死に損ない令嬢は、笑ってすべてを覆す。

猫石

1-1

 沈んでいく。


 深く、深く、湖の底に向かって。


(あぁ、このまま私は死んでしまうのね?)


 さっきまではたくさん藻掻いて藻掻いて、助けてと願ったけれど。


 そのたびに水草は自分に絡まり付き、水面は遠くなっていく。


(助けて、ねぇ、助けて……。)


 どんなに願っても、そんなことは期待できないと、もう分かった。


 煌めく水面をはさんで向こう側に見える、桟橋からこちらを覗き込む、醜い笑顔の婚約者と親友だったモノ。


 ゆらゆらと輪郭が揺れて、化け物に見えるソレは、本当に化物だったのだろう。


 私を、笑いながら突き落としたんだもの。


 死んでしまう。


 私は、死んでしまう。


(なぜ? どうして?)


 いくら頭の中を繰り返してもわからない。


 私の口から洩れた空気の泡が、水面を揺らし、2人の顔をさらに歪める。


 お気に入りの水色のドレスが水を吸い自分は沈んでいくのに、帽子だけ、ふわふわと水面に向かって登っていく。


 その対比に、絶望は深まっていった。


 苦しさも、どこかに行ってしまった。


 涙なのか、水なのか。


 世界は青く揺れて綺麗だ。


 素敵な婚約者だと、大切な親友だと思ったのに。


 ぽろぽろと、2人と過ごした大切だった思い出が、水の中に消えていく。


 出会ってから今日まで、2人とは大切な時間を過ごしてきたと思っていた。


 一緒に行ったお茶会に観劇。


 折々に渡されたプレゼントや花束、互いを思いやる素敵な言葉。


 毎年訪れる、我が家が保有する避暑地では、さっきまであんなに仲良く過ごしていたのに。


 わたしは、何故、1人水の底に沈んでいくのかしら。


 涙が湖に溶けて消えた。


 ぶわり、と、体に何か衝動を受け、あっという間に水が濁る。


 大切な思い出が、汚れていくように巻き上がる泥水が私を覆っていく。


 いつも一緒だったのに……学院のランチ、授業、忙しい仕事、朝晩の満員電車、放課後のお茶会。


 薔薇園での散歩、クソみたいなことを要求する上司。 浮気三昧の男にその浮気相手の後輩。


(あ……あら?)


 空を飛ぶ大きな飛行機、馬車よりも早い電車やバスを乗り継いで一人、見知らぬ土地で深呼吸をし。


(……え、なに……?)


 地元の美味しい土産物屋のお菓子と缶ビールを片手に、布団の中で読むスマホの異世界転生小説……


(まって、まってまって。)


 婚約者メダキ・ワウヤイ子爵令息と、その従姉で幼馴染のレズバ・アホア男爵令嬢、そして私、アンリエッタ・クロス伯爵令嬢は、いつも仲良く過ごしていた。


 婚約者として出会った次のお茶会から、乱入してきたレズバは、アンリエッタにお友達になりたいと言った。


 メダキもそれを望んでいて、それからはいつも一緒に過ごしていた。


 メダキと、アンリエッタの誕生日も、お茶会も、避暑地に行くのだって、いつも3人。


(「いや、完全に騙されてんだろ、アンリエッタ。 やり返せよ!」……って、思って読んでて……)


 濁った水の向こうに、その二人の姿は見えない。


 これから、アンリエッタが湖に落ちてしまったことを伝えに行くのだ。


 手に手を取って。


 口吸いを交わしながら。


 本当は、自分たちが突き落としたくせに。


 本当は、腹の底から高笑いをしているくせに!


 アンリエッタの空の棺にしがみつきながら、嘆き悲しむふりをする二人は、周囲の人々に支えられるように味方を増やし、互いに支え合い、結婚する。


 悲しみを乗り越えた二人を祝福する教会の鐘の音と舞い散る花吹雪。


 そんな二人を遠くから見るのは、奇跡的に助かったものの、記憶をなくしていたために家に戻れなかったアンリエッタは、彼女を助けてくれた男とそこを立ち去るのだ。


 自分も幸せになったのだから、と、すべてを許して。


(そうだった!)


 ガボッっと、口から大量の泡を吐き出した。


 急に苦しくなる、目の前がチカチカした。


(死んでたまるものですか! そして、絶対に許すもんですか!)


 身に纏う、重くなったドレスを、持っていた護身用の小刀で裂いて脱ぎ捨て、自ら這い出る。


 入り込んでいた水を吐き出して、酸素を吸い込んで、咳き込んで、えづいて。


 大きく息を吐いて空を見上げれば、綺麗な綺麗な青い空。


 目の曇りも、心のフィルターも拭われたような、美しくも残酷な、雲一つない青い空。


「私はアンリエッタ・クロス。 クロス伯爵家の長女、14歳、お父様はギロム、お母様はエリン……ここは、クロス伯爵家の避暑地の近くにある天使の池。」


 大丈夫、覚えている。


 物語のように、記憶喪失になったりなんかしていない。


「私はアンリエッタ・クロス。」


 息を大きく吸い込めば、まだ残っていたらしい水滴で胸が痛くなり、大きく咳き込む。


 あぁ、痛い、痛い、痛い。


 胸が、痛い。


 心が痛い。


「ふ……うふふふふふふふ……あははははははっ!」


 だんっ!


 四つん這いから、私は立ち上がった。


(あ~あほ臭い。)


 ここまで馬鹿にされなきゃいけなかった私にも、そんな私を長年バカにし続け、殺そうとした2人にも腹が立つ。


「……私はアンリエッタ・クロス。 メダキ・ワウヤイ、レズバ・アホア……。 あんたたちの事、絶対に許さない。 この痛み、苦しみ、そのままあなたたちに返すわ。」


 2人が向かって行ったであろう我が家の避暑地用の屋敷に一歩、足を踏み出した。

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