第3話 光と曇り

「すみません。こんなずぶ濡れでお邪魔してしまって……」

「ええねんええねん。今日、こっちの天気予報ホラ吹いとったもんなあ。にしてもお前、ほんまデカなったな……自販機よりタッパあるんちゃう?」

「197cmです」

「うお、ちょうど俺より20cmデカいわ。つかほぼ二メートルやんけ。ウチ狭いから、頭気をつけや」


 アカリを部屋に招き入れた後。

 ずぶ濡れのくせに遠慮するアカリを無理やり風呂へと押し込んだはいいが、ここ最近洗濯をサボっていたせいで、アカリに貸してやれる服が一着もないことに気がついて絶望した。

 せめて貸してやれるのは俺のパンツくらいだった。

 やはり俺はクソ野郎すぎる。

 俺が平謝りしながら風呂をあがったアカリにパンツを差し出すと、アカリは屈託ない笑顔で「むしろありがとうございます、助かります」とパンイチになった。

 俺の弟、ええ子すぎひん?

 そんで弟をパンイチにさせる俺、情けなさすぎひん?

 それからすぐさまアカリの濡れた服は洗濯機に入れ、乾くのを待つことにする。

 そうして、咄嗟に「いやまじでごめん……お前だけパンイチ晒させとくのも忍びあらへんから、俺もパンイチなるわ……」と意味不明なことを口走って、俺も服を脱ぎ去った今現在。俺は弟と二人揃ってパンイチ姿となって、キンキンに冷やしていた麦茶を注いだコップが二つ並んだテーブルを挟んで座っていた。


「……」

「……」


 重い沈黙が流れる。

 流石に耐えかねて麦茶を飲み干した後、俺は無意識の内に煙草をくわえて火を点けようとした。だが、「子どもの前で煙草はあかん」という常識がすぐに頭をぶっ叩いてくれたので、すぐさま火のついていない煙草は灰皿に潰した。

 それを見ていたアカリが、小さく笑って俺を見る。


「煙草吸っていいですよ」

「アホ。球児の前で吸うたら野球の神様からバチあたるわ。野球の神様、おっかなそうやからな……あと敬語使わへんでええよ? 前みたいに喋り」

「うん。……というか、おれが野球してること、知ってたのか」


 敬語取るだけで、好青年風からえらい男臭くなるもんやな〜なんてことを考えるのと同時に、墓穴を掘ったと密かに肝を冷やす。

 俺は咳払いをして「まあな」と一言で下手な誤魔化しをした後、アカリを見上げて首を傾げた。


「んで? 何でいきなりウチに来たん。この場所、母さんも知らんはずやねんけど」

「叔母さんに聞いたんだ」


 唯一連絡する仲にある、といってもあちらから無理やり押しかけてくる叔母を思い出して、内心で俺は「はあ、あのババア……」とボヤいた。


「それで、ここにきた理由は……今、どうしても。兄貴に会いたかったから」


「お前と母さんを捨てて一人で逃げた、クズ野郎のクソ兄貴にか?」と俺は反射的に零しそうになって、何とか呑み込んだ。


「兄貴も知っての通り、おれ今は野球してる。だけど、ちょうど一か月前……おれ、おれを殺してやろうと思ったんだ」

「……は?」


 アカリの言葉に、俺は思わず間の抜けた声を漏らす。

「おれを殺してやろう」というのは、つまり──「自殺」、ということではないのか。

 そこまで考え至って、俺は全身からぶわりと冷や汗が滲み出すのを感じた。

 アカリは腕の中に抱え込んだ膝に顔を埋めると、籠った声で淡々と語る。


「おれ、投手やってるんだ。しかも今年もらった番号は1番。絶対今年は甲子園に行きたかった。だけど、一か月前……学校の寮から、ちょっと実家に帰る機会があって。実家に帰ったら、親父がいたんだ」

「親父……あのDVクソ野郎がか?」

「ああ。親父、凄くやつれてて。それで、おれを見た途端『お前なんかが生まれてこなければ、俺はこんなに落ちぶれたりしなかった!』って怒鳴り散らして殴りかかってきたんだ。すぐに警察は呼んだんだけど、おれは利き手の手首をやられて。母さんはそのせいでPTSDが酷くなって、今は入院中。おれも結局、昔のこと思い出して体調を崩してさ。甲子園どころか予選すら出場出来なかったよ」

「……」


 俺は、全身の血の気が引いていくのと同時に、強烈な吐き気に見舞われた。

 アカリを傷つけたDVクズ野郎への怒りは当然湧き上がっていたが、それ以上に。

 その場に居なかった自分への怒りが、大きく上回って沸騰しそうだった。

 結局一人で逃げ続けた結果、俺はアカリの「光る才能」を踏みにじったのだ。

 俺はいつもいつも、アカリの「光」が曇ってしまうのを見ているだけ。


 アカリは抱えている長い足の膝に額をくっつけたまま、自嘲気味に声を漏らす。

 アカリのこんな声を聞くのは、初めてだった。


「あの時の親父の言葉が……結構、効いたみたいだった。おれのせいで、親父もくるって、母さんも病んでしまうのなら……おれは、おれを殺さないといけないんじゃないかって。そういう、変な使命感に駆られたんだ」


 何か、声を掛けてやらないと。そう思っても、俺の喉は引き攣ったみたいに声を音として成さなくて、どうしようもなかった。


「だけど、殺す寸前にさ。実家に叔母さんが来たんだ。嵐みたいな人だよな、叔母さんって。凄くデカい声でアレコレ言って、寝込んでるおれの世話して、最後に『ホナカ』っていうシンガーソングライターの曲を聞けって勝手におれのスマホから音楽垂れ流して、出ていったよ」


 ホナカ──漢字で書くと、「火中ホナカ」。

 生きていようが死んでしまおうが。どう在ろうと、地獄の業火の中で焼かれ続けなければならない、どこぞの凡人の業を忘れないために作られた名前。

 アカリの口から出た、思ってもみなかった名前に俺はいつの間にか俯いていた顔を弾かれたように上げる。すると、膝から少し顔を上げたアカリが、目元を赤くして微笑んでいた。


「『ホナカ』の声、聞いた瞬間すぐにわかった──兄貴の声だって。そこからおれ、時間も忘れて『ホナカ』の曲を漁りまくって、片っ端から聴いていったよ。本当に全部、最高の曲なんだ。歌声はいつまでも聴いてられる気がしたし、歌詞もめちゃくちゃ響いて……物心ついた時から、泣いたことなんて無かったのに。いつの間にか脱水になるまで泣いてた」


 アカリがゆるゆると顔を上げて、真っ直ぐにこちらを見つめてくる。


「『ホナカ』の歌で、おれ。おれを殺すのを止めたよ。そして、おれなんかでも『生きてて良いのかな』って思えるようになった……昔から兄貴はおれの自慢だったけど。今日、こうして再会できて、やっぱり兄貴は凄いなって心底思った」


 アカリは片手の指を順に折って、楽しそうに呟いていく。


「九年も会ってないのに、デカくなって別人になってるはずのおれの顔見ただけですぐ気が付いてくれたし。連絡もなしに突然訪ねてきたずぶ濡れのおれを、嫌な顔の一つもしないで部屋に入れて風呂まで貸してくれるし。かっこいいパンツも貸してくれる。身長デカいおれが頭ぶつけるかもって声掛けてくれる。扇風機もおれに固定して向けてくれるし、煙草も吸いたいだろうにおれの前では我慢してくれる。パンイチのおれを気遣って自分もパンイチになってくれる」


 アカリは赤い目を細めて、屈託なく笑った。


「なあ兄貴。おれより先に生まれてきてくれて、本当にありがとう。兄貴が先に光ってくれてたからおれ、自分が生きてても良いのかなって。ちゃんと今は思えるんだ」


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