笑わない(らしい)黒の皇子の婚約

浬由有 杳

第1話 プロローグ ~ 伝説 ~

護衛に待機するように命じ、年若い神官の案内で、一人、扉をくぐる。

 

途端に目に飛び込んでくる巨大な壁画。

躍動感あふれる色鮮やかな絵は、この国で名のある芸術家の、最高傑作のひとつなのだろう。


ここは『大いなる恩赦の書教会』、通称『大いなる教会』または単に『教会』と呼ばれる大陸最大の宗派の本山。この煌びやかで巨大な礼拝堂に訪れた者は皆、まずはこの絵に驚愕し、畏敬の念を抱くのだ。


壁画のタイトルは『伝説の勇者たちの凱旋』。


そこに描かれているのは、真っ赤な暁を背景に砂に覆われた小道を歩む騎士団の姿。

この国の『教会』の施設では、もっともよく見られるモチーフだ。


これほどのものは、教皇や大聖女が暮らすこの大聖堂の他にはないだろうが。


荒れ果てた道を、傷だらけの鎧を纏い、互いに支えあいながら、足を引きずりつつひたすらに前進する戦士たち。見るからに疲れ果てた様子なのに、その顔には一様に笑みが浮かんでいる。未来を夢見る希望にあふれた笑みが。


先頭に立ち、はるか前方を見据えている金髪碧眼の大柄な美丈夫は、神に選ばれし英雄『金の勇者マリシアス』。全属性の魔法を使いこなす最強の魔法剣士。


その隣に並び立ち、右手に持った蒼く輝く杖で天を指さす青マントの人物が勇者の片腕、あらゆる魔法の使い手『青の魔導士フェイ』。


彼らに数歩遅れて、牡牛の2倍はありそうな黒い竜が続く。その背には波打つ銀髪をサークレットで抑えた可憐な少女が腰かけている。『守護竜ゾーン』と『銀の聖女リーシャルーダ』だ。


『金の勇者』『青の魔導士』そして『銀の聖女』。神から遣わされた三人の御使い。そして、魔物ながらも神の盾となることを選んだ悔い改めし獣『黒の守護竜』。


彼ら3人と1匹を、この国の人々は『大いなる勇者の一行』と呼ぶ。


この絵に描かれているのは、古よりこの地に伝わる伝説の勇者の一行と彼らに導かれた人々の勝利の凱旋。

この国の人々が、貴賤の別なく、幼少期から必ず聞かされる伝説。どこまでが本当かわからない『古代史』の一場面。


この国に来たばかりの頃、最初に学ばされたのがこの『伝説』だった。


この国の主な施設の多くでは、この神の御使いの伝説を刻んだ金属板プレートを目にする。

そう、ちょうど目の前の絵の下に設置されているようなものを。


*  *  *  *  *


いにしえ、混沌なる時代、『悪しき魔の王』が誕生せり。

魔王、醜悪なる魔族を率い、罪なき人々を蹂躙し、地には嘆きの声が満つ。


闇で世界が染まりし時、寄る辺なき民を憐れんだ1柱の神ありて、金、青、銀の3人の御使いを天より遣わせり。神命に従いて『金の勇者』、『青の魔導士』、『銀の聖女』、地にて共に戦う仲間を募り、哀れなる者を救済す。


御使い、途中の魔の森で、暴虐の黒竜を打ち倒す。黒竜、聖女の教えに改心し、以後は、知恵と力を捧げ、神の軍の盾となれり。


邪悪な魔軍と死闘繰り広げし御使い率いる神の軍、ついには魔王を空間の虚ろな狭間に封印す。


力尽きたる黒竜は、天に上り地を照らす夜空の星と化す。金と銀の御使いは、ともに天へと還られて、神の眷属となりにけり。

『青の魔導士』ただ一人、この地を憂いて留まりぬ~



*  *  *  *  *


 

どこの国にでもある英雄談。たわいない建国にまつわる壮大なおとぎ話。

この地に随行してきて以来、一度も戻ってはいない、生まれ故郷の島々でも同じような英雄伝説はあった。


もはや、記憶に定かではないが。


ただ、かの地では、おとぎ話はおとぎ話であり、この国のように、英雄たちが崇拝や信仰の対象にはなっていなかったのは確かだ。

 

この大陸で最古を名乗る、最大の国家『ローザニアン皇国』。


その皇家は『金の勇者』の血族であることを高らかに宣言している。また、最大の宗教『大いなる教会』は、彼らの使徒のひとりが残した『大いなる恩赦の書』を教義の礎とし、『銀の聖女』を唯一の聖人として崇めている。

 

神官に導かれるまま、祈祷の広間を抜け、更なる奥へ続く道をどんつきまで進む。


「それでは、私はこれにて失礼いたします」


金色の扉の前で、神官が一礼して踵を返した。


その姿が通路の向こうに消えたと思うと、扉が音もなく開いた。

 

自分の使命を思い返し、深呼吸を一つして気を落ち着かせる。


中に一歩入ると、二枚の絵が見えた。


意図せずして、皮肉な笑みが浮かぶ。

 

またもや、彼らの信仰を端的に表している絵だ。


限られた者のみが許された特別室に、このような宗教画があってもおかしくはない。

 

正面の壁の右側に飾られた絵。

そこに描かれているのは、可憐な少女の笑顔の胸像。


輝く銀の髪。その形の良い額を飾るのは幅広の銀色のサークレット。歓迎の意を込めて大きく広げられた両のかいな。金色にも琥珀色にも見える、優しげな瞳。慈悲に溢れた聖女そのもの姿。


左側に掛けられたもう一つの絵には、その全身像が描かれている。


サークレットを付けた銀髪の少女は、純白のドレス姿で祭壇らしき場所で膝まづき、何事かを一心に祈っている。たおやかな胸元でしっかりと指を組んで。長いまつ毛をつつましやかに伏せて。


『祈りの聖女リーシャルーダ』。

彼女がそう呼ばれる所以となった絵柄だ。

 

どちらの絵も、先ほどの壁画に負けず劣らず、素晴らしい出来栄えだ。


これこそが、神官たちが、あるいは信者たちが思い描く真の『銀の聖女リーシャルーダ』の姿なのだろう。

たとえ、それがどれほど事実と異なっていようとも。

 

真実とは、きわめて主観的なもの。それは人それぞれの心の中にある。


事実とは、唯一の客観的なもの。どう取り繕っても、事実は変えられない。悲劇は悲劇。幸運な結末にはならない。

 

主から聞かされた事柄が、事実であるとも限らないが。


「お待ちしておりました」


お茶を用意した侍女を下がらせてから、ようやく、その部屋の主は口を開いた。


「あまりにもいらっしゃるのが遅いので、迎えをやろうかと思っていたところです」


「今更、何の用があるのです?情報は全てお渡ししました。約束はもう果たしたはず。『教会』は第二皇子の暗殺に失敗した。それは我が主のせいではない。むしろ、我々のつながりが知られるのは、あなた様にとっても不本意なのでは?」


実際のところ、望んだ結果そのものは得られなかったが、それなりに満足はしている。


思いがけぬ理由で目障りな皇子はこの国から去ることになり、もう一方の強敵の力をも労せずに削ぎ落すことができたのだから。


彼らの陰謀を漏らすつもりはないが、これ以上、共闘する必要は感じない。


「いいえ。私たちの使命は終わっていない。何としても、あの悪魔を抹殺しなくてはならないのです。この世界を救うために。共闘しなくてはなりません」


悪魔か。


勝手な言い分だ。自分たちの<真実>を守るために、事実を消そうと言うことか。


第一、あの秘された文書の内容が、すべて作り事でないと言い切れるのか?


煽ったのは自分たちだが、正直、どこまでが事実かはあやしい。


どちらにしても、こちらの当初の最優先事項は、いつ起こるかわからない魔王の復活でも、世界の存亡でもない。


すべては我が主とその御子のために。


「『我らはそちら側の秘密を漏らすことはないと誓う。双方のため、我らの密約は終わらせるべきであろう』。我が主はそうおっしゃいました」


「お願いを聞いていただくだけでいいのです。成功した暁には、教会はそれ相応の対価をお支払いしましょう」


「対価?」


「ええ。一番お望みのものを手に入れられるよう、ご支援致しましょう。たとえ、否とおっしゃったとしても、無駄ではございますが」


 まさか。


 一瞬で血の気が引いた。身体の奥が冷たくなる。


「ご安心下さい。『不幸』な出来事が起こることはありませんよ。あなた方が協力してくださる限りは」


その時になって、彼女は初めて思い至った。

いかに自分たちが、彼らを、狂信者を、甘く見ていたかを。

 

金色の瞳が、彼女を静かに、むしろ穏やかに見据えていた。


 

*  *  *  *  *



「どうなされました、殿下?お顔の色がすぐれませんが?」


顔なじみの騎士に問われて、はっと顔を上げる。


「いや、何でもない。少し疲れただけだ」


平静を装うと、迎えの馬車に乗り込んだ。


懐に隠した魔法陣が描かれた魔布スクロールを服越しに触れて確認する。


「少し眠る。宮に着くまで、そっとしておいてほしい」


「御意」


扉が閉じられ、馬車がゆっくりと進みだす。


~あなた方に害が及ぶようなことはありません。全ては聖なる神の思し召しです~


あの者は『教会』からの使いだと言っていた。


その言葉が本当だったとしたら? いや、本当なのかもしれない。


「あなた様が罪悪感を抱く必要はありません。あれは、消えるべき者。この世を救うために、あなた様は従ってくださればいい。それとも、謀反人にしたいのですか?誰よりも大切な方を?」


男はあえて名前を出さなかったが、言われたことは十分すぎるほど伝わった。


助けを求めることができないのは、彼にもわかる。


そんなことをすれば、あの人がやったことが明るみになってしまう。

 

どんなに嫌でも、指示に従うしかなかった。


 

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