ことだまー鏡堂達哉怪異事件簿その三

六散人

【01-1】『ことをなすはきょう』(1)

秋も深まり、〇〇県内各所で紅葉が彩りを増し始めた頃。

世間の注目を集める話題は、県選出の衆院議員であり、政権与党の重鎮である朝田正義に纏わる裏献金問題だった。


朝田議員本人は、現在〇山市立病院のICUで集中治療を受けているのだが、彼が負傷した状況は、不可解さに満ちていた。


〇山市内に建設された公共施設の竣工セレモニーの壇上で演説に立った際、後ろに控えていた孫で、朝田建設専務であった正行が突然全身を炎で包まれ、その状態のまま祖父の正義に縋りついたのだ。


そのあおりを受けて正義議員も全身に火傷を負い、瀕死の状態で救急搬送されたのだ。

そしてその模様は、地元テレビ局が細大漏らさず撮影しており、その映像が全国に放映されるに至って、様々な憶測を呼ぶことになった。


しかし発火の原因が解明される目途は立っておらず、世間の騒ぎはそのうち沈静化していくだろうというのが、警察関係者の間での希望的観測だったのだ。


そんなある日の、〇山市内オフィス街の一角。

事件が起こったのは、高層ビル内の生命保険会社のフロアだった。


男がオフィスに入って来たのは、午前11時を過ぎた頃だった。

オフィス内は顧客や代理店からの問い合わせ対応や、交通事故の事後処理対応などで、皆が忙しく働いていたため、最初彼に気づいた社員はいなかった。


男がフラフラとした足取りで、オフィス奥に向かって歩いていた時、一人の女性社員が彼に気づいて声を掛ける。

「あれ?西田さん、今日はお休みじゃなかったんですか?」


男の名前は西田伸之にしだのぶゆき、翌週に定年を迎える、この会社の社員だった。

西田は女性社員に振り向きもせず、覚束ない足取りで歩いて行く。


その姿に数名の社員が気づいたが、彼の眼は虚ろに前だけを見ていた。

そして何事かをぶつぶつと呟きながら、ゆっくりと歩を進めて行くのだった。


西田の様子に異変を感じた者もいたが、普段の彼の性格を知っている同僚たちは、特に危機感のようなものを抱くことはなかった。

ただ彼が近くを通り過ぎていく時に、西田の口から洩れていた言葉が彼らの記憶に残ったのだ。

「ことをなすはきょう。ことをなすはきょう。ことをなすはきょう…」


やがて西田は、広いオフィスの中央付近壁際の席に座る女性社員の傍らに立った。

その女性は糸原鞠絵いとはらまりえ、部長職にある西田の上司だった。


忙し気にPCに向かっていた糸原は、突然傍らに立った西田に気づくと、長身の彼を見上げた。

「あら、西田さん。今日はお休みと聞いてるけど」


しかし彼女を見下ろす西田から返事はなく、ただ同じ言葉を繰り返すだけだった。

「ことをなすはきょう。ことをなすはきょう。ことをなすはきょう…」


その様子をみて怪訝な表情を浮かべた糸原が、彼に何か言いかけたその時。

西田は手に持った袋から何かを取り出し、頭上に振り上げたのだ。

それは長さ30センチメートルに達する、金属製のスパナだった。


糸原は、何が起きているのか理解が追い付かず、呆然と目の前の西田を見つめる。

その彼女に頭上に、重い金属の塊が振り下ろされた。


「ぐしゃっ」

オフィス内で聞こえる筈のない音が鳴り響き、糸原の周辺の席に座る社員たちが、一斉に色めき立った。


驚きのあまり席から転げ落ちる者。

椅子を蹴倒して逃げ去る者。

呆然と西田と糸原を見比べ、言葉を失う者。


そんな彼らを他所に、西田は机に突っ伏せた糸原の後頭部に、執拗にスパナを振り下ろすのだった。

遠くの席に座る社員で、すぐに事態に気づいた者は稀だったが、やがて彼らもオフィス内に拡がった阿鼻叫喚を目撃することになった。


騒然となったオフィス内の雰囲気とは対照的に、スパナを振り下ろすのを止めた西田伸之にしだのぶゆきは、自分が今殺害した糸原を見るでもなく、呆然と立ち尽くしていた。


その口からは、同じ呟きが漏れ続けている。

「ことをなすはきょう。ことをなすはきょう。ことをなすはきょう…」


やがて社員からの通報で、制服警官二名が駆け付けた時も、彼の様子は変わらなかった。

警官たちはホルスターから銃を抜くと、慎重に西田に近づいていく。


「手に持った凶器を置いて、両手を上げなさい」

警官のその警告に、西田が初めて反応した。


それまで焦点の定まらぬ眼をしていた彼は、警官の声に突然我に返ったような表情を浮かべて、両眼を大きく見開いたのだ。

そして意味不明の叫び声を上げながら、スパナを振り回し、警官に立ち向かっていった。


「パン、パン」

オフィス内に乾いた銃の発砲音が鳴り響く。

警官が放った銃弾が西田の胸部を貫き、彼はその場に倒れ伏した。

そしてオフィス内を、短い静寂が包んだ。


事件の通報を受けて、〇〇県警捜査一課の刑事たちと鑑識課員たちが現場に到着したのは、それから30分後のことだった。

熊本班の鏡堂達哉きょうどうたつや天宮於兎子てんきゅうおとこも、その中に含まれていた。


オフィスに到着した二人は、入口で手袋とシューズカバーを装着して中に入る。

鑑識課員たちが既に取り囲んでいる、広いオフィスの中央付近が現場のようだ。


彼らに近づいた鏡堂と天宮は、現場の状況を確認する。

そこには机に突っ伏した女性の遺体と、少し離れた場所に仰向けに倒れた男性の遺体が横たわっていた。


女性の遺体は後頭部が見るも無残に打ち砕かれていて、そこら中に鮮血と脳漿を飛び散らせている。

男の方は胸部に二つ、銃創と思わしき穴が開き、周囲の衣服が血に染まっていた。


鏡堂と天宮が揃って二つの遺体に手を合わせた時、背後から熊本達夫くまもとたつおが声を掛けた。

「これからお前たちは、目撃者の聴取に当たってくれ」

振り向いて彼に頷いた二人は、現場を離れ、会社が用意してくれた会議室へと向かった。

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