褪せたインクと君の声

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褪せたインクと君の声

 君は夏の日差しに目を細めながら、近所の山を少し登ったところにある公園を目指している。家では妹と弟が騒いでいて、図書館は思いの外クラスメイトたちに出会うことが多い。山を登るルートから一本外れた道にあるこの公園ならば、人目に付かなかった。人がいないところでこそ君は落ち着けた。人がいないところでこそやりたいことが、君にはあった。

 街中では体に纏わりついて窒息させそうな熱気も、一歩山へ立ち入れば空気は清廉なものとなる。深く肺の奥底にある古い息を吐ききり、次に大きく吸い込めば体の隅々に新鮮な空気が行き渡る。新しい空気は活力を抱かせ、君の思考を明瞭にさせた。足を上げ、坂道を上りながら君は目的地を目指している。

 葉の影が頭上に落ちる。あんなに痛かった日射しも熱よりも光を届けるものとして森を照らす。君の上にも降り注ぎ、透かされた細い髪の輪郭が淡く輝いている。

 蝉も数は増えたが木の高いところで鳴いているから、耳障りではない。爽やかな夏を彩るBGMとして一役買っていた。

 山道の湿った地面が乾いた地面に変わり、日の差した広場にたどり着く。公園の真ん中には屋根のあるテーブルと椅子があった。木を切り出して作られたのであろうテーブルは、木目で波打っており虚があった跡も自然のままにして穴が空いている。どう見ても書き物をするためのテーブルではなかったが、君はトートバッグからB5の下敷きとルーズリーフを取り出し筆箱を重しにして置いた。

 君はそこでまず僕を読んでいる。僕を読み、僕の世界に光を寄越す。

 そして君が僕を読んでいる間、僕は君を読んでいる。

 そのことを君は知らない。僕が君にどんなに感謝しているかも知らない。

 僕には言葉があったが、鉤括弧を介してしか声を出すことは出来なかった。

 僕には形があったが、それは文字の形をしていた。

 僕には心があったが、君が作った物だった。

 僕は君のルーズリーフに染み込んだインクと言って差し支えない。君のインクは僕を記述し、僕に生命を与えた。

 僕は君の書こうとしている小説の登場人物なのだ。

 小説とは言っても、まだ設定と少しばかりの台詞くらいしかない。僕の物語はまだ浅く、名前さえも付いていない。

 筆箱のファスナーを開き赤ペンやマーカーペンを掻き分けて、君は奥から大事そうに一本の筆記具を手に取った。万年筆だった。

 細かな傷はあれど、ペン先は詰まりも潰れもなく大切にされていたことが分かる。君のおじいさんが大事にしていた万年筆で、君のお父さんが譲り受けたのを君が我が儘を言って自分のものにしたのだ。

 お父さんは使ってないでしょう。私なら使うから、大事に使うから使わせて。

 一応借りた呈にはなっているが、君はきっとこの万年筆を手放すことはない。君はこの万年筆に一等憧れを持っていた。君はいつもおじいさんがこの万年筆にインクを入れて、文机で日記を書く背中を襖の隙間から覗いていた。

 万年筆を文字を書くための専用の筆記具だと君は認識している。万年筆を持てば、言葉にしにくい胸のうちを自由に綴れるのだとも。言葉にすることを手助けするような筆記具だ。形のない思考に文字という形を与える作業に、この万年筆という筆記具は向いている。

 物語を綴ろうとした初めての日、まず家にあったパソコンが思い浮かんだが君は個人のパソコンを持っておらず、家族との共有のパソコンしか無かった。共有のパソコンで書くのはまずい。誰が勝手に見るか分からないし、デスクトップパソコンだったから隠れて書くことも出来なかった。

 その次に思い浮かんだのがおじいさんの後ろ姿だった。だから君はこうして万年筆を持ち、ルーズリーフに手書きで文字を綴っていく。

 気持ちや思い付いたことを目で見れる形にする姿は、人に見られたくなかった。人に日記を読まれたくはないのと同じように、綴った物語を見られたくはなかった。いずれは読まれたいと思っているが、まだ書き上げられていない君にはジレンマがあった。

 だから君は人目に付かないこの公園でこそ自由になれた。君は万年筆を手に文字と踊る。軽やかにインクとステップを踏んで、夢中になってルーズリーフを埋めていく。

 そうして僕にもついに名前が付いた。この夏に映えるような名前で、僕も君も一生忘れない名前になった。

 僕は君より一つ年上の高校生だ。黒髪で耳にかかるくらいの髪型で八重歯がある。これといった取り柄は無いけれど、妹がいて面倒見が良くいつも優しく見守っている。

 僕の物語はここから始まった。僕がどう動けばいいのか、君は万年筆のペン先で示してくれる。君が教えてくれる僕のことを、僕は我ながら気に入っていた。続きが気になった。僕がこれならどんな人生を歩むのか、結末がどうなるのかが楽しみだった。



 けれどそれも、長くは続かない。

 いや、もしかしたら続いているのかもしれないけれど、僕が知ることはなかった。君が僕を綴ることを止めたからだ。

 君は僕に見向きをしない。

 僕の物語は君の頭の中にはあったようなのだが、全てが形になることはなかった。

 僕はもういらない登場人物なのかもしれなかった。

 僕の物語は面白くないと思ったのか、僕は必要ないと思ったのか、君はしばらく僕のことを読んでいない。だから僕も君を読むことは出来なくて君の最近のことを知らない。

 僕のことを忘れてしまったのか、理由は定かではないが君の筆は止まったようだった。僕を書いていないだけで、僕以外を書いている可能性はあった。忙しくてしばらく僕の物語と向き合えていないだけなのかもしれない。受験があると言っていたし、万年筆を置き真面目に受験勉強に勤しんでいるのかもしれない。学生というものは、勉学や小説を書くこと以外にもたくさんやらなければいけないことがある。大事なことが増えたことはいいことだ。僕ではない友達や、僕ではない先輩や、僕ではない恋人や、僕ではない親と楽しく過ごしているならばそれでいい。君が一人じゃないなら、それで。

 もう僕のことなんてすっかり忘れてしまったのだろうと思い始めたとき、君が僕の名前を呼んだ。不意のことだった。僕は驚いて振り返ると君はすぐ側にいて僕を手に取り読み始めた。

 久々の君の声は穏やかでどこか大人びたようだったけれど、懐かしそうに笑う声は以前のままだった。

 細い指がルーズリーフを捲り、君の目がゆっくりと左から右へとインクを読み取る。君の目が僕を読むと僕は輪郭を取り戻す。僕は僕のことを思い出して、君にとって大事な登場人物の一人だったことを知る。書きかけのところまで読んで、うーんと唸り君はまた僕を閉じてどこかへ行った。

 元気そうで良かった。

 君は僕のことを忘れてはいなかった。今回は続きを書くには至らなかったけれど、それでもまだ、愛着くらいはあるみたいだった。でなければ、あんな風に気の知れた旧友に向けるような笑い声を見せるわけがない。

 君が元気に過ごしていればいいのだ。手には変わらず万年筆を持っていたから、間違いなく君は今も小説を書いている。きっと僕ではない小説を。

 そのことを僕は嘆くわけではない。

 小説を書いているなら、構わないのだ。

 それにこの場所は日が差して明るいから、僕は寂しくはなかった。

 君が僕のために作った物語は、あの日の日射しのように僕の上に降り注ぐ。君が僕を書いたあの日、君は僕を君と同じ場所に置いたのだろう。日の射す森の公園で、君は僕とまっすぐに向き合っていた。君が文字を綴り始めた日のまま、あの日だまりの下で僕は立ち止まっている。

 この光が広がり前へ進めることを夢見ながら、君のことを待っている。

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