こんぶ

山本鷹輪

こんぶ

 夢から覚めると、鍋の底。底の広さだけを見ても、幼き頃に通った学校のプールより大きい。横には私の背丈と同じくらいの大きな乾燥昆布。首が痛くなるほど頭を上に傾けても、何かを覆い隠すように霧がかっていており、外の様子を確認することができない。


 頭が痛い。脳の萎縮を感じる。目を擦り、ほのかに鉄の香りのする地面を撫でた。鍋独特のキュッとした手触りを確認。そして、隣にどっかりと寝転ぶ昆布を尻目にため息をついたのであった。

 私はつま先で昆布を突いた。乾燥を経て、接地面が不規則な昆布は、私の小突きで揺れる。鍋底とぶつかりコツンと音がなる。

 信じがたいが、私の隣に巨大な昆布があるということは間違いないようだ。

 おそらく、私の約20年の人生で一番無機質で異様な空間であろう。


「君はいい意味で変わってる」

昨晩、そんなことを飲み会でサークルの先輩に言われたような気がする。

 真に受けて鼻高に枝豆をつまむ私を、同期の鎌田が冷ややかな笑みを浮かべながら観察していた。この鎌田という男は大変な冷血漢で、婉曲的な言葉やしぐさで私たちに劣等感を抱かせることに長けていた。

「平岡くんは確かに変わってるもんね」

酒が不味い。私はそう感じた。あと数口に分けて飲むつもりだったビールを無理やり流し込み、私は次に飲む酒を選ぼうとメニュー表を取り出す。すると、鎌田がメニュー表の端をつまみ、

「今日、ペース早いんじゃない?」

と言った。私はその手を払いのけてビールを注文した。


 それから、酒が不味くなるたびに酒を流し込むという無謀な行いをし始めた所で記憶が止まっていた。

 体に拒否され、持ち主であるという感覚が薄れる。今も酔いは収まっていなかった。私は鈍い体を動かすことを諦め、四肢を投げ出すように寝転んだ。まるで、隣で横たわっている巨大な昆布のように。


 私は目を閉じ、一面銀色の世界を肌で感じることにした。無とも無限ともとれる世界。数多の理法を忘却し、何かに身を託す。母親の腹の中に戻ったかのような不思議な感覚である。


 私はしばらくそのままの体勢だったが、足を組んでみたり、手を頭の後ろで組んでみたり、この世界での己の在り方を模索し始めた。

 際限なく広がる草原にいるように感じれて、その心地良さに自分でも驚いていた。          


 ぽたぽたと水滴が私の頬に落ちる。急な出来事であったが、体が重い私は遥か遠くで本当に存在しているであろう自然を克明に想像することにした。揺れる名もなき木々に、小雨。落ち葉を見やると、知らない葉っぱの中に楓の葉が混ざっていた。落ち葉を踏むと足が沈み、茎が折れる感触が伝わってくる。沼とは違う感覚。累積した葉の一つ一つの抵抗なのだ。酔いの残りのせいか数秒間の間、想いに耽っていた。


 やがて大きな騒音がして、反射的に目を開けると、水が大量に流れ込むその瞬間だった。そう、私は頬に感じた水滴の所以に気付かなかったのだ。

 滝のように飛沫を挙げるわけでもなく、まっすぐに落ちてくる水。焦る暇もなく、私の足はすくんでいた。

 水はとめどなく落ちてくる。私は震える膝を抱え、立ち上がる。全身に力が入らない。脳よりも体がこの恐怖を鋭敏に受け止めているのであろう。

 それから十秒ほどで水は膝下にまでたまってきた。昆布が地を離れ、水面の少し下を漂っている。隣で横たわってた昆布が私の上半身にまで浮き上がってくる恐怖は筆舌に尽くしがたい。この時になって、私と昆布との間に身分的な差がないのではないかという疑問が湧いてきたのである。

 鍋の容量の半分より少し下ぐらいまで水は注がれた。半分よりも下といえど、鍋底に足を付けながら呼吸するには身長が足りない。足をばたつかせながら、餌やり時の鯉のように口をパクパクさせなければならなかった。

 浮いている昆布を掴み、浮き輪替わりにしようと試みてみるも、昆布の浮力は私の体重を支えるほどの強さを兼ね備えてはおらず、徐々に沈んでいく。昆布は水に触れ、元々のしなやかな海藻に戻ろうとしていた。


「滑る…」


 爪を昆布に食い込ませ自分の体の方へ寄せる。変に力を入れた私の腕は悲鳴を上げ始めた。親指の付け根が攣り始めている。しかし、爪を以てしても昆布は言うことを聞かなくなってきたのである。

 ついに昆布は浮力を持たなくなった。私は手を放し、昆布は底に沈んでいった。

 

 私は何にも頼ることができない。二日酔いの体のことなど、すっかり忘れていた。水をかき分け、足をばたつかせ、無様に浮かんでいた。すると、手でかき分けていた水が徐々にぬるくなっていくではないか。

 私は鍋の外にキッチンの光景を思い描き、絶望した。


「君は食材になる覚悟をしなければならない」


鍋底から声がしたような気がした。


「こっちへおいで。心がけ次第で水に沈んでいても苦しくはない」


昆布だ。きっと昆布の声だ。


「いやだ、沈みたくない。私はここから出たい」

私は水面に両手を叩きつけ、喚いた。ぬるま湯が徐々に私の体を温める。

 いつもなら気を休めてくつろぐのだが、今はそれどころではない。声帯の限り叫ぶ。「食われるなんてごめんだ」、「生きたい」と。


 しかし、そんな私の慟哭をあざ笑うかの如く水面から湯気が出始めた。

 昆布の嘲笑。

「君が具材とは決まってないだろう?」

相変わらず、湯気は白く、ゆらゆらと漂っている。

 私は意味も分からず、水面をもがき続ける。

「君はメインディッシュのつもりかもしれないが、僕と同じ出汁を取るためだけの使い捨ての食材かもしれないだろといっているんだ」


「あぁぁ…」と吐息が漏れた。

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こんぶ 山本鷹輪 @yamamoto_takawa

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