リノの一生

鷹野ツミ

リノの一生

「リノは今日も綺麗ね」

 陽花ひばなちゃんは事務的にそう言いながら、わたしの長い長い被毛を見つめる。

 二週間に一回トリミングサロンに通うわたしは、陽花ちゃんよりもずっと綺麗で、蛍光灯に照らされるだけで被毛がキラキラと光るのだ。

「ねえ、リノ。明日ね、枝凛えりんさんっていう先輩が来るんだけど、吠えたり噛んだりしたら絶対許さないからね? リノはお利口さんだから分かるよね」

 陽花ちゃんが掃除を頑張っていたのは人が来るからだったのか。わたし以外にお金を使うことなんてほとんどなかったのに、香水やらインテリアやらが増えたので気になっていた。ブランドの部屋着なんかも用意して、そわそわとしている。

 もしかすると陽花ちゃんは恋をしているのかもしれない。恋する乙女はなんと愛らしいのだろう。


 翌晩、ビニール袋に缶チューハイを沢山詰めて入って来たのは、さっぱりとした印象の女性だった。陽花ちゃんよりも背が高くて、キリッとした目がわたしを見下ろした。

「え、可愛いー! あなたがリノちゃん? 抱っこさせてー! 」

 犬好きだったらしく、見た目とは違って甘ったるい声でわたしを持ち上げた。

 ふーん、良い人じゃん? 陽花ちゃんが好きになるのも分かるよ、と思いつつ陽花ちゃんを見れば、無表情だった。

 陽花ちゃん自慢の犬が可愛いって言われているのに! もっとにこにこと喜んで欲しかった。

「枝凛さん、早く飲みましょ。チューハイぬるくなっちゃいます」

「あ、うん、リノちゃん抱っこしたままでもいい? 」

「どうぞ」


 二人は仕事の話をしていて、わたしにはよく分からなかったけれど、陽花ちゃんは枝凛さんをすごく慕っているようだった。

 大好きですとか憧れですとか枝凛さんしかいませんとかそういう言葉が聞こえてきた。


 少しだけ嫉妬してしまう。


 陽花ちゃんはわたしにお金をかけてくれるものの、愛情とか情熱のようなものは感じたことがない。冷たい壁というのか、そんな空気がわたしとの間にある気がするのだ。

 枝凛さんの膝の上で丸くなりながら、ぼんやりと陽花ちゃんと出会った頃を思い出す。

 わたしは売れ残りの犬で、色んなペットショップをタライ回しにされていた。いつか処分される日が来るのだろうなと思って怯えていたから、他の子のように透明なケージの中で愛嬌を振りまく余裕はなかった。

 そんなある日の閉店間際にわたしを指さしたのが陽花ちゃんだった。手首に沢山傷があるのが見えて、恐怖しかなかった。わたしはこの人に飼われるの? そう思った。

 でも、わたしが選ぶ立場ではないし、処分されるよりはマシだった。

「綺麗な犬だね。私とは違って」

 陽花ちゃんの部屋は汚かったけれどクッションは新品で、その上にわたしを置いてくれた。

「リノ。私の希望の光」

 どういうことか分からなかったけれど、きっと名前の意味なのだと思った。素敵な名前をもらえたし、トリミングにお金をかけてくれるし、洋服もおやつも高級なものばかりくれるし、粗相をしても怒らないし、ペットショップにいた頃よりずっとずっと幸せなのだから、嫉妬するなんて贅沢だよね。


「リノちゃん、本当にあの子にそっくり」

 枝凛さんがぽそりと呟く。酔っ払っているのか、涙声だ。

「前、見せてもらった写真の子ですよね? 」

「うん。こうやって毛伸ばしててさ、お手入れ大変だったけど楽しかったなあ……」

 どうやら枝凛さんは、わたしと似たような犬を飼っていたらしい。話し方からして、亡くなっているようだ。会ってみたかったな。残念。

 対面に座っていた陽花ちゃんが、枝凛さんの横にそろりと近付いた。

「お酒、減ってないですよー? 私飲んじゃいますからねっ」

 陽花ちゃんは枝凛さんの缶チューハイを飲み、熱っぽく枝凛さんを見つめている。

「……これから、飲むつもりだったのに」

「えへへ、飲ませてあげましょーか? 口移しで」

 舌なめずりをする陽花ちゃんは艶っぽいし、戸惑う枝凛さんも艶っぽくて、なにか甘ったるい空気がわたしにも伝わってくる。

 気まずくなって、膝からクッションへと移動した。

 わたしがいること忘れてる? このままなんやかんやと始まったら、わたしは明日から陽花ちゃんにどんな顔すればいいのだろう。

「あ、リノちゃん行っちゃった」

 わたしに手を伸ばす枝凛さんを陽花ちゃんが止めた。

「ウチに住めば、リノとずっと一緒にいられますよ」

 陽花ちゃんが枝凛さんの手をするりと撫でる。

「ね、いいでしょ。一緒に住みましょうよ。リノもきっと喜びますし、枝凛さんも新しい子飼うより楽でしょ? 」

 陽花ちゃんの勢いは止まらなかった。枝凛さんを床に押し倒して続ける。

「ずっと枝凛さんと一緒に住むの夢見てました。こうやってウチに遊びに来てくれただけでもめちゃくちゃ嬉しいんですけど、ずっといて欲しくなっちゃった……離れたくない……! 私が枝凛さんのことどう思ってるか気付いてて来てくれたんですよね」

 枝凛さんは唖然としていた。

「えっと……酔ってる、よね? ちょっと、今日はもう、帰るから……」

 陽花ちゃんを押し退け、苦笑いのまま枝凛さんはそそくさと帰ってしまった。

 少し強引すぎたんじゃないかなと思った。


 陽花ちゃんは、チューハイの缶を握り潰しながら泣き出した。

「なんで、なんでいつもこうなの……一緒に住める流れ来てたじゃん……人生詰みゲーすぎ……」

 そして鏡台からカッターナイフを取り出したかと思えば、手首に傷をつけ始めた。

 あ、前にも見た傷だと思った。陽花ちゃんはもしかすると、恋愛で失敗する度に傷を作っているのかもしれない。

「ううー痛い……」

 わたしは陽花ちゃんの元へ駆け寄った。ぺろぺろと腕を舐めて慰める。大丈夫だよ陽花ちゃん。今はわたしがいるんだから。わたしはずっと陽花ちゃんのそばにいるよ。

 すると、陽花ちゃんの顔が醜く歪み、舌打ちが降ってきた。

 ぐっと被毛を引っ張られ、そのままボールのようにわたしは投げ飛ばされた。

 突然の衝撃に理解が追いつかなかった。

「リノ! てめえ何の役にも立たねえじゃん! クソ犬が! 飼うんじゃなかった」

 わたしの長い長い被毛が引っ張られ、毟られていく。あまりの痛みに出したことのない声が漏れた。

「うるせえよ! キャンキャン鳴くな! 枝凛さんが飼ってた犬に似てたからてめえをったのによお! もう用済みだわ! 死ね! 」

 缶チューハイが飛んでくる。陽花ちゃんの足が、勢いよくわたしを踏みつける。

 痛いのか熱いのか苦しいのか分からない。わたしの細い骨と小さな内臓は簡単に壊れていった。

 でも、そんな痛みよりも、陽花ちゃんの本当の姿がわたしの心を痛めつけた。

 そして気づいてしまった。

 希望の光。前にそう言ったのは、ただ道具として期待しているという意味だったんだと──



 小鳥のさえずりと太陽の光が差し込む。

 かろうじてわたしは息をしていた。と言ってももう助かりそうにない。

 散らかった部屋の中、鏡台の前で陽花ちゃんは髪の毛を弄っている。なにやら機嫌が良さそうで、鼻歌が聞こえてきた。

 珍しく凝ったヘアスタイル、編み込みをしているなと思った。

 差し込んだ光に照らされて、キラキラと光っている。

 綺麗だな、と思ってはっとした。その編み込んでいる髪は、被毛は、わたしのものだった。毟ったのかカッターナイフで削ぎ落したのか、あんなにお金をかけて手入れしていたはずなのに、容赦がなさすぎて笑えてくる。

 結局わたしは、最期まで陽花ちゃんの道具でしかなかったけれど、わたしにとっての陽花ちゃんは光だったと思う。ペットショップでうずくまる暗い日々に差し込んできた光。


「ねえ、リノ。これなら私、枝凛さんに撫でてもらえるかな──ってもう死んでるか。ふっ、汚い姿」

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