バッドシンガーを憐れむ歌
@hasu87da
第一幕
不条理とは(何もできない)ということ
「一学期までは、主に皆さんが中学のときに習った英語を改めて振り返るということをやってきました」
静かな教室。聞こえてくるのは教師の声か、それとも、うるさい蝉しぐれか。
「二学期からはいよいよ、本格的に高校生が習う英語の……主に文法を学んでいきます」
教科書を片手に、淡々と教壇の上で説明を続ける女教師。
透き通るような女教師の声高い声が教室中に響き渡る。話している内容こそ至って普通のことだが、なぜか重々しい。その重々しさこそが、まさにこの教室のピリピリと張りつめたような静粛を作っている要因の一つだった。
この教師が起こると怖い――おそらく皆がそう熟知しているのだろう。普段、授業中に友達としゃべるような男どもも、彼女の前では何一つ口を発さず大人しく教科書とにらめっこだ。
「まぁ、と言っても最初の方は、あくまで中学と重なる部分があるんですけど」
言いながら、女教師は教壇を下りる。ゆっくりと、生徒たちが座っている席の間を進んでいく。
「中学のときに習ったと思いますが、皆さん『不定詞』を覚えてますか? 一言でいえば『to』プラス動詞の原形ことです。不定詞には三つの用法がありましたよね。一つは名詞的用法、もう一つは形容詞的用法。そして三つ目は――」
突然教師の言葉が止まった。
教室全体に不審な空気が流れ始める。
「籔島さん」
教師は言った。
「籔島さん」繰り返し、教師は言った。
が、その生徒からの反応は見られない。
「籔島さん、聞こえますか? その手をどけてください」
籔島ハク。その生徒はなぜか、両手で耳を塞いでいた。俯いたまま、完全に瞼を閉じている。
急に教室がざわつきだした。
『まただよ』
『……てか、あれやばくね』
そんな男どもの声が、奥の方から聞こえてきた。
その時だった。
「籔島ッ!」
女教師はバンッと――手に持っていた教科書を勢いよく机の上に叩きつけた。
場が一気に静まり返る。一瞬、悪寒を感じたのは気のせいか。
「………」
叱られた当の本人と言えば、今になってようやく我に返ったように先生の顔を見上げた。まるで今起きた出来事を何も知っていないような目つきで。
彼は慌てて塞いでいたその手をどけた。とっさに周囲を見渡しては、教室の全員が自分生を向けていることに気づく。
「籔島ッ!!」
今度こそ、この教室にいる全員に悪寒が走った。
再び、女教師は教科書を机の上に叩きつけた。その衝撃で、彼のシャーペンと消しゴムは後ろの遠い席に飛んでいく。
教室が一気にしんとなる。耳元に届いてくるのは、鳴りやまない蝉しぐれの音だけ。
「もう何度目なんだ?」教師は言った。
「………」
「何度目なんだっ!!」
「―――ッ!」
教師は《いよいよ》、籔島の机を蹴った。
「――なぁ籔島。私を舐めてるのか?」
「……舐めてません」
「じゃあなんでこんなことをするんだ?」
「それは………仕方がなくて……」
「仕方がない? いったい何が仕方ないんだ、なぁ!」
「………いえ……その、すいませんでした」
「謝れとは一言も言ってないぞ」
「………」
「なんだ? 何も話さないのか? また」
「………」
それでも、籔島は頑なにそれを話そうとしなかった。
女教師は呆れたようにため息をつく。
「この授業が終わったら私と一緒に職員室に来なさい。いいですか?」
「……はい」
女教師は再び教壇の方へ戻ると、何もなかったかのように授業を再開した。
△△
『さて、今回はとてもスペシャルなゲストがこの番組に来てくださっています。さっそくお呼びしましょう。今まさに、日本で大物アーティストを排出し続けている作曲家、兼、音楽プロデューサーの、哀川ユウさんです!』
――スタジオが、大きな拍手と歓声で包まれる。
『どうもどうも』
男はぺこぺこ顔を下げながら、親しげに現れた。一人の男性キャストが、その男を椅子から立ち上がり迎い入れる。
『本日は、お忙しい中ありがとうございます』
『いえいえ、全然暇ですよ』
『そんなことないでしょー。すごいじゃないですか、今。こないだだって、あなたが一からプロデュースなさったアーティストさんがスペインでライブやったって話じゃないですか。もう、今や世界も夢ではないんじゃないですか?』
『そうですね、一応スペインでのライブは成功したって聞きましたけど………いやぁ、まだまだですね、世界はそう簡単じゃないです』
『そうなんですか。いやでも、こうやって日本中でヒットを連発するようなアーティストたちを生み出しているってだけでも、相当すごいことだと思うんですけど。………どうしてこんなに数々の大物を生み出せるんですか? 何か秘訣があったりするんですか?』
『それは――』
ゲストの男が何かを言おうとしたその瞬間、急に見ていたテレビの画面が真っ黒になった。
「あ、ごめん。テレビいいところだった?」
そう言ったのは母だ。彼女の手には黒いリモコンが握られてある。
「うんん、いい。ご飯食べる」
四人ほど座れるテーブルの上には、二人分の料理が置かれてあった。自分の向かい側には母がいる。
ハクは、箸で切り分けた一口サイズのハンバーグを口いっぱいに頬張ると、やがてもぐもぐと嚙み始めた。そこに至福の顔は伺えない。
「今日、学校どうだったの?」
「ん?」
何気なくそう尋ねる母。ハクはハンバーグを飲み込んだ後、すぐに口を開いた。
「普通だった」
「そう。……まぁ、まだ始まったばかりだもんね、二学期」
やがてまた訪れる沈黙。夕食はいつもこんな風だから、別にそこまで気まずいなんてことはない。ハクはすぐさま、ご飯を口の中へと放り入れた。
「あ、そうだった」
母は思い出したように再び口を開いた。
「拍、私明日仕事で帰りがいつもより遅くなるから忘れないでよ、家の鍵。ちゃんと持って行かないとまた家入れなくなるからね。わかった?」
――すまなかった。今まで本当にすまなかった、籔島。
「ねぇ聞いてる?」
「……あ、うん。わかった……」
――違います。ぼくが悪いんです……全部。本当にすいませんでした、先生。
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