薬剤師としての出発2
翌朝、ステイシーは平民の恰好をすると、トランクを一つ持って屋敷の門を出ようとしていた。
「お待ち下さい、お嬢様」
そう呼び止めたのは、三年前からオールストン家で働いている使用人のアーロン・ヒューズ。短い黒髪を綺麗に整えた美少年だ。現在十五歳で、将来は執事になりたいらしい。仕事の時はいつも黒い制服を着ている彼が、今日は平民が着るような白いシャツを身に着けている。
「どうしたの、アーロン?」
ステイシーが首を傾げて尋ねると、彼は息を切らしながら駆け寄ってきた。
「いつもの所に行くんでしょう?俺も連れて行って下さい」
「……いいけど、あなた仕事は?」
「お嬢様が婚約破棄されたって聞いて、慌てて今日休みをもらいました。お嬢様の側で助けになりたいと思って……」
「……そう、ありがとう。じゃあ、付いて来てくれるかしら」
ステイシーが、穏やかな笑みを浮かべた。その笑顔にアーロンが胸をときめかせた事を、ステイシーは知らない。
辻馬車で街まで行き、御者に運賃を渡して降りると、ステイシーは心を躍らせた。茶色いスーツを着て歩く紳士。前掛けを着けた庶民的な服装で人々に声を掛ける市場の女性。正式に婚約破棄されたら、毎日この風景を見られるのだ。
元々前世で『ほしまほ』をプレイする気になったのは、産業革命時のヨーロッパを思わせる世界観が気に入ったからだ。今まで何度も街に来ていたが、やはりこの風景が好きだ。
「行きましょう、アーロン」
そう言うと、ステイシーはアーロンと一緒に大通りを歩き始めた。
しばらく歩いて、細い路地に入ると、一軒の店が目に入った。石造りの白い壁に赤茶色の屋根。壁には木製のプレートが掛かっていて、『薬屋カヴァナー』の文字が彫られている。
そう、ここは薬局。ステイシーは、平民落ちした後も生きて行けるように、以前から休日を利用して薬局で修業していたのだ。
「おはようございまーす、カヴァナー先生」
軽やかにベルを鳴らして、ステイシーは木製のドアを開けた。中に入ると、薄暗い店内に薬草の匂いが広がるのを感じる。カウンターには誰もいないようだ。
「せんせーい、いませんかー?」
ステイシーがなおも声を掛けると、奥の部屋のドアがギイと開いて、一人の老女が姿を現した。白髪を一つに纏めてアップにした鋭い目つきの老女。水色のワンピースに白いエプロンを着けている。
「……ステイシーか、おはよう。どうしたんだい?まだ開店一時間前だよ」
老女は、髪を弄りながら面倒臭そうに口を開いた。
「先生、私、やっぱり婚約破棄されました!近々平民落ちするでしょう。なので、正式にここで働かせて下さい」
老女は、髪を弄る手をピタリと止めて、少し驚いたように言った。
「本当に婚約破棄になったのかい。あんたが男爵令嬢を虐めた濡れ衣を着せられるなんて話、ただの妄想かと思ったけどね」
「それが、本当なんです。先生、以前おっしゃっていましたよね。もし私が本当に平民落ちしたら、雇ってくれるって。私、ここで住み込みで働けるように、荷物を少しずつ運び込もうと思うんです。いいですか?いいですよね」
ステイシーが食い気味に聞くと、老女は眉根を寄せながらも頷いた。
「まあ、あんたの言葉を本気にしていなかったとはいえ、言ってしまった事には責任を取らないとね。……いいよ、荷物、二階の空き部屋に置いてきな」
「ありがとうございます!」
ステイシーが深々と頭を下げる。老女は溜息を吐くと、視線をアーロンに移した。
「で、そこの坊やは?」
「あ、彼は、うちの使用人のアーロン・ヒューズです。アーロン、こちら、私の薬学の師匠で、マージョリー・カヴァナー先生」
「お初にお目にかかります、ミズ・カヴァナー。オールストン家に仕えております、アーロン・ヒューズと申します」
アーロンが慌てて頭を下げる。
「畏まらなくていいよ、よろしく、アーロン」
マージョリーは、無表情ながらも優しい口調で言った。
アーロンが改めて店内を見渡すと、開店前の店内は薄暗いながらもきちんと薬が整理されているのが分かった。瓶に入った薬草や、その他薬の材料らしきものが棚にずらりと並んでいる。棚には埃も見当たらず、衛生的に気を使っているのが分かる。
「……お嬢様は、良い職場を見つけられたようですね」
「ええ、ここで働く事が出来て嬉しいわ」
そう言うと、ステイシーはトランクを持って二階に上がっていった。
それから数日後、正式に婚約破棄の手続きがなされ、ステイシーの平民落ちも決まった。幸いにも家族が罰せられる事は無く、ステイシーは晴れ晴れとした気持ちでオールストン家の門の前にいた。
「それでは、お父様、お母様、お元気で。皆も、今までありがとう」
門の前には、両親だけではなく、使用人達の姿もあった。使用人達は皆涙ぐんでいる。ゲームの世界と違い、優しいステイシーは皆に好かれている。
「気をつけるんだぞ」
「たまには顔を出しなさいね。平民になったからと言って、この家に入ってはいけないというわけでは無いのだから」
クレイグとミシェルが、優しい言葉をかけながらステイシーを抱き締めた。
「それでは、行ってきます!」
ステイシーは、元気に言うとクレイグが手配してくれた馬車に乗り込んだ。
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