2─1:序章

 ──時は遡り、十年前の現代。




真緒まお頼むよー、あと五万!俺の口座に振り込んどいて!」


 仕事の休憩時間、私の家で同棲している彼からいつもの電話がかかってきた。


「また……?三日前に現金渡したばかりじゃない」

 食後の缶コーヒーを片手に、職場の片隅で人知れずため息をつく。


 私が二十一歳の時にお付き合いを始めた彼氏で、かれこれ九年目の付き合いになる。

 五年前にリストラで仕事を失ってからというものの、職探しをする様子もなく今では毎日のように私にお金を要求するようになっていた。


 最初は「彼が立ち直るまで私が支えてあげなきゃ」なんて義務感を感じて始めた同棲生活ではあったのだが、いつまで経っても立ち直る気配のない彼の様子に不信感が募っている状態である。

 しかしながら、一緒に暮らそうと提案したのが自分である手前「出ていけ」とも言えず、また、自他ともに認める仕事人間な自分が九年も同じ人と付き合えているという事実が「今後この人以上に好きになれる人は現れないのではないか」と決断を踏み止まらせている。


「そんなこと言うなってー、あ、ほら!真緒の好きなプリン買っておいてやるから!」

「プリンは五万円もしません!」


 ふと手元の腕時計の時刻を確かめ、銀行に向かう時間を逆算する。


「……分かった、こうして話してる時間無いから今から振り込みに行く。次の給料日、まだ先なんだから、無駄遣いしないでよね?」

「ありがとー、愛してるよ!」


 通話を終えるボタンを片手で押し、再度画面に表示された時間を確認する。


「休憩時間、あと十分しかない!急がなきゃ……!」


 缶コーヒーを一気に飲み干し、私は昼のオフィス街を駆け出した。




 ***




根岸ねぎしさん、お疲れ様―」

「根岸さん、お疲れ様です」


「部長、田中さん、お疲れさまでした。お先に失礼します」


 今日も1日お世話になったオフィスに一礼し、踵を返そうとすると不意に呼び止められる。


「根岸さん!今日は本当にありがとうございました!僕のミスだったのに、先方への謝罪に一緒についてきてくださって本当に助かりました!」

「山本君……」


 取引先に一緒に頭を下げに行った、この会社に入社して間もない山本君から勢いよく頭を下げられる。


「良いから、気にしないで?先方もこれからも懇意にしてくれるって言ってくれてたし、何も問題ないわ」

「はい……でも、根岸さんの言葉に心動かされていたんだと思うんです。僕のミスで会社に損失を与えるところでしたから、どうしても改めてお礼が言いたくて。それと、申し訳なくて……」


 直属の上司に絞られていたのかその目には涙の痕が残っている。

 新人の頃のミスは本人に精神的ダメージを与えてしまう、彼のように真面目な子なら尚更だ。これまでにも会社に来なくなった第二新卒の子たちを私はよく知っている。


「うーん……分かった!明日寝覚めの一杯に缶コーヒーをおごってくれる?山本君におごってもらう缶コーヒーがあれば、私明日も一日頑張れちゃう!ね?だから、明日も私のために来てくれる?」

「!」


 ハッと顔を上げ、気まずそうに視線を逸らす姿に「やっぱり明日会社に来づらかったか」と彼の心情を察する。


 幾分かもじもじした様子を見せた後、意を決したのか頭を下げられた時と同様に勢いよく顔を上げる山本君。


「それなら、食後のデザートもおつけしますよ!根岸さんは何がお好きですか?」

「本当に気にしなくて良いのに……」

「そういうわけにいきません!僕もこの気持ちにけじめをつけたいんです!」


 彼の厚意に甘えるべきかひとしきり熟考した上で一つだけを思いつき、それが顔に出ていたのか尚も山本君に詰め寄られる。


「何か好きなもの思いつきましたか?」


「うん。プリン……、プリンが好きだな」




 ──どうせ彼は買ってきてくれてはいないのだ。

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