく歩みを速める。勢いに任せて突き進んで秋男の肩に手を伸ばす。そうして歩みを妨げられてようやく振り返り、疲れ果てた冬子を見下ろして冷め切った目つきを向ける。

「普段は自分カッコいいですみたいな態度取っておいてこのザマか」

「秋男、そんな事」

 春斗の言葉は木々の鳴き声に沈んで行っただろうか、闇によって切られたのか風に霞んでしまったのか。

「クソカッコ悪ぃな、運動不足」

「別にカッコいいなんて思ってない」

 秋男は嘲笑の表情を見せて冬子に陰を与えて駆け登っていく。やがて彼の姿は闇に飲まれて見えなくなった。

 取り残された春斗は冬子の隣に戻り、ペースを合わせて歩いていく。春斗としては冬子に合わせて歩みを進める方が楽に思える。慣れない山登りで疲れている冬子は想いを乗せた言葉を流すべく、口を開いた。

「春斗はこんな運動不足な私に合わせてくれるんだな」

「当たり前だよ、冬子が困ったらいくらでも」

「助かる、ありがとう」

 春斗は手を小刻みに振っては焦りのような仕草を見せつつ目を細めていた。

「ありがとうなんてそんな」

 早口で述べられた言葉、素早い息継ぎは疲れの息づかいと共に行われてすぐさま次の言葉を弱った声で告げる。

「困ってる知り合いに少しくらいはね」

 途端、冬子は更なる疲れと心の重みを感じて項垂れた。

「はあ、知り合いか」

 冬子の肌は更に色褪せて見える。一方で目の下に居ついているくまは更に存在感を上げていた。

「いい友だちだと思ってたんだけどな」

 春斗は言葉が出なかった。冬子のことを親友だなんて言うこと、そんな事でさえも恥ずかしくて、照れが口を塞いでしまって。本心からの言葉を選ぶ勇気を振り絞ろうとした瞬間を狙って息が詰まる感じに襲われる。そんな自分の意生地の無さを呪うことしか出来なくて。



  ☆



 秋男は随分と上の方で待っていた。屋根の着いた木のベンチにて余裕を主張するような優雅な表情で夜の景色に懐中電灯の輝きを向けて見つめていた。登山客がたまに使っていると思しき休憩所は所々が削れてボロボロ。

 追い付いた冬子は年季の入った休憩所を見た瞬間、鼻をつまむ。

 その仕草を目にして秋男は笑っていた。

「冬子は感じたっぽいな。ならウワサは本当だろうな」

 あの時の嘲笑とは打って変わって豪快な笑顔。まるで怪しき何かの存在を確かめて満足しているようだった。

「何だ……これ」

 冬子が驚きのあまり目を思い切り見開き口はだらしなく開かれそのまま目を向け続けるその場所、春斗もまた凝視して得た驚愕を振りかざしては言葉を失って拾い上げることすら叶わない。

 目の前に設置されたベンチは紅い血で塗られていた。

「すげえだろ。毎日こうなるらしいぜ」

 秋男の上機嫌は冬子の不機嫌、時には春斗の元気を奪う者の存在によってもたらされる。

「だから夜は特に霊感の強いやつは誰も来ないんだとよ」

 ずっと唖然としてその光景を眺めていた冬子だったが秋男の方へ顔を向ける。

「お前やっぱバカだろ。どうしてこんな危険な所に連れて来た」

 その言葉が通じていないのか、秋男はただニヤつきながら語る。冬子がどれだけ強く言ってもどれ程尖った視線で刺しても無駄でしかないのだ。

「この山の怪はこれで終わりじゃねえぜ」

 情報を持つ男の言葉の通り、黒々とした世界からお越しの異変が繰り広げられ始めた。

 足音が聞こえ始め、冬子と春斗は振り返る。遠くから近付いて来る男女。濃い茶色の柔らかながらもしっかりとした生地の厚いコートを着た男とお揃いの色のジャケットを着た女。冬の恰好をしていること、季節外れと言いたくはあったものの春斗たちの恰好も同じように冬の物。登山に来ているのだから特に違和感を持つところではない。

 しかしながら春斗は異様な感覚に襲われていた。冬子の方へと目を向けると同じ圧を受けて苦しそうな顔をしているようだった。

 そんな二人に構うことなくカップルはベンチへと向かう。警戒心を向けられているということを見抜けない様子だった。

 手を繋ぎ合った二人は微笑み合いながら並んでベンチに腰掛けた、その刹那。

 男は立ち上がりコートのポケットより包丁を取り出し握り締める。鋭い銀色に輝く刃物の浮かべる色はまさに殺意の色。

 女は立ち上がり逃げようとするも、男は女を抑えつけて自由を許さない。ベンチの上に押さえつけられた女の胸に包丁を刺した。続けて引き抜き再び刺して、またしても引き抜き勢いよく刺す。

 何度も何度も繰り返し、刺さる度に血は噴き出し飛び散りいつの間にか元の素材の色に戻っていた木のベンチを鮮やかな紅でしっかりと染め上げる。

 刺して刺して刺して刺して。

 女の息が根こそぎ奪われ死に届いた。動かなくなった彼女、愛する人の変わり果てた姿を見て男は涙を流しながら休憩所の屋根の骨組みに、全ての部位が支え合う木材の一つに縄を括りつけて自身の身を、首の根から命そのものを縛り、生を捨てて事を終わらせた。

「心中だ。いつの時代にでもある事だろ」

 全てを初めから知っていて呼び出した秋男を冬子は睨みつける。心底憎しみを溜め込んでいることが明白な感情の動きと目の下のくまと元の目つきの悪さ、その全てが交わり現れる憎悪は凄まじい恐怖を呼び起こす。

 それは不謹慎な男への最上級の怒りだった。

 生きる者の間では命の大切さの現れが形無き争いを生んでいたものの、彼らの事などお構いなしに事は進んで行く。

 先程刺された女は急に立ち上がり、力なく身体を揺らしながら歩き出した。生気を感じさせない虚ろな瞳が捉えたのはその場に生きている三人。色を感じない表情程不気味なものなど無いのだと今ここで改めて思い知らされる。

 女はゆっくりと歩き始め、秋男の方へと歩みを進めて行く。秋男は慌てて逃げ出した。春斗と冬子は幽霊どころか秋男にすら追い付かれないよう全力で駆け出していた。

 疲れや他の人が来るかも知れない。そんな不都合たちになど構うことなく来た道を逆戻りしていく。

 山を下るその時、闇に閉ざされて視界がはっきりとしない中、辛うじて葉の輪郭が見える。暗がりに隠れている景色は彼らの走りによって素早く斜め上へと上がって行くように見える。生きるための必死の疾走に脚の痛みは一歩一歩に叫びを上げ、心臓の鼓動は恐ろしさと運動により破裂の危機を思わせる程に激しく脈を打つ。しかしながら止まるわけには行かなかった。

 そうして必死に暗い山道を降りていく。悪しき霊から逃げている時に見たものや記憶といったものの中には恐怖の感情しか残っておらず、命さえ助かれば何もかもがどうでもよく思えてしまう。

 走り抜けた先にある車、そこに冬子、春斗、秋男の順にドアを開け乗り込む。そこからすかさずドアを閉めて車のエンジンをかけた。

 ライトに照らされた正面。強烈な光よりも手前、フロントガラスに例の女がさぞ恨めしそうな目をして張り付いていた。生きることへの執着は生きる者への憎悪から逃げ出すべくアクセルを踏み込んでいた。



  ☆



 そこは屋根の着いた木製のベンチ。それは銀に光る刃物。冬子は今、男と対峙していた。

 何故今ここにいるのか、冬子には想像も付かない。抜け出そうと身体を動かそうとしてようやく感覚をつかみ取った。

 背には固い感触が走り、男と向かい合って立っていると思っていた冬子の考えは大間違い。

 冬子に馬乗りになって握り締めた包丁を冬子の身体を突き刺し、引き抜き、同じように繰り返し。何度も刺しては引き抜いて何度も何度も殺意を放り込まれる。

 そんな姿を見つめながら冬子は別の景色を見つめている。

 多額の借金を背負った苦しい生活、それに打ちひしがれて限界を迎える彼の姿を毎日目にする日常。なぜだかそんな悲しい生活を思い起こしていた。



  ☆



 冬子は目を開いた。続けて辺りを見回す。隣に寝ている春斗、後部座席にこれまた恐らく寝ている秋男の力なき姿を目にした。

 先程の光景は夢だったのだろうか。

 胸の奥に鮮明に残る感覚と共に二人を乗せたまま車は無事に冬子の家へとたどり着いた。

 冬子は早速隣で寝ている春斗を揺さぶり起こす。

 春斗は目を開けて飛び上がるように後退りをした。

「刺さないで」

 春斗の怯える様を見て冬子は微笑んだ。

「おはよう、というよりこんばんは」

 優しい瞳、弱り切ったその目は春斗の姿を収めて緩やかな線を描いていた。

「いい夢、は見てないな。多分私と同じ夢」

 そうして今回の件はその幕を閉じた。

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