第40話 帝国帰還


「姫様、お湯加減はいかがでしたか?」


「とても気持ちが良かったわよ、ニーナ。やっぱり皇宮のお風呂は違うわね」



 帝国に帰還したクリスティーナは帝都にある皇宮の自室にいた。

 さっと湯浴みをした後、侍女たちが慌ただしくクリスティーナの身支度を進めていた。



「もう少しゆっくりなさってはいかがですか? 長期任務でお疲れでしょうに……」



 久しぶりに会った侍女のニーナが眉をひそめる。

 年配だが衰え知らずのニーナは、クリスティーナの筆頭侍女であり母のような存在だ。クリスティーナの身をいつも案じてくれている。



「そうも言っていられないのよ。レオンお兄様に報告に行く必要があるもの」


「殿下なら明日でもかまわないと言うでしょうに」


「それではわたくしが嫌なのよ」



 これまでの旅の軽装から、クリスティーナのアイデンティティである戦空艇団の紅の軍服を身にまとう。

 軍服に袖を通すのは久しぶりだ。

 ドルレアンにいた時から今日まで、珍しく軍服とは縁遠い生活を送って来たから。

 軍服を身に着けると気持ちが引き締まる。



「姫様、お支度が終わりました」


「ありがとう」



 侍女の一人に声をかけられ、クリスティーナは微笑みを返す。

 侍女たちは頬を赤らめ、ほぅと溜息を零した。



「姫様に見惚れている場合ではないですよ、あなた方」


「じゃあ、ニーナ。行ってくるわ。この時間帯ならお兄様との面会も叶うだろうし」


「かしこまりました。姫様、お気をつけて」



 侍女たちの見送られながら自室を出たクリスティーナは、兄のいる執務室へと向かった。

 周囲に人がいないことをいいことに、そっと溜息を吐く。


 帝都に向かっている最中、クリスティーナは今後のことについて考えていた。

 何よりも自分が第二皇子派に狙われていることだ。厄介なことにどういう意図があるのかまだ分からない。

 レオンハルトからの情報を待ちたいところだが、自ら探りに行った方がいいのではないかとクリスティーナは考えている。


 それと、少しずつ記憶が戻っていきていることも気になっている。

 ナウシエト遺跡で何かがあり、それがきっかけになったのではないかと推測している。



(それは一体なんなのかしら……)



 ワイバーンの攻撃を受けて体に傷を負った。

 腑に落ちないのだが、そうレオンハルトとシキから聞いている。



(……シキ、ね)



 彼の顔を浮かべた時、クリスティーナはなぜか沸き立つ気持ちを感じてしまう。

 シキからもらった首元のペンダントに優しく触れた。

 本来であれば、自分の目的は婚約破棄だったはず。

 それなのに、どうしてだか心の奥底にシキが住み着いてしまったように感じる。



「これは皇女殿下」


「ごきげんよう」



 ふと顔を上げれば、顔馴染みの兄の護衛騎士がいた。

 いつの間にか皇太子の執務室の前に来ていたようだ。



「長期の任務、お疲れ様でした」


「ありがとう。お兄様にお会いできるかしら?」


「今、ザートツェントル副所長と面会中です」


「シキと?」



 帰還してすぐに別れたシキが、何ゆえ兄の執務室にいるのか?

 兄への報告だとは思うがあの二人は友人同士だと言うし、何を話しているのだろうか。



「まあ、わたくしの婚約者がいるのね。ちょうど良かったわ」


「お会いになられますか?」


「もちろん」



 にっこり微笑めば、護衛騎士は少し頬を赤くして執務室へ招き入れた。

 執務室は二室続きの構造になっていて、手前の部屋では皇太子直属の文官が忙しく働いていた。

 クリスティーナに気がついた顔馴染みの文官たちは、静かに会釈をしてくれる。

 クリスティーナが微笑を返しながら、兄のいる奥の扉へ近づいた。



「……私はティナと婚約するべきじゃなかった」



 ノックをしようとした手がぴたりと止まる。

 部屋から偶然聞こえてきたシキの言葉。



「殿下? どうされましたか?」



 クリスティーナがすぐに部屋に入らない姿を見て、文官の一人が首を傾げた。

 無意識に後ずさり、その時、呼吸を止めてしまっていたことに気づいた。



「……いえ。わたくし、用事を思い出したわ。お兄様に報告しなくていいわよ。また来るから」



 不思議そうな顔をしている文官を横目に、クリスティーナは踵を返した。



(……そんなことを考えていたのね)



 執務室を離れ、靴音が響く廊下を進む。

 無意識にペンダントをぎゅっと握った。



(婚約を快く思っていなかったのね……見抜けなかったわ)



 いつからそんなことを考えていたのだろう。

 もしかしたら、サラと再会したことで心が動いたのかもしれない。

 純粋で素直なサラは今もシキのことを想っている。それにシキの態度も彼女を大切に扱っていた。



(だったら婚約破棄、できるわね)



 もともと婚約破棄を狙っていたのだ。これまでで一番スムーズに進められる展開だろう。

 シキが直接皇太子である兄に、婚約について自分の意見を伝えている。

 そこをもう少し調べて、シキが元婚約者とよりを戻したいという事実を突きつければ、婚約破棄をすることは可能だ。

 レオンハルトも今度こそ文句は言わないだろう。



(これでやっと婚約から解放される)



 でも、どうしてだろう。気分が晴れないのは。

 クリスティーナは自分が自嘲気味に笑ったことに気がつかなかった。







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