第37話 叙階前夜
「……ふむ。誤りもなし、字も及第点。良いだろう。
今晩の籠もりに向けて休憩に入れ」
写経した写しを確認した教育係の許しを得て、強張った手首を解しつつシノレは散策に出た。
目的地はもう決めていた。
少しして辿り着いたのは、今夜シノレが入るはずの聖堂だ。
今はまだ閉まっている。
ここに入り、そして出たならば、それこそ教団から逃れる術はなくなるだろう。
「…………」
シノレは慎重に辺りを探った。
人の気配はないことを確かめ、髪に隠していた細い針金を引き出す。
それを徐ろに鍵穴に突っ込み、目を閉じて指先に集中しながら探り出す。
程なくして小さな音とともに、扉が解錠される。
その音を、感触を刻みつけるように暫しシノレは動かなかった。
一つ息をついて、もう一度施錠した。
「……これで良い。次は……」
上着の中に隠していた包みに触れる。
半年間こつこつ用意しておいた、結局使わずじまいだった支度を、適当な木の洞に押し込んで隠し、やっと少し気が抜けた。
他にも幾つかの場所を確認がてらぶらつき、気ままに辺りをそぞろ歩いていたシノレの足が、ふと止まった。
何やら見覚えがあると思ったら、聖者が籠もっている聖堂の近くまで来ていた。
辺りには聖堂を見守っているらしく、物言わず控える教徒の気配がした。
遭遇しても面倒なので引き返そうと思ったが、ふと思い直して足を向ける。
「……すみません。聖者様にお目にかかりたいのですが」
「聖者様は籠もりの最中だ。後にするが良い」
「勇者として、どうしても今お目にかかりたいのです。お話できずとも良いですから」
押し問答の末相手が折れた。如何にも渋々といった様子だが、道を開けてもらう。
「……仕方あるまい。だが聖者様が拒んだなら帰ることだ」
「はい、ありがとうございます」
一応丁重に礼をして、小道を再び歩く。
日が傾き薄暗い中では、朝と違う趣があった。
聖堂も黒々とした影を纏い、何処か圧迫感を感じる。
仄かな灯を漏らす飾り窓に近づき、中を覗き込んだ。
聖者は相変わらず、祭壇の前で祈っている。
その姿は祈り始めた時と完全に同じで、最後に見た時から全く動いた様子がない。
「まさか――あれから、ずっと?」
思わず素の言葉が漏れた。
そのまま言葉もなく見入るが、それでも聖者は姿勢を崩そうとしない。
一心に、全てを忘れ去ったかのように祈りを捧げ続けている。
シノレは暫くそれを見つめていたが、遂に聖者は何の動きも見せなかった。
それを見ているシノレの方が込み上げてくるような吐き気を感じて、弾かれたように踵を返す。
――気持ち悪い。小さな呟きが風に流れた。
日が完全に落ちたのは、それから程なくしてのことだった。
「――それでは、今宵はどうぞ、心静かに神と対話なさいませ。明朝お迎えに上がります」
教徒の声とともに、聖堂の扉が音を立てて閉まっていく。
その響きを背中で聞きながら、シノレは伏せていた目を開いた。辺りはもう暗かった。
以前からの予定として、叙階の前夜は一人で聖堂に籠もり、夜通し祈って過ごすことになっていた。
それ用の聖堂を与えられ、扉が閉まってからはいよいよ一人きりになる。
周辺に人の気配もない。
ここに来てから完全な一人きりになるのは、思えば久しぶりだった。
暫く待つ。何の物音も聞こえない。月の明るい、静かな夜だ。洋燈の明かりだけが小さく揺れる。
採光と換気のために窓は設けられているが、位置的にも大きさ的にもシノレが通り抜けられるものではない。
聖堂は今や密閉空間と化していた。
朝が来て、迎えが来るまでシノレはここから出られず、籠もっているしかない――はずであった。
「……さて、やるか」
何と言っても呼吸法が大切だ。シノレは居住まいを正し、扉に向き直った。
まずはいつも通りに息を吸って吐く。
そしたらもう一度、一拍伸ばして吸って吐く。
一回ごとに一呼吸を引き伸ばし、それを繰り返しながら少しずつ自分を薄めていく。
まずは一歩先の床、続けて扉の底から上部。
意識の手を広げてそれらに「触れて」、自分自身の感覚を広げていく。
外に繋がる僅かな隙間を探り当て、何度か押し込んだ。
手応えを感じる。ずるりと、引き出されるような感覚とともに外に出た。
ゆっくりと扉を伝い落ち、錠前に達する。
事前の下調べで、鍵の構造は頭に入っている。
なるべく詳細に思い浮かべ、ねじ込んだものを動かしていく。
冷え込む山の夜は厚着をしても肌寒いほどなのに、こめかみに汗が浮いた。
ともすれば散漫になりそうな意識をどうにか押し留め、鍵穴のみに注力する。
周囲に人の気配はなく、物音も殆どしない。
至って静かな夜、それは好都合だ。
集中が乱れる環境ではこの手は使えないのだから。
焦らず、迷わず、着実に進めていく。
やがて金属音を立てて、外の錠前が解錠された。
それでもすぐには気を緩めず、限界まで感覚を広げて周囲を探る。
近くに人がいないことを確認して、やっと息をついた。
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