願いの物語シリーズ【大野晄弘】
とーふ
第1話『僕は初めて、その日、本当の意味で楽しいという事を知った』
僕にとって世界とはそれほど大きなものでは無かった。
あまり人と接するのが得意ではない子供だった事もあり、僕の幼少期には家族との思い出だけがあった。
幼稚園も、小学校も友人を作る事が出来ず、一人、学校に通い、ただ授業を受けて帰ってくるだけの生活をしていた。
そんな日々に何処か寂しい思いをしながらも、結局勇気が出せず、僕はどうしようもない現実をただ受け入れていた。
しかし、ある日突然変化は起こった。
小学生野球クラブの監督をやっている父が、野球を勧めてきたのだ。
無論父からすればずっと一人でいる息子へ、何かの切っ掛けになれば、という様な軽い気持ちだったのだろう。
しかしその誘いは、僕にとってとても大きな意味を持つものになった。
何故なら、父の野球クラブに参加する事で、僕は生涯の友と、生き甲斐を手に入れる事が出来たのだから。
父に野球クラブを勧められた僕は、父の後ろに付いてゆき、恐る恐るその場所へと足を踏み入れた。
練習場では多くの子供がボールを投げ、グローブを持ちながら走り回り、真剣な表情でボールを打っていた。
正直、これを目の当たりにした時点で帰りたかったのだが、初めて来た場所だという事もあり、僕は逃げる事も出来ず、ただ父の後ろで小さくなり、この時間が早く過ぎる様にと祈っていた。
「ふむ。どうするかな。あー。立花君」
「はい。なんでしょうか」
「すまないが、今日はこの子の相手をしてもらえるかな」
「わかりました」
しかし、そんな情けない祈りは届かず、父は僕よりも少し年上に見える少年を呼び出した。
そして、父の背中に隠れていた僕を少年の前に引きずり出す。
そんな父の行動に驚きつつも、動くことが出来ずに硬直していた僕を見て、彼はクスリと笑うと、固く握られた僕の手を取り、笑った。
「はじめまして。僕の名前は立花光佑。君の名前は?」
「あき……ひろ」
「そっか。あきひろ君か。野球はやった事あるのかな」
僕は挨拶しただけで許容量をオーバーしたため、もはや言葉を発する事が出来ずに、ただ小さく首を振る。
「そっか。じゃあまずはキャッチボールでもやってみようか」
僕は首を傾げる。
「あぁ、キャッチボールっていうのはね。こうしてボールを投げて、受け取ってを繰り返す遊びだよ」
彼はそう言いながら、ボールを投げる仕草をして、グローブで受け取る仕草をする。
正直何が面白いのかサッパリ分からなかったが、父に助けを求めても、大きく頷きながらグローブを手渡されるだけだった。
そしてやってみようかという彼の言葉に、僕はいやいやながらキャッチボールを始めた。
最初は軽く彼が投げてきた。
そのボールを受け取ろうとして失敗し、僕は地面に落ちたボールを持って彼と同じ様に投げる。
しかし力が全然足りていない為、彼の大分手前に落ちようとしていたのだが、彼は凄い反射神経でそのボールに追いつくと、見事にキャッチし、また元の位置に戻って投げた。
それを何度か繰り返している内に、僕は自分だけが取れていないし投げるのが駄目なのが、何だか申し訳なく思えてきた。
だからもう止めようと彼に言いたかったのだけれど、その勇気は出ない。
何故なら彼はこんなキャッチボールとも言えない謎の遊びですら楽しんでいたのだから。
そして少しずつ投げ方が分かってきた僕に、上手い上手いと喜び、笑う。
それを見ていると、僕は多分人生で初めて『悔しい』という気持ちが芽生えた。
だってこんなの一方的じゃないか。
僕は彼に甘えているだけで、多分本当のキャッチボールはこんなんじゃないだろう。
なのに、下手くそな僕に付き合って、こんな不格好なものになってしまっている。
だから僕は、せめて投げる事くらいは出来るようになりたいと、彼の投げ方を見て、それを学ぶ。
力が足りなければ足し、方向が散らばるなら握り方を、少しずつ調整していく。
「……ちがう。もっと、こう」
「あきひろ君?」
「こんどは、だいじょうぶ」
僕の投げた球は、確かな確信と共に、正面に構えた彼のグローブへと収まった。
瞬間、胸の奥で何かが弾けたのを感じた。
それは熱くて、苦しくて、でも心地よい何かだった。
そして僕はそれをまた味わいたいと、彼の投げた球を拾い、投げる。
直前に投げたボールと全く同じ軌道を描いて、ボールは彼のグローブに収まる。
僕はまた感じた嬉しさと共に、彼を見た。
彼もグローブを見ながら、溢れる感情をそのまま表に出す様に、驚きと喜びが混じった様な表情を浮かべ、そしてその後、満面の笑みを浮かべた。
あぁ。
僕は初めて、その日、本当の意味で楽しいという事を知った。
そして、初めて、友達になりたいという人を、見つけたのだった。
それから僕は父に付いて、練習場へと通うようになる。
学校以外には行くところもやる事も無かった僕は毎日通い、そして毎日光佑とキャッチボールをした。
段々と受け取るのも出来る様になり、数カ月も経つ頃にはボールを落とさずにやり取り出来るくらいには上手くなっていた。
その頃にはもう光佑とのキャッチボールが楽しくて楽しくて、毎日光佑と会って遊ぶ事が楽しみなくらいだった。
しかしそんな楽しい日々は、他でもない彼の言葉で壊される事になる。
「……え? もう一回、言って?」
「うん。実は、野球クラブを辞めようかと思ってるんだ」
二度目は言葉が出なかった。
ただただ衝撃を受けて、言葉も無くて、動くことも出来なかった。
そしてそんな僕に謝って、もう帰らなくてはいけないと光佑は帰って行った。
僕はそれからずっと、ずっと光佑の言葉を考えて過ごしていた。
とは言っても良い案など浮かぶハズもなく、そもそも何をしたいのかすら分かっていない状態なのだ。
「晄弘! 晄弘!!」
「……なに?」
「もうこの子ったら、普段にも増してボーっとしてるわね。ご飯を食べてる時はご飯に集中しなさい」
「……うん」
気が付くと僕は、手に茶碗を持ったままボーっとしていたらしく、それをお母さんに叱られていた。
これ自体はたまに起こる事なのだけれど、今回は呼びかけられても返事をしなかったために、いつもよりも怒られてしまった。
「晄弘。何かあったのか?」
「……うん」
そんな僕を心配してか、いつもは静かにご飯を食べているお父さんが話しかけてきた。
僕は沈んだ気持ちのまま、お父さんの問いに肯定を返す。
しかし、どう説明したら良いか悩んでいた所、お父さんがややしてからまた口を開いた。
「立花君の事か」
「わかるの?」
「あぁ。まぁ、お父さんだからな」
「そっか」
「ただ、詳しい事情は分からん。教えてもらえるか?」
「うん、こうすけ君が、もうやめるって言ってたんだ」
「辞めるって野球クラブを?」
「……うん」
お父さんに話して、改めて光佑が居なくなるという事態に僕は耐え切れず、涙を零してしまった。
悲しくて、悲しくて、どうしようもない。
あんなにも楽しかったのに、どうして無くなってしまうのだろう。
それが分からなかった。
「立花君って、あの山向こうの村から来てる子よね」
「うん。その子。才能もやる気もあるんだけど。通うにはお母さんの負担が大きいみたいだ」
「その子が晄弘と仲良くしてるなら、ウチに来てもらうっていうのも、良いんじゃないかしら」
「それはまぁ、晄弘とは兄弟みたいに仲良くしてくれてるからね。ウチとしては君の負担以外は良い事しかない。でも、向こうの両親だって、子供を手放すのは嫌だろう。動くなら家族での方が良いさ」
「そうね。でもどの道中学高校に通うなら、山を越えないといけなくなるし、早いうちにこっちの町に来る方が良いと思うけど」
「確かにね。ちょっと色々な所へ聞いてみようか。借家という形なら、頷いてくれる人は何人か居そうだ」
「お願いできる? このままじゃ晄弘が可哀想だわ」
「そうだね。せっかく出来た晄弘の友達だ。出来る事なら、大人の事情で壊したくはないね」
その日、僕が漏らした言葉が切っ掛けだったのか、もしくは光佑が家で話した事が切っ掛けだったのか。
突然光佑がまた野球クラブを続ける事にしたと言ってきた。
僕は嬉しくて、嬉しくて、その日はずっとキャッチボールをやっていた。
しかも家が近くなるから同じ小学校に通うらしい。
今までよりもずっと近くに光佑が来る様になって、僕はまるで本当のお兄ちゃんが出来たみたいで嬉しかった。
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