第36話 学者たち

大股で進んでいく足音ばかりが響く。

歩幅が違うので、後を追うシノレは少し足を速めた。

そうしている内に座学用の書斎に到着し、振り返りながら座るよう促される。


「……良いだろう。それでは写経だ。

ナグナ翁、写経をするので一式を貸して頂けるか」


その言葉に、奥で書物を広げていた老人が顔を上げる。


「……おお、誰かと思えばジレスの坊にシノレか。それ、そこの棚に置いてあるから適当に使え」


年は六十を越えているだろう。

小柄な体に波打った白髪を流し、汚れの目立ちにくい灰色の服を着ている。

この老人は学者であり、この書斎の管理者であり、時折座学の点で助けてもらった相手でもあった。

基本的なことはザーリア―の教育係に施されたものの、多忙などで手の回りきらない時は彼に一任されていた。

ナグナはシノレを見て白い眉をふさりと跳ね上げ、車輪付きの椅子を動かして近くまで寄ってきた。


「シノレお前、戦場に行ったと聞いていたが出歩いて良いのか?」

「お陰様で無事戻ってこられました。

猊下と聖者様の御加護のお陰です」

「ふはは、随分口が回るようになったの。

……そうだぞ、本音を包み隠すのは重要だ」


最後の言葉は聞き取りづらく潜められていた。

この老人はこの老人で、教育係とは違った意味で癖の強い人物である。

嫌がらせで課題に必要な資料を軒並み借り出された時、暇だからと助けて貰ったのが初対面だった。


そうしている内に一式を取りに行っていた教育係が戻ってくる。

それを察知したナグナも元の位置に戻り、改めて広げた書に目を落とした。


「範囲は一章から五十章まで。

この範囲は今まで学んだことが集結している故、復習にもなるだろう。

終えたら本日は自由にして良い」


そう言われ、一式を渡された。

写経は修行の一環であり、より教えを広めることにも繋がる。

一字でも間違うと容赦なくやり直しを言い渡されるので気が抜けない。時間が惜しいのですぐに書き取りを始めることにする。

手本を広げ、指定された範囲を淀みなく書き記していく。

黙々と手を動かしていると、暫くして声がかけられた。


「……お前はそう言えば、あんな出自の割に、字の読み書きは最初からできていたな」

シノレは手を止めないまま、今更それかと呆れた。

「三年前くらいに会った、流れの老人に教わりました。

ナグナ様には、以前お話しましたよね」

「…………あー聞いたな……。

何だったか、過去のことなど今の自分には関係無いし知識で腹は膨れないとか言ってぶん殴られたんじゃろ?」


もう心は書の世界に吸われているらしい。

あからさまに上の空でそう返され、どこを覚えているんだと思った。

それを他所に、教育係は眉を顰める。


「噂に聞くあの廃墟街にそんな人物が?余程の訳ありか何かか……」

「まあ、いえ、僕も詳しくは……自分のことを語らない人でしたので」


言いながら久しぶりに、杖をついた姿と嗄れた声を思い出す。


本当に変な、というか胡散臭い爺さんだった。

出会った時には既に片腕が無かったし、厚手の服装越しにも分かるほど全身酷い傷跡があり、元の人相すら良く分からないような有様で――まあそれは珍しくないし別にいいのだが、シノレを一目見るなり「大業の相が見える」などと言って、強制的に弟子入りさせられた。


それまで動物同然に生きていたシノレは、彼によって知識を得た。

世界の形を、物事には因果の流れがあることを知った。

その素養があったからこそ、この半年間で施された、急拵えの突貫教育にも対応できたのだろうと思っている。


大人気なく短気で手が早く、謎に博学な変人の師に教えを受けたのは、一年と少しくらいの間だった。

そして来た時と同様、ある日突然ふらりと去った。

そしてその直後に楽団に襲われ、教団に買い取られた流れだ。

教わったのは故郷ではあまり役に立たないようなことも多かったが、この教団では何の因果か役立っている。

主に洗脳一歩手前の教育を、穿った見方で捉えられるという意味で。

感謝の気持ちはあるのだが、結局あれは何だったのだろうかと、今もたまに考える。

もう会うことはないのだろうが。


ナグナはそれきり書に没頭し、教育係も何も言わなかった。

徐々にシノレの意識からその存在が締め出されていく。

それから日が傾くまで、黙々と写経に没頭した。

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