43話 結婚

 毎日レオナードに会うために二人で通った教会。

 今はもうここに英雄はいないけれど。あるのは、パラドナに似せて作った翠色の女神像だ。


 その女神像の前で、神父がローズマリー達を見ていた。

 指輪の交換も、結婚証明書へのサインも、滞りなく済んでいる。あとは誓いの言葉と、キスを残すだけ。

 目の前の神父が口を動かしていたが、ローズマリーの頭にはぼんやりとしか入ってこない。


「──誓いますか?」

「はい。誓います」


 ディリウスは神父の問いに、お決まりの言葉をまっすぐに告げていた。


(本当は嫌だろうのに……でも誓いたくないだなんて、言えないものね)


「新婦ローズマリー。あなたは新郎ディリウスを夫とし──」


 夫。これが終われば、もう正式な夫婦だ。

 本当にこれで良かったのだろうかという疑問が浮かんでは消える。


「──生涯を共に歩むことを誓いますか?」

「……はい、誓います」


 誓う以外に、選択肢はなかった。

 政略結婚など、ままあることなのだ。気にしていても仕方がない。

 しかし自分のわがままのせいでと思うと、ローズマリーの気分はやっぱり晴れなかった。


「では、誓いのキスを」


 ディリウスが手順通り、ローズマリーの顔を覆うヴェールを上げた。

 これが結婚式のクライマックス。物語ならここでちょっと待ったコールが入ってもおかしくない場面だ。


(レオ様がそんなことを言ってくれるわけもないし……)


 ローズマリーは横目でこっそりとレオナードを盗み見た。

 彼もまた王族の正装をしていて、とてつもなくカッコいい。


(誰でもいいから、この結婚式を止めて……ディルのために……)


 自分から式を壊す勇気はないが、誰かが止めてくれたなら受け入れられる。

 しかしローズマリーの願いも虚しく、誰もちょっと待ったコールはしてくれなかった。


「……ローズ」


 名前を呼ばれ、ヴェールを上げやすいように俯いていた頭を、少し上に向けた。

 ディリウスの綺麗な空色の瞳を見ると、ドクンと胸が鳴ってしまう。

 誰にも止められない……ということは、これからディリウスとのキスが待っているということだ。


(私は、嬉しいけど……っ)


 ローズマリーのファーストキス。しかも、こんな大勢の前で。

 喜びと羞恥と、ディリウスへの罪悪感で心はもうぐちゃぐちゃだ。

 そんな気も知らず、ディリウスの手がローズマリーの耳に掛けられた。そしてゆっくりとディリウスが迫ってくる。


(し、心臓の音が聞こえちゃうかも……っ)


 胸を突き破ってしまうのではないかと思うほどの、激しい鼓動。

 あまりにもディリウスが近くて、近すぎて。

 ローズマリーが思わずぎゅっと目を瞑った瞬間──


 ディリウスの唇がローズマリーの頬を掠め、離れていった。


「女神様に祝福された若き二人は、これで正式に夫婦となりました。これからの人生において、お二人が常に愛と理解、尊敬を持って共に歩まれますように。どうかお互いを支え合い、共に幸せな人生を築いて……」


 神父の長い祝福の言葉。

 ローズマリーは聞くふりをしながら、たった今起こった事が理解できずに頭が混乱する。


(え? 今、キス……してない……)


 ほんの少し頬を掠めただけのキス。当事者でなければ、ちゃんとキスをしたように見えたかもしれないが。

 あれは、確実に唇を避けたとしか思えない。いや、避けられてしまったのだ。


(私とのキスが、そんなに嫌だったんだわ……)


 途端に涙がぼろっと溢れた。泣いてはいけないとわかっているのに。

 ディリウスが驚いたようにローズマリーを見て、神父は慌てて言葉を紡いだ。


「新婦の喜びの涙は、まさに愛と幸福が溢れ出た証です。女神様は、その涙を尊い祝福として受け取ってくださるでしょう。女神様がいつもお二人を見守り、導いてくださいますように。皆様、この新しい夫婦を温かい拍手で祝福しましょう」


 言い終えるが早いか、大きな拍手が教会に鳴り響いた。

 ローズマリーは手順通り、ディリウスと共に参列者の方へと体を向ける。二人で一礼した後、退場すべく一歩前に足を踏み出した。


(なんだか頭がぼうっとするわ……足元もふわふわして、現実じゃないみたい)


 涙はなんとか止める事ができたが、レオナードにおめでとうと言われると、また涙が溢れそうになる。

 自分の感情がどうなっているのか、もうわからない。

 ただ、誰か助けてほしい……それだけだ。


 教会を出ると、また馬車に乗り込まなければならない。

 今度は結婚パレードで、王都を一時間かけて巡っていく。


「大丈夫か、ローズ。無理ならパレードは中止に……」

「ごめん、大丈夫よ……。ちゃんと王族としての仕事はこなすから、安心して」


 結婚してすぐの、一番大事な仕事を放棄するわけにいかない。

 ディリウスに酷い事をしてしまっているのだから、仕事だけはきっちりこなして迷惑を掛けてはならないのだ。

 一時間のパレードが終わると、今度は王城に戻る。祝宴が始まり、来賓相手に愛想を振りまいて適当に話を合わせていく。

 さらに会場を変え、新郎新婦のファーストダンスがあった。その後は舞踏会さながら出席者も踊り、合間に交流を深めていく。

 最後にゲストを一人一人挨拶しながらお見送りし、ようやくこの日の日程は終了だ。

 全て終わった時には、もう夜の十時を回っていた。


「お疲れ、ローズ」

「ディルも」


 ディリウスの目が、優しく笑った。

 心から労わってくれているのを感じて、ローズマリーも微笑み返す。

 こういう行事ごとが苦手なディリウスにしては、本当に頑張っていたと思う。やはり王族の仕事は大変だと、改めて痛感してしまった。


「じゃあ俺、ちょっと風呂に入ってくるから」

「そうね。私も着替えさせてもらわなきゃ……もうドレスが苦しくて死にそうよ」


 会場を移動するごとに着替え、その度にコルセットをきつく締め直されていた。ようやく地獄から解放される気分だ。


「ゆっくりしていいからな。じゃ、また後で」

「え……ええ、後で……」


 ディリウスはローズマリーに背を向けて去っていく。

 後でという意味を考え、ローズマリーは顔を熱くした。


(初夜だわ……ディルはちゃんと、してくれるつもりなんだ……)


 そう思うと、嬉しさで胸がきゅうっとなる。


(キスはきっと、人前じゃ恥ずかしかったからあんな中途半端になったのよ。夫婦となった以上、ディルはきっと、私の方を向いてくれる……)


 ディリウスは誰よりも優しい人だから。

 好きな人への思いを断ち切って、自分を見てくれるつもりでいるのかもしれない。そんな希望が少し見えてきた気がして、ローズマリーは全身が震えるように喜んでいた。

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