異聞三国志【比翼の鳥】
七海ポルカ
第1話
『お前以外はなにもいらない』
寒い季節のこと。
空から降って来る白い雪を、身を寄せ合いながら、部屋の中から見上げていた。
今年の冬は、ずっとくっついて過ごしていた気がするのは、
江東の温暖で、温かい太陽に慣れている孫策が寒さを嫌って、寒い寒いと四六時中くっついていたがったからなのか、それまで過ごした冬のことを考えれば、三年ほど、孫策と冬を共にした記憶が無い。
その中の一つは袁術の許で、それこそ身も心も凍えそうになりながら過ごしたことも、たった数年前ほどのことだ。
袁術を討伐してからは江東・江南制圧の為に各地を転戦し、今も洛陽に鎮座する漢国皇帝の
(そうか)
もしかしたら、孫策と夫婦になってから、こんなにゆっくりと冬の季節を味わうのは、初めてかもしれない。
孫策は「俺は寒すぎると死んでしまうんだ」などと言い訳しながら、片時も離れず、周瑜の側にいてくれた。
彼はそんな風に言ったが、実際の所は、この冬に周瑜が毒術で命を脅かされたから、心配し、見守るつもりで側にいてくれるのだろうと思う。
毛の長い絨毯の上に足を伸ばして座っていた、隣の孫策がうつら……としたのが分かった。
周瑜は温かい毛布でもう一枚上から、自分と孫策の身体を包み込む。
孫策を抱きしめ、自分の胸の方へ抱き寄せてやった。
「……眠っていいよ」
すでに半分寝ていたようだった孫策は、周瑜の声に、目を閉じたまま笑むと、嬉しそうにその柔らかい体に両腕を回し、顔を埋めた。
周瑜は孫策を抱えるような体勢で、折り曲げていた足を伸ばす。
横向きに抱き合って、周瑜は優しく、孫策の髪を指で梳きながら、自分もこの穏やかに微睡む時間に身を委ねていた。
周瑜は昔から、あまり心地良い眠りに恵まれない傾向があった。
夢は悪い夢の方がずっと見る。
眠りが浅く、夜中に目を覚ますことも幼い頃からあった。
元々そうだったのだが、富春の城が陥落し、袁術の許で過ごす間に、更に眠ることが苦手になった。
袁術が夜、周瑜の部屋を訪ねて来たので、陽が落ち、夜になるのがひどく嫌いになったのだ。
そこに来て、この前は強制的に一月ほど眠りについて、ずっと悪夢を見させられていたからか、眠ること、夜が来ること、眠っている感覚にすっかり苦手意識が棲みついてしまった。
周瑜はそのことは、あまり表には出さなかった。
口にも出さなかった。
怖いことを「怖い」と口に出すと、その怖さを自分で認めたことになるし、もっと嫌いになって行くだろうと思ったからだ。
でもここ最近ずっと、孫策がこうして側にいてくれる。
体を繋ぎ、抱かれるのもそうだけど、孫策の腕に抱かれている時だけ、周瑜は夜でも、閨でも安堵出来た。
……多分孫策はそれに気づいていて、それで側にいてくれるのだと思う。
勿論、たまたま激しい戦線を抱えていない時期だったのも幸いだったが。
孫策と一緒に眠る毎日を重ねて、ようやく最近周瑜は、この夜の、穏やかな微睡みを、幸せだと思うようになって来た。
少しだけ毛先を丸める、孫策の柔らかい髪に頬を寄せる。
かわいいなあ。動物みたいだ。
そんな風にぼんやり思っていると、もぞりと少しだけ背中が動いた。
ゆっくりとした呼吸。
そうだ。
この子にも感謝しないといけない。
周瑜は身じろいで、自分と孫策が背もたれにしている虎の背を手の平で撫でた。
<
また少し大きくなった身体は温かく、孫策がどうしても側にいられない夜は、「お前が周瑜の側にいるように」という与えられた命令を彼女はよく守ってくれた。
非常に立派な容貌を持ち、成獣の虎らしい、美しい瞳と、見事な牙と爪を持っていたが、緋湧は本当に穏やかで大人しい性格をしていた。
庭に放し飼いにして、幼い頃から人は勿論、違う動物と一緒に過ごさせてきたが、自分より小さな生き物に牙を剥いたことは一度もない。
ただ、人間の生み出す空気に敏感らしく、苛々した人間が側にいると、彼女は不快に思うようだった。
建業の庭にいる時は、一度も唸ったりしたことが無いのに、出陣前の人間が側に近寄ったり、武装した兵などがいる場所に連れて行くと、緋湧は唸り声をあげることがある。
「こいつは戦が嫌いみたいだな」
孫策もそんな風に言って、以前は大きくなったら戦場に連れて行くんだなどと言っていたが、今は緋湧は戦場には連れて行かず、城の穏やかな庭で過ごさせてやろうと決めたらしい。
そういうところは、もう一匹いる虎である<
緋湧の実弟である彼は、人間が大勢いる場所も好きだし、戦前の人間達の側にいても、別段苛立つようなことはないようだった。
兵舎の側に連れて行っても、いい日向を見つけるとそこにしゃがみこみ、出陣前の戦気だった人間達が側をウロウロしていたとしても、暢気に大きな欠伸をして居眠りをしていることまであって、「こいつは大物になるかもしれん」と烈火は孫策のお気に入りなのだ。
烈火はまだ幼くて上手く唸り声を上げられず、きゅんきゅんと子犬のように鳴く。
声が可愛いのでいつも人間達に笑われているが、彼としては一人前に吠えているつもりなのだろう、そう考えれば、確かに<烈火>はかなり威勢を露わにする性格だ。
今は城で飼ってる犬や馬にちょっかいを出しては返り討ちにされているが、何度痛い目に合っても翌日にはまた何食わぬ顔でちょっかいを出しに行く。元来好戦的なのだろう。
戦場は好きなのかもしれない。
性格の違う姉弟。
それでもこの二匹は仲がいい。
穏やかに日々を過ごしたい緋湧に、烈火はよくじゃれつくので、あまりにしつこくすると五月蝿いな、という意味で姉に軽く振り払われて、よくゴロゴロと烈火が転がっているのを見るが、それでも時々、緋湧が烈火の毛繕いをしてやってるのを見ることがあった。
そういう時は普段少しもじっとしていない弟も、目を細めて、心地良さそうにされるがままになっているのだ。
毛繕いか。
周瑜は小さく笑った。
指先に掛かる、孫策の髪を、優しく梳いてやる。
一糸纏わない身体で寄り添う緋湧の身体は、温かくて柔らかい。
彼女もこの冬の季節、いつも周瑜に寄り添ってくれた。
活発で勇敢な弟に、寄り添う姉。
「……わたしたちみたいだな」
ごく小さな声で、周瑜は囁いただけだったのだが、腕の中で孫策が身じろいだ。
「……緋湧と烈火か?」
「なんだ。起きてたのか」
周瑜は笑って、少し身じろぐ。
孫策は埋まっていた毛布からもぞもぞと抜け出す。緋湧の身体に凭れかかりながら、周瑜に口づけて来た。
緋湧はいつも周瑜達が身体に凭れて毛布代わりに使うので、こうして人間に凭れかかられることに、すっかり慣れてしまっている。
周瑜は触れ合った唇のまま、微笑む。
周瑜は寒い、冬の季節が、人生で初めて好きになった。
孫策がさむいさむい周瑜暖を取らせろと身を寄せてじゃれて来る季節。
やがて来たる春を夢見て、二人で花の夢を見ながら、柔らかな毛布に包まって眠る。
(幸せだなあ……)
周瑜は穏やかに流れる時間に身を任せながら、声を掛けた。
「……ね、君まえに言ってただろ」
「? なんだ?」
「戴冠式の日、董卓が来た時のこと」
孫策が半眼になる。
「……周瑜。今、そんなムカつく名前を出すなよ。折角いい気分で寝てるのに」
「董卓のことはさして重要じゃない。あの時、わたしと話したことだ。
あの時、私と心が重ならなかった気がする……ってそう言ってただろ」
ああ。孫策は理解したらしく、頷いた。
「あの時はな。そんな気がした。だって普通に考えたら、お前があそこであんな風に躊躇うはずがない。董卓なんかどの角度から見たって悪人だし、世に惨劇を巻き散らしてるんだからな。同情の余地もない。
お前がそんなことを分からんとも思えん。
それに、無意味な博愛主義者でもない。
お前の正義感は本来、俺より強い。使命感もな。
お前が『董卓を殺そう』って言ったとしても、俺は驚かなかったぞ」
「うん……。私も、そう思うよ。
実際、董卓のような奴は世界から早くいなくなってほしい」
「そうだ。でも、お前はあの時、殺すかという問いに戸惑った。
殺したくないって顔をしたから。だから少し意外だった」
「……私にがっかりしたか?」
周瑜がそっと尋ねると、ついた肘で頭を支えた孫策は、強い笑みを浮かべて、周瑜に額を寄せて来た。
「……。いいや全然。
不思議だとは思ったけど。
でも、お前のことだ。なにか思うことがあったんだろう。
俺はこの世で一番お前を信じてる。それが何であれ、構わん。
ただ、知りたいなと思うだけだ。単なる興味だよ。疑心じゃない」
「うん」
周瑜も孫策に額を寄せる。
やはり孫策の方が、触れ合う額が温かい。
周瑜は思い切って、腕を伸ばし、自分から孫策の頭を抱き締めた。
胸に抱きかかえる。
なんだよ、と孫策は朗らかに笑いながら、周瑜の柔らかな胸に頬を寄せた。
彼女の身体に深く腕を回す。
「教えてあげようか。どうして私があの時、躊躇ったのか」
「やっぱり理由があるのか?」
孫策がひょこ、と顔を上げた。興味を引かれたらしい。
「うん、ある」
「知りたい。教えてくれ」
周瑜は微笑んだ。
「いいよ」
優しく、孫策の額を撫でてやった。
「……覚えてるか? 君が、董卓を自分が討つと言った理由を話したこと」
「俺が?」
孫策は撫でられながら、少し小首を傾げた。
「色々話してたけど……なんだったっけ?」
「君が言ったんだ。丸腰で堂々とやって来た董卓を、君が斬ったら、人々は君を悪く言うかもしれないっていうような話をしていて……」
うっすらと思い出す。
「……あー……なんとなく……。そうだな、そんな話したな。
俺が、人々に悪く言われるのが嫌だったのか? 董卓のことで」
周瑜は微かな笑みを浮かべたまま、小さく首を振った。
「その時に君が言ったんだ。
『構わない』って。
丸腰の董卓を斬って、卑怯者だと言われたって、それがなんだと。
君は……。
自分には、子供がいないから、だから自分が卑怯で粗暴な王だと思われても一向に構わない、って言ったんだよ」
あ、と孫策は完全に思い出したようだ。
周瑜は一瞬、目を伏せ、孫策の額を撫でていた手を、毛布の中に戻した。
「分かってるんだ。私は、君のその考えに賛成する。
どんなやり方で君が董卓を殺したって、それで人にどう言われたって、私は構わない。
世界中の人が君を嫌いだと言っても、私は永遠に大好きだ。だから気にしない。
でも……」
孫策の大きな手が、そっと、周瑜の頬に触れる。
「子供がいないから、君が汚い手段を用いても構わないって。
悪役になったっていいんだって言ったことが、……私は気になったんだ」
「……公瑾」
周瑜は首を振る。
「いいんだ。分かってる。
君はいずれ、仲謀殿に王位を譲る。
だからその譲位の前に、全ての不安要素を、自分自身の手で処理をしたいと思ってるんだ。
私もそう思ってるし、そんな風に思う伯符が私は好きだ。
君は他人が嫌だと思うことも、辛いことも、だったら自分が背負って、全部やってのけてやると考える人だから。
でも、君が悪いことをする理由が、『子供がいないから』は……。
子供がいないから、君が自分は、汚れ役を買ってもいい、と思うのは、悲しかった」
孫策はそうだったのか、とようやく気付いた。
あの時の周瑜の、一瞬見せた強い動揺。
孫策自身はあれは、強い想いを込めて言ったという言葉ではない。
心配そうな孫権を、安心させる意味合いもあった。
自分の心積もりは出来ていると、ただそう伝えたかっただけだ。
だからこそ――――。
だからこそ、その直後に董卓と謁見した時、孫策は言ったのだ。
董卓を斬ろうと、思った時に、彼の手を止めたもの。
『今ここで丸腰の貴様を斬れば、これから生まれる俺の息子が、卑怯者の子供だと罵られる。
そんなのはごめんだ』
そう、言ったのだ。
「周瑜」
「ん、」
孫策は周瑜の唇を奪った。
(おれとお前は、本当に一つの魂だ。
本当に苦しい時、辛い時、決めなければならない時、
同じことを想う)
深く唇を這わせ、舌を絡めて、しばらく口付けを重ねた。
あの時、周瑜と心が重ならなかったことを、孫策は不思議に思っていた。
でも――本当は、ちゃんと重なっていたのだ。
(やっぱり、重なってた)
唇がようやく、離れ、周瑜が星のような光のある夜色の瞳で、そっと孫策を見上げて来る。
「俺もお前に教えてやる。
胸糞悪い奴だったから、今更お前に話さなくてもいいと思ってたけど。
お前が何を気にしてたか分かったから、今は話す。
お前は、俺が、子供がいないことを理由に手を汚してもいいと考えたことが嫌だったんだろう。
俺が戻ってきた時、泣いてた。
俺の足を引っ張ったと。
董卓など、必ず殺さなければならなかったのに、お前が戸惑いを見せたことで、俺も心に迷いが生まれて、俺が董卓を殺せなかった。お前はそう思ったんだ。違うか?」
周瑜は少し、瞳を揺らした。
でも孫策がじっと見つめると、こくり、と頷いた。
「周瑜」
孫策がくしゃ、と表情を崩し、額をもう一度触れ合わせて来た。
「全然違う。
俺は迷ってなんかない。
ちゃんと心を決めて、董卓を斬らなかったんだ。
俺はあの時、董卓を斬りたくなかった。
あいつにも正面から言ってやったよ。
『今ここで丸腰の貴様を斬れば、これから生まれる俺の息子が卑怯者の息子だと罵られる。
そんなのはごめんだ』と」
周瑜の瞳が大きく見開かれて、驚いたのが分かった。
孫策は切ない気持ちと、愛しさが、胸に湧き上がって来た。
こんな一言で、周瑜の心に棘となって刺さっていたものを抜き取れるのなら、もっと早く言ってやれば良かった。
驚いた周瑜の瞳の内から、安堵と、喜びと、見上げる孫策に対する愛情が、まるで夜から朝へと色を変える、暁の空の光のように、滲み出す。
「お前に聞かせたあの言葉には、そんな大した重みは無かった。
けど、確かに……お前が聞いて嬉しい言葉じゃないな。反省してる。嫌なことを言った。
でも信じてくれ。
俺の本当の気持ちは、董卓に言った方だ。
周瑜。
俺は、今も、いつかお前との間には子供が出来る気がしてる」
こんなに大好きなんだからな。
孫策は周瑜を抱き寄せ、彼女の頭を優しく撫でて笑った。
「根拠は無いけど、そう感じるんだ。
時間はかかっても、きっとそうなるって、何となく思うんだよ。
それは、いつも思ってるってわけじゃない。
でも、なにか大きな決断を下さないといけない時に、ふと過るんだ。
あの時もそうだった。
……あの日は、戴冠式で、親父のことをたくさん思い出してたから、多分、そんな言葉が咄嗟に出たんだと思うけど。
俺がこの世で、たった一人で、お前もいなくて、お前の子供もいなかったら、俺はあの時、董卓を斬ってた。
斬って、どうなっていたのかは分からん。
世界は平和になったかもしれないが、――何かが俺の中で壊れたかも」
幼い頃から、父親の背を見て、生きて来た。
立派な武将になる。
勇敢で、仲間を守り妻を守り、息子を守り。
見本になるような父親に。
そう思うことは孫策の支えだった。
それを支柱に、彼は孫伯符という人生を生きて来たのだから。
「俺は董卓を殺すなら、正々堂々とやる。
やれる力があるんだ。だったらそうするべきだ。
……お前や、お前の子供が、あの時、感情で突き動かされそうになっていた俺を止めてくれた。正しい方に、引き留めてくれたんだ」
「伯符……」
周瑜は孫策の胸に顔を埋めた。
胸元が濡れる。
「周瑜。俺達の心は、やっぱり繋がってた」
孫策は覗き込んで微笑んだ。
「……な。しあわせだよな」
孫策が微笑んだ。
「今更、言うことでもないかもしれないんだけどさ。
……こうやって、世界にお前と二人だけで。
ここは戦場じゃなくて、
今は、友達や家族が、大きな戦争にも行ってなくて。
命を脅かされる心配も無く、こうして、お前と転がっていられる」
「……わたしもいま、そう思ってたところだ」
こうして周瑜と床に転がっていると――……
(……昔のことを思い出す……)
幼い頃からずっと、孫策の側にはこうして周瑜がいた。
夜通し、転がって、戦や、世界の話をした。
周瑜と幼い頃交わした言葉の中で、無意味なものなど一つも無かった。
例え今より幼くても、……彼女の世界を見つめる眼差しは、今と何も変わらない。
立派な武将に、
父親のような立派な男になるのだと、孫策は幼い頃周瑜に誓ったのだ。
そしてずっと共に戦って、側にいると。
勿論当時は、澱みの無い友情で結ばれた幼馴染みに、自分がこんなことをすることになるなんて、今はどれほど孫策が周瑜に惹かれていようと、惚れていようと、微塵も思っていなかったと言い切れるのが不思議なことだけど。
澱みのない友情は、
曇りのない愛情にいつしか変わって行ったから。
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