安全地帯消滅

杏月澪

事件発生

「日本もそろそろ終わりだな」

「え? 急にどうしたんですか?」


 暑さが加速してきたある夏の昼下がり。署の近くにある公園のベンチで、俺と後輩の柳田が少し遅めの昼飯を食べていたときのことだ。

 スマホを見ながら零した独り言が柳田の耳に聞こえたらしい。

 

「これ見てみろよ」


 不思議そうに眉をひそめている柳田にスマホを渡す。それを受け取ったはいいが、柳田はその後、数十秒間真剣に画面を見たまま微動だにしなくなってしまった。


「ただの動画……ですね。これと日本の終わりがどう関係してるんです?」


 やっと口を開いたと思ったら、そんな的外れなことを言うもんだからため息が止まらなくなる。ただでさえ今にも体が溶けてしまいそうな暑さと、耳を劈く蝉の鳴き声に気が滅入っているというのに。


「そっちじゃねえ。コメント欄の方だ」


 俺がそう言うと柳田は慌ててコメント欄を開いた。コメントを読むために画面をスワイプすればするほど、柳田の眉間の皺は深くなっていく。


「これは……」

「酷いもんだろ。科学の力で文明が進んだと思ったらこれだ。人間自体はずっと後退してやがる。これなら動物の方がずっと利口だな」


 ポケットに忍ばせておいた煙草を取り出し、火をつける。ふうっと息を吐くと薄暗い灰色の煙が風に飛ばされ、消えていった。

 まだコメントを読んでいる柳田を横目に見ると、わなわなと震えていた。


「普段は動画とか見ないのか? お前くらいの年頃だとみんな見てるだろ?」

「そうなんですけど、僕こういうのには疎くて。だからこんな悪質なコメントを日本人がしてるなんて全然知りませんでした」

「まあ、やってるのは日本人だけじゃねえん

だろうけどな」


 柳田にスマホを返してもらい、もう一度画面を見る。

 そのコメント欄に書かれていたのは動画主に対する批判や拒絶の声だった。それも一つや二つじゃない。擁護の声を遥かに上回る数だ。一見すると普通の応援コメントだが、よく見てみると縦読みでしっかり批判しているものもあった。

 ああ、読んでいるこっちの方がいらいらしてくる内容だ。


「本当に先の日本が思いやられる」


 あまりの胸糞悪さに思わず舌打ちをしてしまう。ふと横を見ると、柳田が何か言いたそうにこっちに視線を送っていた。


「なんだ? どうした?」

「現実ではあからさまに人を批判している人は少ないように感じます。どうしてネットだとこうなってしまうのでしょうか?」


 探究心を持つことをいいことだが、その脳内花畑の質問に頭を抱える。


「ずっと思ってたが、お前はつぐつぐ刑事に向いてないな。少し頭を働かせればわかるはずだろ?」

「中山先輩はわかるんですか?」


 俺が刑事を何年やってきたと思ってんだ。という言葉は喉の奥に引っ込め、人差し指を上に向ける。


「結論から答えを言うと、それはネットが安全地帯だからだ」


 まだ意味を理解してなさそうに首を傾げる柳田にもう少し噛み砕いて説明する。


「人が現実で声を荒らげないのは、そんなことをすれば自分の生活が脅かされるとわかってるから。個人情報を基盤として経済が回っている世の中で、問題を起こせば最悪警察署行きになる。だがネットってのは完全匿名だ。名前も顔も性別も知られることはない。つまり……」


 そこまで話して柳田はようやく俺の言いたいことを理解したようだった。ベンチから勢いよく立ち上がり、「そうか!」と大声で叫ぶ。


「自分の言葉に責任が伴わないんですね。それを抑制する機能がないから」

「そういうことだな。日常の中で溜まったストレスを安全なネットで発散してるんだろうよ。あるいはただ承認欲求を満たしたい奴らが考えなしにやってるかだな」


 平和に見える日本でも裏では言葉という暴力が蔓延っている。これは俺ひとりで簡単にどうにかできる問題じゃない。

 それに俺だって目の前のことで手一杯だ。


「そろそろ戻るか。仕事が山のように溜まってんだ。ネットより先に現実と向き合わないとな」


 ベンチから重い腰を上げ、軽く伸びをしてから柳田に「行くぞ」と声をかける。


「あ、ちょっと待って下さいよ」


 柳田はお昼ご飯を食べたときにでたゴミを手早く片して、俺の後ろをついて歩く。

 二人で仕事内容について話しながら署のすぐ近くまで来たとき、突然辺りにどよめきが起こった。

 

「いったいなんの騒ぎだ」

 

 急な出来事に事態を把握できずにいると、ひとりの男が「俺の大事なデータが!」と叫んでるのが聞こえた。

 よく見てみるとざわざわと騒いでいる人の手には等しくスマホが握られている。

 自分もスマホを取り出し、どんな問題が起こっているのかを確認した。


「おいおい、これはどういうことだよ」


 スマホにインストールしていたはずのSNS系アプリが全て姿を消していた。周りの人の反応を見る限り、同じことが起きているんだろう。

 暑い日差しの中、冷や汗が頬をつたる。これは仕組まれた計画だとしか考えられない。でも誰が? どうやって?

 そんな答えが出ない思考を遮断し、後ろを振り返る。


「柳田!」

「は、はい!」


 どよめきに掻き消されないように、できるだけ大きな声で柳田を呼ぶ。何が起きているかわからない状況下でも素直に指示に従ってくれる。刑事としてはともかく、そういう後輩はとても頼りがいがある。


「急いで署に戻るぞ。事件発生だ」

 


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