さくらパレット
乗倉いのり
1:黒いツバサの男の子?
すいすいと線を引く。
さらさらと色を塗る。
真っ白なスケッチブックに、カラフルな光景を描き出す。
気の向くままに、心の躍るままに――。
「――はっ!」
手に滑る冷たい感触で、私は我に返った。
スケッチブックを支える、手の甲。紙からはみ出した筆先が、べったりと絵の具を塗りつけていた。
「あーあー……またやっちゃったわね……」
夢中になって絵を描いていると、よくあることだ。ポケットティッシュを取り出して、手についた絵の具をふき取る。
そのついでに、今まで描いていた絵を眺めてみる。
ここから見える花壇を描いた水彩画……のつもりだったんだけど……。
「……」
……描いている時は夢中だったけど、いざ改めて見てみると、何とも言えない出来ね。
彩りはキレイだけど、花の形はゆがんでいるし、何だかごちゃごちゃして見えるし……。
『姫さま。やっぱり、ちゃんと下描きするべきだったんじゃないですか?』
「……うるさいわね、リトルテディ」
思っていたことをそっくりそのまま口に出したのは、クマのぬいぐるみのリトルテディだった。
……え? もちろん、私の妄想よ。ぬいぐるみが喋るわけないじゃない。
頭の中にお友だちを作り出して、一人で会話しているの。妄想は小さい頃からの特技だから、このくらいお手のものよ。
「楽しいからいいの! 何をどんな風に描いたって、怒られることなんてないんだから」
『姫さまは相変わらずですねえ』
「当然よ。『楽しく描く』のは、私のモットーだもの」
そう。絵を描いているときは、とっても楽しい。
目に映ったたくさんの色を、思ったままに紙の上に描き出していく。専門的な話とか、技術だとか、そういうことは何も考えずに。
(そうよ、それでいいの。見返して後悔する必要なんてないのよ)
何だか傾いてしまった気持ちをリセットするように、筆をバケツに突っ込んだ。鮮やかな絵の具の色が、水と混ざり合う。
「……場所、変えようかしら」
ぱらり、とスケッチブックが風に吹かれてめくれた。
中学生になっても夢見がちなのが、特技であり短所。
それが私――
休日の公園を道沿いに歩くと、人がたくさんいるのが分かる。
遊具で遊ぶ子どもたち。犬の散歩をするお姉さん。テニスコートで練習をするお兄さんたち。
「元気ねえ……」
『姫さまは元気じゃないんですか?』
「ああやって動き回れるほどの元気はないってことよ」
春だから、みんな陽気な気分なのかもしれないわね。
元気なのは人間だけじゃないみたいで……道ばたの花壇にはちょうちょが舞い、黒い鳥がたたずんでいる。
『カラスですかねぇ』
「うーん……ちょっと違う気もするわね。何の鳥かしら」
色とりどりの花を背景にして、羽の黒色がよく目立っている。これはこれで絵になる感じね。ぽかぽかの日ざしを身体中に浴びて、気持ちよさそうだわ。
「うーん……どこも人が多いわね」
こんなにいいお天気で、しかもお休みの日。桜の季節は過ぎたけれど、ちょっと外に出てみようという人が多いのかもしれない。
……というか、私もそうだもの。人のことは言えないわ。
「――って、わ!?」
いつの間にか、さっき見た黒い鳥が私の足元に来ていた。
とてとてと細い足で少し道を進んで、こちらを振り向く。光る二つの目が、私をじっと見上げていた。
『何だか……ついて来てほしい、って言ってるみたいですよう!』
「……リトルテディ、あなた鳥の言葉分かるの?」
『分かりませんけど、そんな気がします!』
「あなたって能天気よね」
そうやって私がリトルテディと会話している間に、黒い鳥はまた歩き出す。
「ちょっ、待ってちょうだい……!」
私は慌ててカバンを持ち直し、その後を追いかけ始めた。
黒い鳥は黙ったまま、とことこと歩いていく。小道をたどって……木陰を通って……芝生を横切って。
(どこまで行くの……?)
鳴きもせずにひたすら進む鳥さんを、追いかけて追いかけて。
私たちがたどり着いたのは、建物の陰になっている、公園のすみっこのあたりだった。
「ええっと……」
素直について来てしまったけど、私に何の用があるっていうのかしら?
不安になって辺りを見回した、そのとき。
ゆらり、と――鳥の黒いシルエットがゆらめいた。
水に絵の具を落とした時のように、形をなくしてもやのように黒色が広がっていく。
「……え?」
何、これ。日ざしに当たりすぎて幻覚が見えてるのかしら?
ぱちぱちとまばたきをしてみたけれど、その光景は変わらない。私の目が変になったわけでも、見間違いでもない。
そして、黒いもやは――絵の具のように溶けて消えるのではなく、また集まって新しい形を作り出した。鳥の何倍も背が高くて、手も脚もすらっとしていて――。
そう。そこにいたのは、鳥さんではなく……人間の男の子だった。
「……」
彼は、ゆっくりと目を開ける。黒い髪が、さわさわと風に揺れている。
「驚かせてすまないね」
「……!」
凜とした声で、男の子は言葉を発した。
髪に瞳、服や靴まで、黒づくしの格好をした男の子。
彼は、私の目がまっすぐに見ながら、言った。
「ねえ、きみ。僕たちの世界を救ってくれないか」
……。
…………?
「な、何ですって?」
「きみに、僕たちの世界を救う手伝いをしてほしいんだ」
「聞こえなかったわけじゃなくて……」
どういうこと?
『世界を救う』って何。というか、『僕たちの世界』って何? こことは違う世界から来たってこと?
混乱する私をよそに、男の子は、握手を求めるときのようにこちらに手を差し出す。手にも、黒い手袋をはめている。
「急なお願いだとは分かっているよ。でも、きみならきっと、『特別なチカラ』を使いこなせると思うんだ」
「えっ……と……」
そっとほほ笑みかける男の子に、私は言葉を詰まらせた。
何なの、このキラキラしたオーラは。
悪い人じゃない、というのは直感で分かる。
でも、でも……。
「ひ、人違いじゃあないかしら!?」
そう叫ぶと同時に、私はその場から逃げ出した。
「あ、ちょっと……!」
制止する声も聞こえないフリをして、道を戻っていく。
世界を救うとか、特別なチカラとか。
それは……絵本とか、妄想の中だから楽しめる話なのよ。
現実の私には――荷が重すぎたんだ。
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