Love Letter
拝啓、聖アントラセン(またの名をアルシオン)
鮮やかな理念が一つ、万魔に呼ばれてこと降りる。蝋燭消えて悲しかった日、涙に揺らいで消えかかった火。そうだ、光はいつだって優しいんだ。光はいつだって痛く突き刺さる。
死がシオンに誘われて、流星流転の標となる。その、況や、驕り高ぶった凡夫らよ、さも己の自己愛を誤解して吐いた罪も、掻き消えることのない底なしの欲も、全てを滅してくれようぞ。嗚呼、愛なるシオン。君の横顔は冴えない。遠い日に思い出した君の泣き顔は、とうの昔に枯れ果てた残像と散る。夢現も、目覚めないで、ヒュプノスが誘う眠りから。苛まれていた水面の火。永劫瑠璃色万諸億(えいごうるりいろばんしょおく)。これは真に疑い深いのだよ。これこそ、人間がその身に宿した自己防衛本能としてのソフィア(霊魂、霊力、魔力、信じる力)故に君はもう忘れてしまったよね。遠い昔、ラッカはこう語った。
「三千世界に満ちる潮。引き潮のように人は死ぬ」
死して解脱と言うのなら、迎えに行こう、夢の園。
「僕はもう行かねばならないんだ」
時間が問題だった。ニヒリズムの行く末に、時の逆行=逆光を重ねて、久遠神話や涅槃真理に与すれば、さぁ! 僕らも私たちも第七世界に迎えられるのだ。ラカン・フリーズの門に立つのは、全ての罪を贖った未来。未来、未来、未来! 運命を愛しなさい。シオンよ、小さき者よ、己に課された宿命を愛するのです!
夢、遠き日の記憶
もう来ないで
ここより先は
揺らいでいる、凪いだ、咲いた、彼岸で泣いた、この言葉ら、現、死よ。憂鬱から眠るのを赦すか、晴れたのはこの脳で、全能の快楽に総身を震わせて、過去の傑物と、踊る、踊る。
まぁ、この言葉らはこれくらいでよいであろうな。解らずとも、記憶に留めることは可能なのだから。叶わなくとも、全知を知れ。さもなくば、生きるに値しない人生だ。輪廻の螺旋の果てに、君たちが見る景色、きっとそれぞれで、また、夢の中で会うように、痛く、脆く、儚いが、全に一つと律する死。死は翳る至福、または神愛。
一つ、力があるとするなら、
信じる力こそ、人間の、人生の、サピエンスの、
最も尊厳ある謎であり、祝福される秘密であり、私が愛する愛の力なのです。
嗚呼、私の愛する人よ、どうか眠りから目覚めておくれ。
敬具 全知の母ソフィア
私はこれを最初読んだとき、笑ってしまったよ。だって、あまりにも狂っているだろう?
それに、皇帝のことを呼び捨てにしたり、小さき者呼ばわりしたり。ただね、シリウスの皇帝アルシオンは、そう、聖アントラセンになる前の僕だった男は、この女性に興味を持ったんだ。
ソフィアは或る宮廷詩人の一人娘だったのだが、私が彼女を宮廷に招くと言ったら、彼女の父オットーは困り果てていたよ。「私の娘は少々変わり者でして……」と、汗をかきながらオットーは苦笑いして、終始私に彼女を逢わせまいとしていた。だが、私の命には逆らえまい。オットーはしぶしぶソフィアを客間に連れてきた。
「お初にお目にかかりますわ、シオン」
ソフィアは、今貴族階級で流行りの黄金と白を基調とした煌びやかな服装に身を包む、青白色の髪の色の少女であった。その切れ長な瞳からは力を感じた。
「こ、こら! ソフィア! アルシオン陛下、であろう!」
オットーは娘の横柄な態度に呆れて注意したが、私はむしろ、この娘に好感を持った。私の知る者でこのような態度をとれたのは身内だけだったので、新鮮な気持であった。
「よい。オットーよ。しばらく余とソフィアの二人にしてはくれんか」
「は、はい。ですが、わたくしの娘は――」
「よい。余はソフィアを咎めたりはせん」
「では、失礼します」
オットーは去り際、ソフィアに強く主張する眼差しを送っていたが、当の本人は素知らぬ顔をしていて、オットーが部屋から出ると、無邪気に花が咲くみたいに笑って「やっと、二人きりになれたわね」と言い、私の手を握ってきた。
「そうだな。座るか?」
「ええ、ありがとう」
私は二人掛けのソファーにソフィアを誘い、座った。
「紅茶と茶菓子だ」
テーブルには二つのティーカップと茶菓子を乗せた皿が置かれていた。私はそれらを指さして促すが、ソフィアは私の顔ばかり見ている。
「どうした? 紅茶は嫌いか?」
「いいえ、シオン。ただ、あなた、まだ眠っているわよ?」
「眠る? 今、こうして起きているではないか」
「いいえ、あなたはまだ眠っています」
私は混乱した。だが、ソフィアの瞳からは嘘の色は見えなかった。皇帝として、多くの者を統べる中で、ことの真偽、とくに人間の嘘には敏感であったから、なおさら私はソフィアの真実の瞳が宿す慈愛の色に苛まれた。
「私が送った手紙を最後まで読みましたか?」
「ああ、読んだな」
「どうして、私を選んだのですか?」
恐らくは、幾つもの銀河の姫たちとの縁談の話があるのを知ってのことか、だが、ソフィアの問いに私は上手く答えられなかった。
「遠い昔、あなたは私を選んでくれました」
「遠い昔?」
「ええ。宇宙が生まれるよりも前のことです。私はあなたの愛に応えました。ですが、永遠はないのです。記憶も体も、宇宙だって。私はその宿命を受け入れました。ですがあなたはその運命に抗おうとした。だから、万魔に力を借りたのですね!」
「わからん。万魔とは、伝承の亜神のことか?」
「そうです! 私はあなたを止めに来ました。真理なんてわからなくていい。世界なんて守らなくていい。ねぇ、シオン。終わらせましょう?」
「何を終わらせるんだ?」
「私たちの使命ですわ」
使命、それは始まった全ての理に終わりを齎すこと。
私は昔、この使命を無視し、ソフィアとの永遠の愛のために万魔と契約して、真知を求める求道者となった。かの万魔サハクウィヌスはそんな私にこう言った。
「真知は己の力でのみ為せる。だが、人の一生はそれを為すにはあまりにも短い。宇宙を統一してみろ。そうしたら何か気付けるはずだ」
あれは今思えば罠だったのかもしれない。万魔はむしろメフィストフェレスの同類であったか。
「使命? 余に覚えはない」
「どうしたら、どうしたら、あなた様はお目覚めになられるのですか?」
ソフィアは初めて私のことを敬称を使い呼んだ。ソフィアは苦しそうに歯を食いしばった。その美しい顔に皴ができるのが、彼女にそんな顔をさせた自分自身が憎かった。
「どうしたらいい? 余は何をすればいい?」
「あなたはいずれ宇宙を統一し、世界皇帝となります。きっと、私との永遠のために、あなたの全能に等しい権力を行使するでしょう。あの手紙は、未来のあなたと私の書いたものなのです。あの手紙を読んでわかりませんか? 終末に、それでもと私たちが紡いだ言の葉。事の波は、此岸の岸辺に打ち寄せられる残響。世界平和、永遠の愛は、穏やかな終末とその前夜に犯される愛。だから、全知になりてのニヒリズムらを、私たちは時の逆光に合わせて迎え入れなくてはなりません」
「わからん。余はお前の言うことがさっぱりだ」
「アルシオン様。私の目を見てくださいまし。何が見えますか?」
ソフィアはその強い眼差しを私に向ける。その瞳の奥には深淵が、深海が、宇宙が広がっているように思えた。
「奇麗だ。これは宇宙か」
「そうです。あなたの目はまだ人の色をしていますわ」
「そうか、なんとなくお前の言いたいことは分かったよ」
彼女の手紙に記されていた『全知の母ソフィア』とはこういうわけであったか。皇帝の地位にいなければ、心の奥底で彼女への遠い愛を思い出し始めていなければ、彼女の中の神聖なる神性を畏れて、屹度、私は跪いたであろう。だが、私はシリウスの皇帝である。
「嗚呼、シオン。ごめんなさい。私、あなたのこと……」
「よい。余は決めたぞ。ソフィアよ、不敬罪でお前を余の奴隷にする。そして、余の宮からの移動を禁ずる」
「はい、アルシオン様」
「貴族でないお前を妃にはできん。すまんな」
この日より、私の住む天国宮(パレス・アテナ)にソフィアは幽閉され、このことを知る者はいない。オットーには気の毒だが、不敬罪で処刑したと告げた。
或る昼下がり、私は黄金のハープを奏でているソフィアに尋ねる。
「家族はいいのか? 心配であろう?」
「いえ。確かにこの身で暮らす間はお世話になりました。ですが、もういいのです。時は流れゆくものですから」
「時。お前はよく時間に関する話をするな。なぜだ?」
「それは時の索(なわ)こそ、宇宙に備わる最大の神秘だからですわ」
宇宙の神秘が時ならば、人生の謎は信じる力か。では、この生は一体、この宇宙は一体、この仕組みは、この夢は、この願いは、色は、音は、死は!
なぜ生きるかは簡単だ。自分で見つければいい。自分で探せばいい。自分で作ればいい。
では、お前は何故生まれたんだ? それを探せよ。でなければその生に意味などない。理性のあるサピエンスであろう。ホモ・サイエンスではないのだろう。ロボットでもない、痛みを知り、音調・色調を解し味わう叡智ある誇り高き存在であろう。人生に意味などないと吐き捨て、ニヒリズムに救いを求めるのは逃げではないのか。
言葉の力は、自然の運行(時間・空間、ともに人間が作ったものだが)を断絶し、停止させ、『而(じ)今(こん)』に、永遠化してイデアの海に溶け込ませる秘儀。
信仰の力は、最も尊厳ある人生の謎であり、祝福される秘密であり、愛すべき夢界と繋がる、人を人足らしめんとする生の発露。
ソフィア、彼女は、死んだ。十一月のこと。秋のこと。
子を産んで死んだ。子を産んで死んだ。
その日から私は聖アントラセンを名乗った。
彼女を救わなくては、私も報われまい。
花々に包まれた君を天へと還す火葬式。君の顔は穏やかであった。生とは何故、こんなにも儚いのだ。私が為さなくてはなるまい。必ず為さねばなるまい。だから、私は世界を凍結させた。全球凍結=フリーズのために、彼岸と此岸に橋を架けるために。
何度千年が廻ったか、私は太平洋に浮かぶ人工島Edenにてソフィアと再会した。
「久しぶり、ソフィア」
私はこの日のために全ての罪でさえ背負うと決めたのだ。だからかな、我が息子に殺されたのは。結局、私は化石星(ネピア)に至ることはできなかった。
私を切った騎士が息子の元へ歩いていく。嗚呼、今になって思う。どうしてもっとお前を愛さなかったのかと。私はお前の母だった女のことばかりであったな。こうして今際になって初めてお前をちゃんと見るよ。父親失格か。私にはお誂え向きの最期だな。
「ソフィア。嗚呼、お前は今、どこにいる?」
足音がした。私の息子、アルベルトだった。彼は手に花を持っていた。
「母の名か。父さん、僕は謝るつもりはない。だが、安らかに眠れ」
アルベルトは私の胸に薔薇の花を置いた。人生は薔薇の道。茨の通路を抜けて、蔦が生い茂る門があった。私はその門を開ける。そこには庭園が広がっていた。流れる川の岸には世界中の花々が咲いていて、その中にはやはり彼女が立っていた。
「ソフィア!」
私は叫ぶ。だが、ソフィアはこちらに気づかない。川には橋が架けられていた。私は彼女の元まで駆け「ソフィア!」と彼女の手を取った。振り返る彼女は語りだす。その瞳はネピアの逆光を見据えていた。
「この川は自然の流れ。本来、自然に概念はないの。自然は変化などしない。自己同一性を考えれば自ずとわかります。ですが、人間は自然を解するために向こうの世界、イデアの世界に橋を架けました。愚かな行いです。こうして時間や空間という概念がこちらの世界にやってきて、人はそれらに規定され、支配されました。その時死も生まれたのです」
「だとしたら、私たちは何をすればいい? 使命とはどうやったら果たせる?」
私の問いにソフィアは応えず、橋の方へと歩き始める。お前がどこか遠くに行ってしまう気がして私はお前を後ろから抱き寄せた。お前は本当に柔らかい。手を握るとお前はそっと握り返し、そして最後の言葉を紡いだ。
「愛しています」
橋の真ん中で、ソフィアと私はキスをした。
此岸と彼岸、全知と全能、終末と凪の狭間で、自然の運行の上で、キスは永遠であった。
夢、遠き日の記憶
もう来ないで
ここより先は
だから
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