夏を追いかけて

藤宮紫苑

夏を追いかけて

 あの日はどんな天気だっただろうか? 晴れていただろうか、雨が降っていただろうか?

 あの時の君はどんな声をしていただろうか? どんな顔だっただろうか?

 私はカーテンを開ける。強い日差し、今日は晴れらしい。少しでも夏を感じようと窓に手をかけるが、太陽で熱せられた窓ガラスの温度を感じる直前になってその手を止める。窓越しで十分だった。その熱は余りに眩しすぎたから。


 太陽がやけつくように強く照りつける。私はブラウスの袖で汗をぬぐった。どこからともなく聞こえるセミの鳴き声、木々なんて大してないのにどこにいるやら、私は足を止めて辺りに目を凝らすが、迂闊なことに私の目はそこまでよくなかった。何をやっているやら。私は心の中でつぶいた後に空を見上げる。すがすがしいほどの濁りの無い青がそこにはあった。強い風が吹きつける。しかしその風は全くと言っていいほど心地よくなかった。生ぬるい熱風、足元に広がるコンクリートの地面は熱されて蜃気楼のように風景をゆがめる。空がこんなにも青いのに、空の下はどうしたものか全くクールじゃない。実際には空がこんなにも青いせいで、なのだろうが、それにしてももう少し気を使ってほしいものだ。私は鞄の中から水筒を取り出して中の水を口に含んだ。冷たく心地よい。私は文明の利器に感心しながら再び歩みを進めた。


 ふと海に行きたくなった。それだけだった。普段碌に外出することの無い私は日傘も差さずに焼け付く太陽の下、歩みを進める。日焼け止めだけは入念にやって来たのでそこまで肌にダメージは入らないはずだ。多分。私は鞄の中から日焼け止めウォータージェルを取り出して右の腕、左の腕と塗りなおす。顔はどうすれば良いのだろうか、考える。日焼け止めを塗りなおすと思い、最小限のメイクに抑えてはみたものの、このまま素直に塗りなおしても良いのだろうか。悩んだ末、日に焼けるよりはましだろうと、メイク崩れを承知で上から日焼け止めを塗りなおす。やっぱり日傘を持ってくればよかった。


 私は海を探すが中々辿り着かない。話には聞いていたが、そこに辿り着くのは少しコツがあるらしい。少し大げさに言いすぎたかもしれない。ただほんの少しだけわかりにくいだけだ。どうやらその海は遠くからは見ることができないらしい。ここは海沿いの町だというのに変な話だ。しかしそれには理由があった。この町はどちらかと言えば少し田舎だが、その割にマンションや背の高い建物がやけに多い。そのせいで海が見えなくなってしまい、海に辿りつくにはいくつかある路地裏のような狭い道を通る必要がある。流石にそうなる前に気が付かなかったのかと思ってしまうが、世の中には探してみると不思議なものや場所はいくらでもある。この町もそんな不思議なものの一つなんだろう。


 この町は不思議だ。海の匂いがするというのに、肝心の海はどこにも見当たらない。あるのは背の高いマンションやビル群。これじゃあ車で海に来れなそうだけどその辺はどうなってるんだろうか? 歩いていると確かにマンションやビルは多いのだが、田舎らしく土地はいくらでも余っているようで、駐車場は所々にあるので、案外その辺りは考慮されているのかもしれない。しかしそれにしてもだ、肝心の海への入り口が見当たらない。暑さにだいぶ慣れてきたと、太陽が雲に隠れたおかげで先ほどの暑さに比べれば大分ましにはなったが涼しくなったわけではない。私は再び鞄から水筒を取り出す。私は水稲の中の水をぐびぐびと飲み干す。水筒が空になり身軽になったはいいが、このまま探し続ければまたいずれのどが渇く。というかすでにもう水が恋しい。探すもの中に海ともう一つ、自販機が追加される。


 暫く歩いていると不自然な看板を見つける。看板に書かれた内容を見る。『この先海』なんと目的の海を見つけてしまった。しかし問題が一つ、今の私はとてものどが渇いていた。幸いこの周辺は複雑な通路では無くシンプルな路地裏だ。とりあえずこの海まで続く通路の事を忘れないようにして、もう少し自販機を探すことにした。とりあえず一度その場を後にするがその前に一つだけ、私は海へ続く通路を覗き込む。シンプルなコンクリートの道に、両面はビルの壁、とても殺風景だが、その先には確かに眩しい砂浜と青い海が広がっていた。「また後で来るからね」私は心の中でつぶやき歩みを進める。


 暫くすると再び看板を見つけた。もしやと思い看板に近寄ると『この先海あり』の文字。なるほどそう来たか。私は看板の先を覗き込む。その通路は先ほどの殺風景な通路に比べると少しだけ広かった。「お店?」私はつぶやく。そこには熱帯魚の水槽が並んでいた。通路に歩みを進める。様々な熱帯魚が入った水槽。どうやら熱帯魚のお店らしい。海の目の前に熱帯魚とはどうなのだろうか。ただ実際に存在するのだから、それなりに需要はあるのかもしれない。店の奥にはさらに多くの水槽が並んでいる。外から見える範囲を覗く。この白とピンクっぽい色をしたぶよぶよとしていそうなやつなんて言ったっけ。そう、ウーパールーパーだ。大昔にペットにするのが流行ったらしいが、確かに愛らしい見た目。ほしくなるのもわかる気がした。しかし私の今の目的は熱帯魚を見ることでは無かった。私は通路の先に目を向ける。『この先に海あり』の看板の通り、その先には砂浜に青い海があった。しかし私にはやり残したことがあった。そう、自販機である。


 私は看板の場所まで戻り再び歩みを進める。するとまた看板を見つけた。私は何をしてるのだろうか? 少し考えてしまったが、難しく考えることは無い。私が海に行きたい。しかしのどが渇いているから自販機を探している。ただそれだけなのだ。看板にはこう書かれていた。『この先海。冷たい飲み物の自販機あり』なんと。これは決まりではないだろうか。私は少し小走りになる。小さな通路の壁は不愛想な打ちっぱなしコンクリート。そして足元は何でもないコンクリート。しかしそこには念願の自販機があった。私は自販機でスポーツ飲料水を買いその場で飲み干す。その後にもう一本購入するとそれを水筒の中に入れ替えた。通路の先を見る。そこには何度目かの眩しい砂浜と青い空が広がっていた。私は一歩踏む出そうとするが、なんとなく足を止める。これで良いのだろうか。現在三つ目の海へと続く道。この三つ目の道は目的の一つであった自販機があるものの、その通路は何の変哲もない面白みのないものだった。ひとつ前の通路には熱帯魚の店があった。他の通路がまだ存在するなら、もしかすると素敵な出会いがあるのではないか。私は思った。気が付くと私は看板の前まで戻って来ていた。


 私はさらに歩みを進める。そして見つけた四つ目の看板。内容は『この先に海の隙間あり』先ほどと大して変わりの無い文章。しかしほんのわずかな気遣い、そこに惹かれた。私は吸い込まれるように歩みを進める。少しだけ広めの通路の床は洒落たレンガタイルになっていた。両面の壁の脚の元に植えられた花々。強い主張をすることなく、はかなげに咲いている。ポツンとひとつ置かれた真っ白なベンチはメンテナンスが行き届いているのだろう。とても清潔感のあるものだった。私はベンチに座る。そしてその先の砂浜と青い海を見つめた。穏やかな時間が流れる。暫くその場にとどまっていると、私より二つか三つほど下であろう制服姿の少女が隣に座った。


「お姉さん海を見に来たんですか?」

 少女は汗でしっとりとした長い黒髪をなびかせてこちらを見て言った。


「はい。ここからちょっと離れたところにあるコンビニのある宿に泊まってるんです。なんか無性に一人で海に行きたくなっちゃって。それでここを見つけたんですが、なんか可愛くていい場所ですよね」


「そうですよね。私もここ、結構お気に入りなんです。今はまだ夏休みになったばっかりだし人も少ないのでかなりおすすめです。一週間後には人の出入りが大分増えてしまうと思いますが」


「そっか、それで全然人と会わないんですね。最初は本当に海があるのか疑っちゃっててました」


「この海、ちょっと変ですもんね。わかりにくすぎ。私は地元なんで特に問題ないですが、観光とかで初めて来た人は絶対に迷っちゃうと思います」


「そうですよねぇ……。本当におかげでへろへろで……」

 頭に酸素が回っていないのか、少しクラクラする。


「お姉さん……? ちょっと、だいじょ……」

 私は少女に身体を支えられる。記憶はそこで途切れた。


 おでこにひんやりとした感触、私ははっとして目を開いた。


「あ、お姉さんやっと起きた。大丈夫そう?」

 髪を撫でる少女の右手が心地よい。私は返事をするのも忘れていた。少女は何も言わずにそのまま私の唇にキスをした。私は驚いて完全に沈黙してしまう。

「びっくりした? ごめんお姉さん、私そろそろ戻る時間なんだ。ねえ、また会えるかな? まだ何日かいるんでしょ?」


「うん……。明後日までは居る予定だけど……」


「よかった。明日の同じ時間、待ってるね」


「あ、あのさ、どうして……?」


 うまく言葉を伝えることができなかったが、少女は察してくれたのだろう。私の聞きたかったことを答えてくれた。

「一目ぼれ。だよ。それじゃ、本当に行くね」

 少女は砂浜へと走っていった。


 その時に彼女を追いかければよかったのかもしれない。しかし私は直前の出来事に少し驚いてしまい。そのまま宿に戻ってしまった。次の日、天気は大雨だった。この季節にしては記録的な大雨でとても外に出れる状態では無かった。結局その日は外に出れず、この町にいる最後の日、私は再びあの時のベンチまでやってきた。同じ時間に少しだけ待っていたが、結局少女には会えなかった。私は通路の先の砂浜を見つめる。もしかしたらこの砂浜で会えるのかな。と心の中で思う。けれど私はそこに踏み込むことができなかった。なんでかはうまく説明できないが、もし彼女に出会えなかったら、そんなことを考えてしまったからなんだろう。一年前の私の夏はそこで終わった。


 その翌年、私は再び海沿いの町まで来ていた。一つ目の看板、二つ目の看板を通り過ぎる。三つ目の看板、私はそこの自販機でスポーツドリンクを買った。そして四つ目の看板、一年前と同じ『この先に海の隙間あり』という文字。通路に入るとそこには一年前と同じ、手入れの行き届いた空間が広がっていた。私はそこにあるベンチに座り少しだけそわそわしながら辺りをキョロキョロとする。「何してるんだか」心の中でつぶやき、私は席を立とうとした。


「お姉さん、海を見に来たんですか?」

 正直言うと彼女の直前まで少女の声も姿も、はっきりとは思い出せないでいた。でも振り返った瞬間、途端に一年前の記憶がよみがえった。


「あのさ、ごめんね。行けなくって」


「いいよ。覚えてくれたみたいだし、許してあげる。もう逃がさないから」


 薄暗い路地裏の建物と建物の先を横目で見る。思わず目を覆ってしまうほどに眩しい砂浜と海、それに入道雲が見えた。

「そういえば私、去年結局海に行ってなくって……」


「ええ……海を見に来たって言ってたよね……。いいよ、じゃあ行こう」

 少女は私に手を差し伸べた。私は今やっと夏に追いついた。

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